産湯稲荷神社
うぶゆいなりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】比売許曽神社(名神大 月次/相嘗/新嘗) 摂津国 東生郡鎮座
          (現在社)比売許曽神社

   【現社名】産湯稲荷神社
   【住所】大阪市天王寺区小橋町
       北緯34度40分0秒,東経135度31分34秒
   【祭神】宇賀魂命 下照比賣命 大小橋命 豊国明神
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が比売許曽神社の旧地とする説がある
        

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

比売許曽神社の旧地については諸説があってはっきりしない。当社が旧社地という説もある。
境内右手の一段低くなったところに建つ簡単な覆屋のなかに、古い井戸がある。当社社名の由来となった“産湯の井戸”で、昔は渾々と湧きだす清水が庶民の飲料水として使用されていた。
この井戸は神代に味耜高彦根命(あじすきたかひこね)が降臨して穿った清泉と伝え、日高清水・日高真名井といわれた。
其の後、大小橋命がこの清水を産湯としたことから産湯の清水・産湯の玉乃井と云われる。
仁徳天皇の頃は高津清水と呼ばれ、『摂津名所図会大成』に「水気軽く、佳味にして精鉄、外に溢れ、四時涸れることなし。所謂、逢坂増井よりも抜群にすぐれたちかや」とある。 近年水位が下がり、平成8年に有志により汲み上げ井戸として復旧す。


桃山跡

創建年代は定かではないが、比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)の旧境内地であり、大小橋命(オホオバセノミコト)の産湯の井戸の付近にあって産湯稲荷(うぶゆいなり)神社と称せられ比売許曽神社の摂社であったのを、天正年間に織田信長が石山本願寺を攻めたときの兵火によりことごとく鳥有に帰し、比売許曽神社は境外摂社であった牛頭天王社を現在の社地に遷し奉ったが、後年当神社の旧知に再び奉祀せられた。
寛政 8 年出版の摂津名所図絵に、この建物を押絵に記載されているので、寛政以前の建造であることは明らかである。これらの社殿、社務所は第二次世界大戦の戦災により焼失し、戦後の混乱期の昭和23年、篤志の寄進によって社殿が建立されたが、大阪市の都市計画により境内隣接地に公園が建設せられ周辺の様相が一変したのを機会に産湯稲荷神社復興委員会(昭和38 年9 月)が設立し、翌年7 月に新社殿、社務所が竣工するとともに境内地も整備された。
この産湯稲荷は俗に桃山といわれ、明治 38・39 年の頃までは大阪屈指の大桃林があった。さらに、この祠の南に真田の抜け穴と伝えられた跡もあった。
産湯稲荷神社の境内には「式内 比賣許曾神社御旅所」の石碑がある。比賣許曾神社は延喜式にも記載のある由緒ある神社で、現在は玉造の東、東小橋町にあるが、石山の合戦で焼かれて現在の場所に遷座する以前は、この地に祀られていたという。社記によると、当地の開拓神である大小橋命(おほおばせのみこと)は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の十三世の後胤で、ここ味原郷に誕生、境内の玉井を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。隣接していた「味原池」は、比賣許曾神社の祭神下照比売命(したてるひめのみこと)が天の磐船に乗って天降られた霊地とされている。

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桃山跡

この産湯稲荷神社のあたりの丘陵は桃山と呼ばれた。明治の頃まで広大な桃の林があり、大正八年(1919)に埋め立てられた味原池とともに景勝の地として知られていた。
大小橋命は、天児屋根命十三世後胤にし、人皇十三代の御代に味原郷に誕生し給ふ其所を字掃部屋敷とも藤原殿とも云ふ。
其時に玉の井を汲で産湯に用たれば、此處を産湯と云ふ。御父は中臣の雷大臣いかつおみ御母は紀氏清夫と申す。
三男子あり、長男は大小橋命なり、又は御味宿称とも申す、二男は意穂命と申し、三男は阿遅速雄命と申す。
神代の時に、大國主命の御子なる、味耜高彦根命天降の給とし霊地なれば此度味原とも小橋とも云ふ。

社頭石碑






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