第一代神武天皇が九州より難波津にお着きになった時、石山碕(現在の大阪城付近)に生島・足島神を祀られたのが当神社御鎮祭のはじまりである。 当初より大八洲の神霊として秦齋されたことは、延喜式所収の祈年祭祝詞にもその神徳を記しており、大地の守護神として尊崇されて来たのである。いわゆる「国魂信仰」の本宗とも仰がれた。 宮中では生島巫祭神二座として生島神・足島神としても祀られた。 難波の海辺で行われた八十島祭はこの両神を祀ったもので八十島神とは生島神・足島神である。この八十島祭では、勅使が天皇の「御衣」を納めた箱を持って難波の熊川尻の海岸で海に向かって「御衣筥」を開き、女官がこれを振り動かす儀礼である。「振る」のは魂振りで生命の根源である魂を振り動かす事であり、女官が「御衣筥」を振るのは即位直後の天皇すなわち生まれたばかりの日の御子の入った「ゆりかご」をゆらすのである。ゆらすことで足魂(咲魂)に成長するのである。荒魂から和魂へ成長するのである。 当社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。 明治維新以前の神宮寺は、志宜山法案寺(南坊)を本坊とし、他に医王院・観音院・桜本坊・真藏院・遍照院・萬茶羅院・地藏院・覧園院・持宝院の九ケ寺が境内に在り、南坊の僧侶が別当職として社務を管掌していた。 |
生国魂神社略誌 社伝によれば、第一代神武天皇が九州より難波津にお着きになった時、石山碕(現在の大阪城付近)に生島・足島神を祀られたのが当神社御鎮祭のはじまりであります。その後宮中にまつられ、歴代天皇ご即位の際に行われました八十島祭は、この両神をまつられたものです。平安時代の延長5年(927)に編纂されました『延喜式』という書物に、摂津国東生郡『難波坐生國咲國魂神社』二座とありますのが、すなわち当社のことであります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
難波座生國魂神社 難波座生國魂神社二座 並名神大月次相嘗新嘗 難波は奈仁波と訓べし、(日木紀、神武天皇戊午年二月丁酉朔丁未、皇師遂東、舳暖相接、方到難波之碕、会有奔潮太急、因以名為浪速國亦曰浪華、今謂浪華訛也、」生國魂は伊久久爾多麻と訓べし、(古事記上に、活玉前玉比売と申す神の在すが故に、混れて生国咲國ともいへるなるべし、宣長は、一本に、生國咲国魂ともあるは、此の活玉前玉にいよよよく合へりといふ、)信友は、生国魂咲國魂の二座也、其を常に生国魂社とのみ称せるなり、と云り、共に的当れるや否弁へず、能登国能登郡能登生国玉比古神社考へ合すべし、○祭神天活玉命、社説〇今按るに、神祇官に坐す生島神足島神にもやあらん、)○生玉庄に在す、(摂陽群談)今生玉明神と称す、○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、難波大社二座、(坐摂津國)同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、摂津國難波生國魂神社二座、』祈雨祭神八十五座、(並大)云々、難波大社二座、 類社 和泉國大鳥郡生国神社 神位 三代実録(貞観元年正月二七日甲申、奉授摂津国從五位下難波生國魂神從四位下、 官幣 三代実録、貞観元年九月八日庚申、難波大社遺使奉幣、為風雨祈焉、 造営 社家記云、(摂陽群談所引用)当社明応年中本願寺僧來此所而創寺院、以神地接境内矣、依斯神悪不潔爵彼僧也、于時懐神殿造営之宿祷而、令神主藤原吉勝告願辞也、数日後起寝床遂奉遷替神殿、其後信長兵焚之日殿閣悉為灰燼、纏以神璽遷別処、慶長年中秀吉築城郭之序遷今神地云々、 神田 社領 摂津志云、天正年中秀吉公加祭田、○当代社領御朱印高三百石 雑事 日本紀孝徳天皇巻云、天皇尊佛法軽神道、云々、注曰、劃生國魂社樹之類是也 神社覈録 |