赤留比売命神社
あかるひめのみことじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【現社名】赤留比売命神社
   【住所】大阪府大阪市平野区平野宮町2-1-67
       北緯34度37分20秒,東経135度33分31秒
   【祭神】赤留比売命
       赤留比売命の原態は巫女すなわち「祀る者」であり、「祀られる神」は天日鉾である。
       巫女である「祀る者」が「祀られる者」に昇華し祭神になった。

   【例祭】3月26日 例祭
   【社格】
   【由緒】不詳
       大正3年12月22日郷社杭全神社に合併飛地境内末社となる

   【関係氏族】
   【鎮座地】昔は平野流町の門外字中山にあつた
        寛文2年(1662)現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三十歩社」と称していた
   【社殿】本殿木造流造銅板葺
       拝殿

   【境内社】天満宮他二社

「三十歩神社」と称されることが多いが、杭全神社の飛地境内社であり杭全神社では「赤留比売命神社」と称している。平野公園内に鎮座し、もとは住吉神社末社5社の1であった。
俗称の三十歩(さんじゅうぶ)神社は応永年間(1394〜1428)干ばつのとき法華経三十部を読誦したところ霊験あらたかであったので、三十部神社がなまったものという。俗説では祭神が「三十町歩」の土地を三十歩と聞きちがえたためとも伝え、耳の神として信仰を集めた。またここは、秀吉の正妻北政所の所領であったときの会所跡ともいう。
古来祈雨の神とされ、住吉大社の末社となつて、6月30日の同社荒和大祓(例祭)に当つて、当地の坂上七名家よ9斎女を出し、桔梗の造花を捧げる慣例となつていた。この桔梗の献花は現在に至るまで継承されている。
比売許曽神社が外客接伴のために重きをなす以前は、住吉社または喜連の地で酒を給したと考えられ、中臣須牟地神社で醸した酒は、赤留比売命神に献る形で外客に給せられていた。



由緒(杭全神社)

由緒
平安の初期、征夷大将軍坂上田村麿の子広野麿が、杭全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子当道が貞観4年(862年)に氏神として素盞嗚尊を勧請し、祇園社を創建したのが第一殿である。
当社所蔵の「平野郷社縁起」によると、
「昔、坂上某に神託ましまして、我はこの郷の地主の神也。時の至るを待つこと久し、則ち山城の国愛宕郡八坂郷祇園の牛頭天王これなり、今よりこの郷にあがめ祭りなば安穏人民豊楽を守らんと宣ひ、まのあたり影向し給ひしかば、有難覚侍りて、勧請し奉りしと也。其の比影向し給へる所に生えたる松なればとて、今に残りて当社影向の松とぞいひ傳へ侍ける」とある。
降って、建久元年(1190年)に熊野信仰の流行するに及び、熊野證誠権現(伊ざ諾尊)を勧請建立したのが第三殿である。
同じく「郷社縁起」によれば
「抑當社に熊野證誠大権現の尊形遷座ましましけるは後鳥羽院の御宇建久元年3月3日、當社へ山伏一人笈を負ひ来り社僧にかたりて曰く、役の小角御手づから彫み給ふ熊野證誠大権現の尊形を付属すべし、當社牛頭天王とならべてあがめ奉りなば、此の郷を守らせ給ひ長く繁栄の地とならんといひ侍りしかど、社僧うけひかざれば、山伏跡をけちて帰り去りしが、當社より四五町東さるの方に有一本の松に彼笈をかけ置きぬ。其夜今の権現鎮座ますほとりへ此松より光をはなてり、笈かけ松とて今に残れるは是なり、加之その比當社の境内におゐて一夜に梛の木三本生出て烏三羽飛来り、人をもおそれず三本の梛にやどれり、今の世迄も梛を神木とあがめ烏を使鳥とするは是なり。其時人々奇異の思ひをなし松にかけ置し笈を開き見侍るに、微妙瑞嚴の尊形おはしましければ、身の毛もよだちて有難く覚へまぎるべくもあらず熊野證誠大権現と拜み奉りぬ、殊更種々の奇瑞ありしかば七名の長是をはかり、日あらずして社壇あらたにし奉り、尊形鎮座ましまして證誠殿とあがめしかば、貴賎心を傾け遠近歩を運び、神慮を仰がざるはなかりき」 と、證誠殿勧請の由来が記されている。
更に、元享元年(1321年)に熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建立したのが第二殿であり、この時、時の帝後醍醐天皇より「熊野三所権現」の勅額を賜った。
「郷社縁起」では、
「後醍醐天皇の御宇元亨元年、當社熊野権現影向の来由を天聞に達せしかば、叡慮浅からず詔勅ましまして、證誠殿の社再興ありて更に熊野三所権現を勸請し奉り、此一郷の總社にいはひ、若一王子等の諸社、熊野権現の本地阿弥陀如来安座し給へる寶搭以下の諸堂修造こと終り、華表の額熊野三所権現と宸翰をそめさせ給ひ、神宮寺社僧寶祚長久を祈り奉るべき宣旨を下し給ひぬ」 とあって、この時に荒廃していた諸殿・諸堂が修復され、詔勅によって熊野権現社が総社となって、権現社と呼ばれるようになり、第一殿の祇園社と並び称されるようになった。
明治になって、社号を杭全神社と定められ、本来の祇園社(素盞嗚尊・牛頭天王)を本社、熊野三所を雑社熊野神社とし、證誠殿を摂社、田村堂を別社その他を末社と定められた。
明治五年に社格を定められた時に郷社に列せられ、同三十九年に指定神社となり、同四十年に神饌幣帛料供進神社に指定された。
昭和五年に府社に昇格。そして、戦後は宗教法人杭全神社となり、今日に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




赤留比売命神社

当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。
 当地を開発した渡来氏族の氏神として、その創建は詳かでないが、平安時代につくられた延喜式神名帳に、当社が記載されている。
 俗に三十歩社と呼ばれるのは、古来から祈雨の神とされ、室町時代の応永年間(1394〜)に干ばつがあり、僧の覚証が雨乞いのため、法華経三十部を読経し霊験を得た故事によるとか、当時の境内地の広さが三十歩であったのによると伝える。
またかって住吉大社の末社であった由縁で、7月31日に行われる同社の例大祭「荒和大祓」に、当地の七名家より桔梗の造花を捧げる慣習となっている。
社殿背後の土塁と松山池は環濠集落の名残が見られる数少ない場所の一つである。

社頭掲示板



赤留比売命神社

赤留は阿加流と訓べし○祭神明か也○机全郷平野町東に在す、(旧は町南にあり)今三十歩社と称す、(摂津志)○古事記、(応神段)坐難波之比売碁曾社、謂阿加流比売神者也、(全文東生郡比売詳曾神社の條下見合すべし)

神社覈録



詳細ボタン


摂津国INDEXへ        TOPページへ



順悠社