神社の脇を竹内街道が通っている。住宅地の中に鎮座するが須牟地曽根神社の表示は無い。 もとは堺市蔵前町、現在の勝手明神の地にあったが、明治28年焼失し明治41年4月に当社に合祀された。 「金岡神社」では、本殿三社ある中で中央の本殿の祭神に「勝手大神」の名はあるが、「須牟地曽根神」の名は見えない。 境内に大楠が多くある。 |
金岡神社由緒略記 起源については記録の明らかなもの無きも伝説によれば光孝天皇仁和年間(今より1100年前)居民安全年穀豊熟を祈らんためこれを創立し住吉大神を祀りしが、のち素盞嗚命、大山咋命を配祀し更に一条院天皇の時に巨勢金岡卿を合祀し金岡神社と称することとなった。 本社は全日本における画聖「巨勢金岡卿」を祀る唯一の神社で金岡卿はいうまでもなく日本画の大祖である。清和、陽成、宇田、醍醐の四朝に歴任し大納言に至り宮中に召されて障子、屏風等に画を描いた。伝説によると本社の所在地は金岡卿の隠棲の地であって神社の東方約3000mのところに金岡淵即ち金岡卿筆洗いの池というのがある。河内名所図絵にもこのことが載せられてあるが、察するに金岡卿は晩年致仕の後にこの地に隠棲して丹青を楽しみ風月を友としていたのであろう。巨勢氏糸図ならびに古今著聞集などによると卿の略伝があるが卿がこの神社の祭神として祀られたのは一条天皇のみ代に勅命によったものであることが明らかにせられている。この点から考えてくるとこの地が金岡卿と古い縁故のあった土地であることが疑われない。大正末期から当社では御祭神である巨勢金岡卿の神慮を慰めるため毎年5月3日午前10時から「画神祭」を行ない式後社務所で席上揮毫会を開催している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
金岡神社 主祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命・素盞鳴命・大山昨命巨勢金岡を斎る。 この辺りは昔、河内国八上郡金太郷と上はれ河内絵師といわれる人々が住み、これらの人々は、優れた絵や彩色なとの技術を持ち、奈良の大仏殿の絵を書くなど活躍した。 その中て特に優れた金岡は、絵所長音といって絵の仕事をする役所で最高の位を極めた家原家の重要文化財行基菩薩行状絵伝も金岡の筆によると伝えられ、またこの地区に金岡が筆を洗ったという金岡淵という地名が残り、巨勢金岡ゆかりの地とされている。 巨勢金岡の業績を称え当社の祭神として祭っている。当社には、かつて顕正院という神官寺があったが、明治初年1868の神仏分離令により廃寺となった。 その後明治政府の神社合祀策により同40・41年(1907−1908)に南八下村の菅原神社・熊野神社・金峰神社・八幡神社・八坂神社二社・金岡村の長曽根禰・北八下村の河合神社・須牟地曽根神社・八坂神社三社をそれぞれ合祀した。 例年年5月3日に絵画・技芸の上達を願い画神祭が、10月10日には大祭が行われる。 社頭掲示板 |