式内楯原神社
しきないたてはらじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】楯原神社 摂津国 住吉郡鎮座

   【現社名】式内楯原神社
   【住所】大阪市平野区喜連 6-1-38
       北緯34度36分47秒,東経135度33分19秒
   【祭神】武甕槌命・大国主命
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇神天皇7年字楯原の地(現在の喜連西一丁目)に創祀
       皇后摂政11年楯之御前社は楯原神宮と改められた
       推古天皇15年(607)中臣鎌子勅使として参拝
       延元2年(1336)皇太子杭全郷に行啓参向
       文明13年(1481)現在の地に近く社殿を造営して遷座
       元和年間(1615〜24年)暴風雨で社殿壊れ、現在の地に鎮座
       明治5(1872)年村社
       明治40年1月神饌幣帛料供進社
       明治40年社名を元の楯原神社と改め復興


   【関係氏族】
   【鎮座地】崇神天皇7年字楯原の地(現在の喜連西一丁目)に創祀
        文明13年(1481)現在の地に近く社殿を造営して遷座
        元和年間(1615〜24年)暴風雨で社殿壊れ、現在の地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天神社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       祝詞殿・拝殿・絵馬殿

   【境内社】十種神宝社・稻荷社、楠社

街中の平地に鎮座する。
崇神天皇7年字楯原の地(現在の喜連西一丁目)に創祀、楯の御前社と称した。
大阪夏の陣の兵火にあい焼失した頃より付近にあった天神社を合祀しまた後に菅原道真も合祀したところから、天神社または天満宮と呼ばれるようになっていた。
これとは別に赤留姫命を祭神とする一五竜王社が境内社としてあり、これを奥の宮と称していたが。いつしかこれを楯原神社と呼ぶようになった。
明治40年、神社整理を機に、奥の宮と近くの八坂神社及び春日神社を合祀し、社名を元の楯原神社と改め復興した。
旧喜連村の北村某なる人物が所蔵していた「北村某の家記」という文書がある。神代から仁徳天皇の治世までは若沼毛二俣王、以後醍醐天皇の延喜17年(917年)までは息長真若麻呂、以後後小松天皇の応永19年(1412年)までは北村治良麻呂の撰と伝える。その内容は、楯原神社の由緒とその創建に関わった息長氏の事績を記している。


楯原神社

当社は社伝では崇神天皇7年の鎮座とされる古社で延喜式内の神社である。
いにしえは、もとの字楯原(現在の喜連西1丁目、近畿電波監理局敷地)にあったが、兵火に遭って現在の地に遷座し、桓武天皇の時(西暦800頃)字十五の竜王社を合祀し、境内別院として奥の宮と称した。
さらに、元和元年(1620)付近の天神社を合祀し天神社と称するようになり、楯原の社名は別院の奥宮に移った。(現在の奥の宮には十種神宝宮を摂社として遷座、日本最初の神宝で、十種の祓は大正3年内務省選定)
このため明治5年、式内の楯原神社は社格を得ず、併社の天神社が村社となる状況であったが明治40年、神社整理を機に現在の社名に改められた。
当社には万葉集にも詠われている息長家の碑が祀られている。
また、隣接の如願寺は当社の宮寺であったが、明治維新後分離した。
平野区役所

社頭掲示板



楯原神社

[由緒] 武邊槌大神は大国主大紳の教えに従い、国平の鉾を持って天下を巡行した後、この地に留まっていましたが、御孫大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりとして、また国平の鉾を大国主大神の霊代として齋き奉るように」と言い残して天昇り隠れました。
子孫の大々杼彦には、神武天皇が東征の途中紀国で大熊に悩まされていた時、齋き祀っている祖神のお告げにより剣を献上したところ、天皇は大熊を切り伏せ無事倭国へ入ることができました。
崇神天皇は、子孫の大々杼名黒に次のように言われました。「あなたの家に齋祀している武甕槌大神と大国主大神を同じ社で祀ることは畏れ多い。別々に神殿を造り、社名を称しなさい」そこで、字楯原の地(現在の喜連西一丁目)を選んで社殿を建立し、十握の剣を楯の御前社、国平の鉾を鉾の御前社として鎮め奉りました。
大々杼名黒は、仲哀天応の皇后息長帯女命が三韓御親征の時、お告げを伝えたところ、軍事がうまく行ったので、摂政は住吉御幸の時、楯の御前社と鉾の御前社の神籬を立てて祭られました。(これが住吉神社に其の社のある所以です。)皇后は楯の御前社と鉾の御前社に参拝し、その折、楯の御前社を改め、二柱の大神を楯原神宮と称し奉ることを奉告されました。
文明13年(西暦1481年)村侯民が城跡に移り住むに当り、神社も字楯原の地より現在近くに遷座されました。
元和年間(西暦1615〜24年)暴風雨のため社殿が壊れ、現在の地に新たに鎮座されました。
ところで、桓武天皇の頃(西暦800年頃)風水害が続いたので、赤留姫命を祭神とする一五竜王社を境内社として合祀していました。これは奥の宮とも称しましたが、大阪夏の陣の兵火にあい焼失した頃より、誤って楯原神社と呼ばれるようになりました。本来の楯原神社は、付近にあった天神社を合祀しまた後に菅原道真も合祀したところから、天神社または天満宮と呼ばれるようになっていました。天神社は、孝元天皇が大々杼彦の家に楯及鉾の御前社を拝しに来られた時、御真像を彫りこの郷に祀っていたものです。
こうして、明治5年、由緒ある式内社の楯原神社は、赤留姫命を祀る社と間違われたまま、天神社として村社に列せられてしまいました。 しかし、明治40年、神社整理を機に、奥の宮と近くの八坂神社及び春日神社を合祀し、社名を元の楯原神社と改め復興させました。
これが現在の当神社であります。
その後、昭和26年、東喜連の氏子の要望により、八坂神社と春日神社は元の場所へ分離遷座されました。
祭神
武甕槌大神
大国主大神
孝元天皇
菅原道真
赤留姫命
境内神社
摂社
十種神宝神社
末社稲荷神社
楠之社

由緒書




式内楯原神社の由来

楯原神社は、延喜式内の神社で、位置は旧喜連村の寺町にある。昔は字楯原にあって、建御雷命及び大国主命を祀っていたが、後兵火に羅って、今の所に遷座し 字十五の龍王社を合併し、境内の別殿に祀って、「総の宮」と称した。元和年間更に付近の天神社を合祀し後、亦菅原道真を併祀したが、俗に天満宮と呼び天神社と公称、いつしか本来の祭神は忘れられて菅原道真のみを祭神となす。楯原の社名は別殿の奥の宮に移って、龍王社の祭神、赤留姫は楯原神社の祭神と転じ、明治5年本社の天神社は社格を得なかった。これに反し別殿の楯原神社は村社に列せられて爰に全く並立の両柱となった。然るに神社合併の議おこり、明治40年9月村社楯原神社、村社東西神社(旧東喜連村にあり、素盞嗚尊、忍坂大中姫命合祀)及び無格社春日神社(旧東喜連村にあり、春日大神)を天神社に合祀した。
 かっては由緒ある楯原神社の社名を没するを以って同43年12月天神の東西春日の三社を楯原神社に合祀せられたるものが即ち楯原神社である。是より先明治40年1月、神饌幣帛科供進社に指定せらる。境内は四百六坪、本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、絵馬所、社務所などを有し、氏地は喜連全域であったが、昭和26年東喜連氏子一同の要望に依り東西春日の両社を同年8月7日元の東喜連に分離移転した。同時に地域氏子も分離した。
祭禮 夏祭 7月5日、例祭 10月15日

社頭石碑



十種之神宝

石上神宮の十種之神宝と称するところを、十種神宝社に奉齋する。
十種神宝は石上神宮に於て、天璽瑞宝十種と称し、沖津鏡・辺都鏡・八握剣・生玉・足玉・死返玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比禮を所謂鎭魂の具としたことが、天神本紀にみえるほか、同宮鎭魂行事の秘傳とされたところであるが、天正元年石上神宮は織田信長のために焼打にあひ、この時十種神宝も持出され、以後所在は不明となつてゐたものである。然るに何者かゞ之を保護してゐて、豊臣秀吉が聴いて生魂の森深く納め奉つたが、慶応三年に至り、「おかげまいり」の興奮の中で神宝は二度目の難を蒙り、生魂の森より姿が消えた。その後、町の古道具屋の店頭にさらされてゐたところを喜連に住む小林某なる人により発見せられ、買ひ求めて家に祀り、小林氏當地を去るに當つて、淺井家に預け、淺井家またこの地の旧家増池氏に預けたが、増池氏は昭和初年楯原神社に奉納し、社殿を建立して十種神宝社と称し奉齋するものである。

社頭掲示板



神宝十種宮略記

配祀神 布留御魂大神(十種神宝)は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊成れます。
瑞宝十種は、謂ゆる沖津鏡一つ、辺都鏡一つ、八握生剱一つ、生玉一つ、死反玉一つ、道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つにして神代の昔、饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって「若し痛む処あらば、十種神宝をして甲乙丙丁戌己庚辛壬癸一二三四五六七八九十と謂いて布留部由良止布瑠部、此く為さば死人も生き反えらん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。
其の御子、宇摩志摩治命は神宝を天皇に奉り、師霊の御前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代に?霊と共に石神布留の高庭に鎮り給うた。
付記
十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は其の昔永禄年間室町幕府の末期足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、そして永禄11年10月18日征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第十五代将軍となった。
然れどもすぐにその権力はなく信長の力にたよらねば何事も出来なかった。しかし義昭は将軍となるや大和の法隆寺、石神神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて味方につけようとした為に、当然信長と衝突した。かくするうちに天正元年義昭は公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み信長討伐にのりだした。
しかし信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。それ時、天正元年8月石上神宮も織田の武将達の焼打にあひ財宝はうばわれ十種瑞津神宝は持ち去られた。その後、天正10年信長は、本能寺に明智光秀に討れ、光秀又、豊富秀吉の為、山崎合戦に破れ天正13年秀吉天下を取るに至る。
石上神宮の神宝、十種瑞津の神宝は心ある士に守られて保護されていた。秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き餘りの有難さと現実の因果におどろき十種瑞津の神宝を生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。時は流れ徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應3年8月下旬、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとのうわさをきっかけに老若男女が気違いのように踊り狂い乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。鳴物入りで「ええじゃないか」のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。
これはかつての「おかげまいり」にみられた宗教的興奮が倒幕直前の政情不安に乗じて形をかえた。「世なほし」騒動の要素も交っており気にくわぬ地主や富豪の家に踊り込み暴れ廻った。そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の宮もおそれて暴徒のほしいままにされた。
其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて、生魂の森よりお姿が消えた。
其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを喜連に住む小林某なる人により発見され、買いもとめてこれを家にて祭れり。後小林氏当地を去るにあたり浅井氏に預け、浅井氏又、この地の旧家増池氏に預けられしが、増池氏敬崇の志厚く永代御灯明料共に神宝を式内楯原神社に奉納と社殿を建立し斎き祭るに至れり。
後に室戸台風にあひ、社殿はたおれ長らく拝殿に祭り居りしも、今里の庄司善雄氏(石上神宮守護職の子孫)が尋ね来り神宝を石上神宮にかえしてくれる様頼まれしもこの尊き神宝をかえさづにあたらしい社殿を建立してこれを末永く斎き祭るに至れり。
河内国河上の哮峯に天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり。
「之文歴史参照 庄司氏談話より」

社頭掲示板




楯原神社

楯原は多天波良と訓べし〇祭神詳ならず○杭全郷西喜連村に在す、今天神と称す、(摂津志)

神社覈録



詳細ボタン


摂津国INDEXへ        TOPページへ



順悠社