式内楯原神社
しきないたてはらじんじゃ


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【由緒】

中世楯原社並に行宮は北軍の兵火に罷り焼失した。文明13年辛丑(1481)現在の地に近くに社殿を造営して、字楯原の元の神地より遷座した。
その後、明応2年癸丑(1493)春3月、改築したが、元和年間暴風雨のため破損したので、新に現在地に社殿を営み遷祀するに至つた。
一方、元の社地には、字十五の龍王社を合祀し、別社殿を建てて奥之宮と称したが、これも元和の兵火に焼失した。
龍王社は、三十歩神社の赤留比売命の分霊を喜礼村十五に奉祀していたものである。
元和年間に附近の天神社を合祀して天満宮と呼び、菅原道真を併祀したが、何時しか楯原社の本来の祭神は忘れられて、菅原道真のみを祭神とし、楯原の名は別殿奥之宮に移り、龍王社の祭神赤留比売命が楯原神社の祭神と誤認せられるに至つた。
このため明治5年、本来の楯原神社である天神社は社格を得ず、別殿の楯原神社が村社となつて両社併立の形となつた。
明治39年、神社合併の議起るに及んで、村社楯原神社は、村社東西神社、および無格駐春日神社とともに天神社に合併することになり、明治40年9月12日合祀祭を行つた。


【式内楯原神社本殿】

式内楯原神社は、平野区喜連の旧集落のほぼ中央に位置する式内社である。
 本殿は大型の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、正面向拝の足元には浜床を据え、向拝上には千鳥破風と唐破風を付ける。
 屋根は現在は銅板葺であるが、もとは檜皮葺きであった。
 庇部分の虹梁形頭貫(こうりょうがたかしらぬき)、木鼻、海老虹梁(えびこうりょう)、蟇股などの形態やこれらに施された彫刻は17世紀初頭の特徴をよく示しており、建立年代をこの時期と考えることができる。
 向拝頭貫木鼻(こうはいかしらぬききばな)の輪郭は象鼻(ぞうび)を抽象化した古式なものであり、また高欄は当初のものが残っている。
 軒唐破風(のきからはふ)は18世紀後半頃に改修がおこなわれているが、それ以外はよく当初の形を伝えている。
 細部意匠は古式であり、彫刻類を多用しない身舎部分の簡素な構造は、市内に数少ない江戸時代初期の特徴をよく示すものとして貴重である。





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