仁和4年讃岐旱魃の時、国主菅原道真公が城山神に雨を祈ったのはここであり、延喜式内社城山神社は、もとこの地に祈られいたと云う。 |
明神原遺跡 史跡城山 明神原遺跡 ここ城山の東南に突出するこの山は明神原と呼ばれ、山頂の南側に鳥帽子岩といわれる巨石を正面に、その南左右に巨石がならび立ち中央は階段状に見える平坦空地がある。 古代、農業によって、村造りが行われた頃部落を見下す山頂の巨石・大木を憑代として、天より降臨する神霊を招き迎えて豊饒を祈る祭祀が行われたが、この明神原の巨石群はその配置から守を迎え祭祀を行う磐境であり、烏帽子岩は神霊の憑りつく磐座と考えられる。 伝えによりれば、仁和4年讃岐旱魃の時、国主菅原道真公が城山神に雨を祈ったのはここであり、延喜式内社城山神社は、もとこの地に祈られいたと云う。 また城山築城後はその守護神として祭祈されたと考えられ古代祭祀研究上貴重な遺跡である。 昭和51年10月 社頭掲示板 |
史跡城山 城山は地名からもわかるとおり古代山城の遺跡があり, 早くから国指定の史跡となっています。 また,一方で城山の城跡は城山長者の伝説と結びついていて,坂出の昔話として語り伝えられています。 城山は朝鮮式山城とも神篭石とも呼ばれていますが,今日では朝鮮式山城に類似する構造の城跡と考えられています。 朝鮮式山城は7世紀後半頃の朝鮮半島の政治的緊張に伴い,日本国内の防御体制を整えるために築かれたとされています。 城山の城跡は山頂の平たん部を中心に確認されており,平たん部から急斜面へと変換する地点付近には石塁・土塁が一重から二重に巡らされています。 車道(くるまみち)と呼ばれるこの遺構は,足の具合の悪かった娘を車に乗せて,長者が一緒に散歩したものだと語り伝えられてきました。 このほか,山中にはホロソ石・マナイタ石と呼ばれる奇妙な石製加工物が散在していますが,これらは幾つか存在したと考えられる城門の礎石ではないかと推測されていますが,ホロソ石一対とマナイタ石とで城門の礎石が組まれたなら,その数が足りないことや,その発見場所が全く離れていたりすることなど,不明な点が多く,破壊されたためではないかとか築造途中に放棄されたのではないかなど,諸説が考えられています。 いまだなぞに包まれた遺跡なのです。 明神原遺跡 明神原遺跡 この付近は,巨石が点在して小さな祠も置かれています。この場所が,国司菅原道真公が城山の神に祭文をよみあげて,雨を降らせて欲しいと祈った場所と伝えられています。 仁和二年(886年),都から讃岐の国府に赴任してきた道真公は,当時の讃岐が干ばつや飢きんにみまわれていて,人々の日々の生活が悲惨な状態だったため,降雨を城山の神に祈ります。 祭文をあげると見事に雨が降り始め,人々は大いに喜び踊ったとされ,後に念仏踊りの形で語り伝えられています。 城山の明神原は,かつては城山神社の位置していた場所ともいわれ,神が降り立つ場所として古来から磐境(いわき)として神聖視された場所です。 坂出市HP |