田村神社
たむらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】田村神社(名神大) 讃岐国 香川郡鎮座

   【現社名】田村神社
   【住所】香川県高松市一宮町286
       北緯34度17分11秒、東経134度1分39秒
   【祭神】倭迹迹日百襲姫命 五十狹芹彦命 (配祀)猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
       「国生神の児、水佐々良比古命の兄弟田村命」(栗田寛『神祇志料』)
       猿田彦大神『大日本国一宮記』
       五十狭芹彦命『北條記』

   【例祭】10月5-8日 例大祭
   【社格】旧国幣中社 讃岐一宮
   【由緒】和銅2年(709)神殿造立
       嘉祥2年(849)2月従五位下
       貞観3年(861)2月13日列官社
       貞観7年(870)10月9日正五位下
       貞観9年(872)10月5日従四位下
       貞観17年(880)5月27日従四位上
       貞観19年(881)3月4日正四位上
       承暦4年(1100)6月10日祓科せられる
       永万元年(1165)6月「御年貢進社」指定
       建仁元年(1201)正一位
       弘安7年(1284)7月の銘を有する扁額あり
       貞治2年(1363)3月細川頼之経藏寄進
       長禄4年(1460)細川勝元社殿造営
       天正10年(1582)長宗我部元親の兵火で焼失
       天正14年(1586)8月14日社領百石寄進
       天正15年(1587)12月朔日五十石の神領て寄進
       明暦元(1655)年3月造営
       延宝7年(1679)両部習合神道を唯一神道に改
       宝永7年(1710)造営
       明治4年5月14日国幣中社

   【関係氏族】田村氏(秦氏の流)
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】本来は「水」そのもの、あるいはその水を湧き出す「渕(泉)」を祀る
   【祭祀】江戸時代は「田村大社」「定水大明神」「一宮大明神」と称していた
   【公式HP】 田村神社
   【社殿】本殿
       奥殿・幣殿・拝殿・神腰殿・神庫・絵馬殿・手水舎・神門・社務所

   【境内社】宇都伎社・素婆倶羅社・厳島社・天満神社・地神碑
        殉國之霊碑・香川県海外開拓殉難者霊碑

   【境内図】 境内図
   【別当】一宮寺(真言宗御室派)旧大宝院

本殿の奥にさらに「奥殿」と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにあるとされている。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもつてこれを蔽つている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという。
「水」そのもの、あるいはその水を湧き出す「渕(泉)」を神とする信仰を核として、すくなくとも古墳時代末期にはこの地で祭祀が齋行され、奈良時代初期には、そこに社殿が造立されたと思われる。
社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。


由緒

田村神社略記
祭神
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと),猿田彦大神(さるたひこのおほかみ),天隠山命(あめのかぐやまのみこと),五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)(吉備津彦命(きびつひこのみこと)),天五田根命(あめのいたねのみこと)
以上五柱の神を田村大神と申す
倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女にましまし祟神天皇の御代国内疫病に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり仍て百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給ふ 後吉備津彦命(きびつひこのみこと)と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた 御陵(はか)は大和国城上郡大市村にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で箸(はし)の陵(みささぎ)と言はれてゐる
五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 四道将軍の御一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた
猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)御降臨の時天(あめ)の八衢(やちまた)に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である
天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと))と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
皇室武門武将の崇敬
当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅2年社殿を創建すとあり往古より田村大社定水(さだみづ)大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅からず 仁明天皇の嘉祥2年2月従五位下に叙せられ清和天皇の貞観3年2月官社に預り延喜の制名神大社に列し讃岐国の一宮たり以後屡々神階を授けられ建仁元年2月正一位の極位に敍せらる降って明治4年5月14日に国幣中社に列せられたり 爾来皇室国家事ある毎に勅使を御差遣あらせらる 古くは弘安7年7月後宇多天皇弘安の役の奉賽として「正一位田村大明神」の勅額を寄せられ明治4年11月、大正4年11月、昭和3年11月の大嘗祭には何れも勅使御差遣あり大正11年11月摂政宮殿下大演習御統監の為行啓には亀井侍従を御使として御差遣あり大正14年12月10日には北白河宮大妃殿下御参拝昭和9年4月5日閑院宮戴仁親王殿下御参拝同年5月22日梨本宮守正王殿下御参拝昭和25年3月四国行幸、同28年10月第八回国民体育大会行幸には夫々幣帛料御下賜等皇室の御崇敬洵に厚い 武門の尊崇も亦厚く貞和2年3月管領細川頼之領主たりし時には社域を拡築して一切経を奉納し長禄4年12月細川勝元社頭に壁書を掲げしめて神事を厳重に掟てなし降って天正年間仙石生駒二氏相次いで此の地を領するに及び夫々社領を寄進したりついで明暦元年3月松平頼重公国守に任ぜらるゝや社殿を修造して更に社領を寄進なし延宝7年に両部習合を廃し五十石の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於て早くも唯一神道の道を開かれた爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進し或は家宝を献ずる等その尊崇明治維新に至るまで変ることなかりき
当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先ず以て当社に祈願したりと云う

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




田村神社

祭神
倭迹迹日百襲姫命 猿囲彦大神 天隠山命 五十狭芹彦命(吉備津彦命) 天五田根命
以上五柱の神を田村大神と申す
倭迹迹百襲姫命は人皇第七代孝霊天皇の御皇女にましまし崇神天皇の御代国内疫病に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功ありよって百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給 ふ後吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた 御陵は大和国城上郡大市村にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で箸の陵と言はれてゐる
五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 西道将軍の御一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた
猿囲彦大神は皇孫瓊々杵尊御降臨の時天の八街に出迎へて御教導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である
天隠山命は高倉下命とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命)と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
皇室武門の崇敬
当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅二年社殿を創建すとあり往古より田村大社定水大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅からず 仁明天皇の喜祥2年2月従五位下に叙せられ清和天皇の貞視3年2月官社に預り延喜の制名神大社に列し讃岐国の一官たり以後屡々神階を投けられ建仁元年2月正一位の極位に叙せらる降って明治4年5月14日に国幣中社に列せられたり 爾来皇室国家事ある毎に勅使を御差遣あらせらる 古くは弘安7年7月後字多天皇弘安の役の奉賽として「正一位田村大明神」の勅額を寄せられ明治4年11月、大正4年11月、昭和3年11月の大嘗祭には何れも勅使御差遣あり大正11年11月摂政官殿下大演習御統監の為行啓には亀井侍従を御使として御差遣あり大正14年12月10日には北白河宮大妃殿下御参拝昭和9年4月5日閑院宮戴仁親王殿下御参拝同年5月22日梨本宮守正王殿下御参拝昭和25年3月四国行幸、同28年10月第8回国民体育大会行幸には夫々幣帛料御下賜等皇室の御崇敬淘に厚い 武門の尊崇も亦厚く貞和2年3月管領細川頼之領主たりし時には社域を拡築して一切経を奉納し長禄4年12月細川勝元社頭に壁書を掲げしめて神事を厳重に掟てなし降って天正年間仙石生駒二氏相次いで此の地を領するに及ぴ夫々社領を寄進したりついで明暦元年3月松平頼重公国守に任ぜらる、や社殿を修造して更に社領を寄進なし延宝七年に両部習合を廃し五十右の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於て早くも唯一神道の道を開かれた爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進し或は家宝を献ずる等その尊崇明治維新に至るまで変ることなかりき 当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先づ以て当社に祈願したりと云ふ
社記の一節珍時録 高松藩寛永19年より 享保17年に至る記録
明暦元年12月一宮御普請仰せ出さる奉行は竹村斉庵なり借御普請掛り本社を取り崩し候処淵の上空木を受け数百年に相成り候故木腐り居申候に付取替に相成申候其時斉庵神官へ社の下の淵見度と申出候処神官種々断り候へ共是非見度由に付然ればと淵を見せ候処暫して水逆巻き上り其中より紅の舌を巻き三間斗の頭を上げ斉庵をにらみ申候斉庵夫より心地あしく相成駕籠にて帰り家内へ其仔細を言ひつつ死す其後御普請も半に相成候時淵の蓋の真中に二尺斗りの穴明き居申候其穴より鑿を落し込み候処暫して角に掛け差出すを大工恐れて足にて挟み取上候処忽に死す誠に生神の験有となり恐るべし云々
祭典
祈年祭 2月17日五穀の豊熟四海平安を祈らせらるゝ祭典なり
例祭  10月8日(元陰暦8月8日)一年一回執行の大祭にして神恩を報謝し皇国の繁栄を祈る 午后より神輿の渡御あり獅子舞は讃岐神事芸能中特色あるものなり
新宮祭 11月23日陛下が新穀を聞食ざるゝに当り二月祈年祭の五穀豊穣祈願に対し御礼の為行はるゝ農業感謝の祭典なり 以上は何れも大祭にして国弊社の時には幣帛供進使の参向あり
市立祭 4月15日(元陰暦3月15日)往古一切経会の日遠近より農工商の者社地に集まりて市を開きたるに由来し今日境内にては盛大な農道具植木市立あり
初夏祭 5月8日(元陰暦4月8日)例祭と同じく午后より神輿の渡御あり一年両度の神輿渡御は当社の特色なり
御蚊帳垂神事 5月8日初夏祭の夕御蚊帳を神座に奉る神事にして氏子の者此の夜より蚊帳を用ゐたり 若し之に先ちて用ゐる時はその一隅をはづすを習とせり
御蚊帳撤神事 10月8日例祭の日神輿波御の後神座の御蚊帳を撤する神事にして氏子の各戸も亦蚊帳を廃す若し其の要あらば一隅をはづして用ゐるを例とす両神事は御祭神を追慕して行ふ床しい神事である
節分祭 2月節分の日大抜除疫祭を行ふ 鬼やらひ豆まき等の行事ありて賑ふ
御田植祭 7月半夏生に行ぷ当国稲作りの開祖神と仰がれる御祭神百襲姫命の御功業を追慕して行ふ
夏越祭 7月20日土用入当日茅の輪くヾりの神事を行ふ
建築物
奥殿本殿(春日造) 幣殿拝殿(入母屋造) 神撰殿絵馬殿社務所随神門神庫未社素婆倶羅社同字都伎社同厳島社等主たるものなり 奥殿本殿は共に宝永7年松平氏の造営する所にして御神座は奥殿にあり而してその前方は本殿に接続し御神座の床下に深淵あるは洵に社殿構設上の異例たり幣殿拝殿は明冶10年に再建せり
社地 境内六千八百五拾壱坪境外15717坪境外地はすべて農地たりしために今次の農地解放今に依り全面解放となる
未社
素婆倶羅社 主神に少名昆古那神を祀り左右に大年神塞神大水上神菅原神を配祀せり疫病治癒に霊験顕著なるを以て遠近に聞え客種の祈願奉賽する者甚だ多し陰暦6月24日を例祭とし春4月24日秋9月24日行ふ両度の講社大祭は盛大なり
字都伎社 大地主神倉稲魂神を祀る陰暦4月8日を例祭とす
厳島社 市杵島姫命を祖る陰暦6月16日を例祭とす
天満官 菅原道真公
宝物
永禄天正の間兵戦に罹り残存する物勘かれども古代鉾一ロ、神鏡四面(田村神社古神宝類として昭和41年6月11日重要文化財の指定を受く)、後字多天皇の勅額、弘法大師筆の扁額、細川勝元の壁書等著名にして此の他古錠甲胃刀剣馬具並に仙石秀久生駒近規松平頼常公以未の社領寄進状数十点を有す就中粟田口国綱波平行安順慶長光作の古刀(戦後没収され今はなし)讃岐明珍作の紺糸威肩白胴丸の鎧等は未だ世に知られざるも稀に見る逸品なり
史跡
花泉 境内の西端にあり社伝に依れば百襲姫命御手を洗ひ給ひし所なりと云ふ
袂井 境内の東方にあり百襲姫命此の地に御来臨の砌里人の奉る鳥芋を食せられ俄に熟病に罹り渇をうったへられた時に侍女袂を浸して水を奉りたる井なりと云ふ水清冽にして減々として渇きず今日猶稲田潅漑の水源地たるを以て田本井とも云ふ
休石 神社の東方三丁の所にあり百襲姫命嘗て憩はれたる石なりと伝へらる
天峰 現今香川町大野に属し神社を去ること南二十丁古の御旅所の跡にして田村大神が示顕せられたと云ふ深き由緒ある地なり
市場 古昔市立を行ひたる地にして神社の西方にあり今日地名上市場、下市場、横内として残れり
城 元大宮司の居住せし所にして神社の西北にあり今僅に旧趾を存す
社僧 一和尚大宝院大蔵院大善坊南陽坊西椿坊道場坊南の坊二和尚弥勒院般若坊北の坊宝光坊行泉坊南光坊宝称坊都て十四ケ寺ありしが今日大宝院大蔵院のみ遣り他の十ニケ寺は亡失せり大宝院は四国霊場八十三番札所なり
名木 相生松拝殿前にあり幹径二尺にして雌雄全く一なり然し雌松は既に枯れて今は漸く樹幹を残すのみ
更譲木 拝殿の左傍に古榎あり幹一にして梢両枝に分れ発芽毎に相前後して隔年に実を結ふよって更譲木と称す(枯死して今はなし)天保年中歌人の詠に「人は皆かくもせよとか瑞枝さす己が春をば譲合つゝ」
御手植松 大正14年12月10日北白河宮大妃殿下昭和9年5月22日製本宮守正正殿下の御手植なり
日曜市 毎日曜日に開市する田村神社なんでも市と称されて早朝より賑わう

由緒書



田村神社

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅2年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥2年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。

社頭掲示板



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