田村神社
たむらじんじゃ


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【由緒】

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅2年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥2年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。

公式HP



【見てはいけない深淵がある】

そんな水神様と関係する、興味深い伝説が田村神社には伝え続けられている。
それは奥殿の地下10メートル程に眠る"深い淵"だ。この淵の奥深くで湧き出ている出水には、龍神様が棲んでいるという伝説があり、田村神社の御神体となっている。つまりここが、田村神社の中心地なのだ。
しかもこの淵を見た者には、恐ろしい祟りが起きるという。
そんな奥殿の下に眠る淵は、もちろん見ることはできない。
淵を見てしまったものは、、、
では、実際に深い淵を見てしまった人はどうなったのだろうか?
江戸時代、田村神社の改築工事を命じられた武村斉庵(たけむらさいあん)という人が、当時の宮司に「淵を見たい」と言い出した。困った宮司は「どんな祟りがあるか分からない」と断ったが、それでもどうしてもと頼まれ、見せることにしたそう。
すると…淵から水が巻き上がり、中から龍が赤い舌を巻きながら頭を出して斉庵をギョロッと睨んだ!斉庵は気分が悪くなり、その日の晩に亡くなってしまったそうだ。
また、ある別の大工が工事中に誤って、淵の中にノミを落としてしまった。するとしばらくして龍が現れ、落としたノミを差し出してくださったそう。これを丁重にいただけば良かったものの、大工は驚いて足で蹴飛ばしてしまったらしい。この大工もたちまち亡くなってしまった。
現在、この龍が棲む淵に近付けるのは宮司のみ。掃除や神事の際に入るだけだ。
淵には蓋がされ、沢山の石が古墳のように盛られてあるそう。淵の中は見られないが、中から風が吹く音が確かに聞こえるらしい。

神社専門メディア 奥宮−OKUMIYA−



【田村神社古神宝類 重要文化財】

工芸品
指定区分  重要文化財
指定年月日 昭和41年6月11日
所在地   高松市歴史資料館(高松市昭和町一丁目2−20) 
解説
 (1)片添刄鉄鉾身(かたぞえばてつほこみ)一口 総長37.4センチ 身長20.2センチ 飛鳥時代以前
 袋穂の槍を「ほこ」とよび長い柄をつけ手にもち、又は投げつける武器である。本例は神宝鉾で祭儀用の武器であろう。鉄の鍛造(たんぞう)で両鎬(しのぎ)袋穂の片側に薙鎌(なぎかま)状の逆刺(さかさし)をつけている。身は剣状で両面鎬両刃であり、塩首(しおくび)で左右両方に尖(とが)り刃をつけ、表裏を蛤(はまぐり)形の柄頭が挟んだようにつくられている。袋穂の上中下の3か所に上下2段表裏にわたって袈裟襷(けさたすき)文の線刻を施している。この刻線は金又は銀を象嵌(ぞうがん)したと思われるが、剥落(はくらく)している。このような仕立てと袋穂の金象の意匠手法は、愛媛県の大山祗(ずみ)神社の神鉾に通じるところがあって、ほぼ同時代であろう。また、この鉾の手法、意匠は古墳時代の鉄製太刀とも似ている。
 (2)瑞花双鳳禽獣鏡(ずいかそうほうきんじゅうきょう)一面 径28.5センチ 平安時代初期
 唐鏡から和鏡へと鏡式がかわる過程で、中間の形式として瑞花双鳳鏡が残り徐々に和様化していくが、この鏡は極めて鋳上りのよい白銅円鏡である。鏡背の文様は、一條の圏線で内外区をわけ、内区には上下に唐花から、かわった瑞花を左右に双鸞(そうらん)から相対する鳳凰を配し、上辺の左右に走る麒麟(きりん)、下の瑞花の左右に飛んでいる尾長鳥を表わしている。外区には、飛雲と尾長鳥文を交互にめぐらせている。国内に似た例として、文様を異にするが、正倉院の走獣双鸞(そうじゅうそうらん)八花鏡や東大寺大仏殿出土の同文八花鏡及び山梨県諏訪郡霊洞沢(りょうどうさわ)出土の麟鳳(りんほう)八稜(りょう)鏡などがある。唐鏡に似ているが、簡略化された技法などから唐式倣(ほう)制鏡とみられる。
 (3)十二支八卦(け)文鏡一面 径21.5センチ 唐代
 蒲鉾縁(かまぼこぶち)の古くから近代まで用いられた円形鏡である。文様のある鏡背は、縁に沿って内区より一段高くつくり、そこに走駆する十二支肖(しょう)を右まわりにめぐらしている。内区の中央の紐を通す、つるみともいわれる鈕は、素鈕(そちゅう)で内外区の間にある圏線に接して八卦図を、その内側に卦文を配置している。このような背文をもつ鏡は隋鏡から唐鏡にみられ、のちに再版もあるが、この鏡は大型の白銅鏡で背文も、わが国の唐代倣製鏡にはみられないし、正倉院や東京国立博物館および日光男躰山頂出土例などに似た唐鏡があるので、唐代に制作された舶載鏡であろう。
 (4)素(そ)文鏡一面 径31.8センチ 奈良時代末
 白銅鋳製の大型の円形鏡、鏡背の縁は蒲鉾形で大きさに比べて最も外の部分の縁が低い。中央の鈕は小形の単純な形の素鈕で鋳上りのままである。胎面に鋳型の地肌がそのまま残っている。鋳上りのよい白銅鏡である。この鏡は圏線もなく胎面などから、平脱(へいだつ)若しくは螺鈿(らでん)を施すための生地(きじ)鏡の可能性がある。
 (5)素文八花鏡残闕(ざんけつ)一片 長径35.5センチ 奈良時代
 鋳上りのよい良質の白銅八花鏡で、最外部分の縁の断面は平縁で低く、文様のある鏡背には内外をわける圏線もなく無文である。鏡は中央の鈕の縁際から半分に割れており、このため鈕のある半分も欠失している。この鏡も素文鏡と同じく生地(きじ)鏡であろう。鏡を、神の調度品である御神宝として神に献じられた例は、春日大社、熊野速(はや)玉大社など多い。
〜 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』より抜粋 〜

高松市HP



田村神社

田村神社(たむらじんじゃ)
香川県高松市一宮町。旧国幣中社(現、別表神社)。田村神を祀る。社伝に倭迹々日百襲姫命・五十狭芹彦命・猿田彦命・天隠山命・天五田根命を祀るとする、和銅2年(709)に社殿を創建、それ以前は御神座直下の俗に底なしの淵といわれる定水井に浮筏をもってお供えし、祭祀が行われたと伝えられる。
嘉祥2年(849)従五位下をうけ、貞観3年(861)官社に列し、のち累進して、元慶元年(877)正四位上にのぼり、建久元年(1190)正一位の極位に叙される。延喜の制名神大社。讃岐国一の宮。弘安の役(1284)にさいして後宇多天皇を奉斎して「正一位田村大明神」の勅額を奉る。そののち貞和2年(1346)細川頼之社域を拡張し一切経を奉納、長禄4年(1460)細川勝元は社頭に壁書を掲げて神事の厳修を命じた。仙石秀久当国を領すると社領一〇〇石を寄進。
生駒氏松平氏のころ神領の増減あるも、明歴元年(1655)藩主松平頼重は社殿を修造し、延宝7年(1679)神仏分離を行い江戸時代初期はやくも唯一神道の道を開いた。
以米、同氏の祈願所として累代かわることがなかった。本社伝来の宝物の多くは永禄天正年間兵火にかかったが、片添匁鉄鉾身一口・瑞花双鳳禽獣鏡一面・一二支八卦文鏡一面・素文鏡一面・素文八花鏡残欠一面はいずれも国の重文指定。末社に素婆倶羅社・宇都伎社・厳島社ほか七社あり。例祭10月8日。このほか4月15日細川頼之当社に一切経を奉納し三日三晩転読したとき農商人社地に集まり市を開いたに由来し、農器具・植木・苗物市あり。、5月8日は御蚊帳垂神事で蚊帳を神座に奉る。10月8日神輿還幸後に蚊帳を撤する御蚊帳撤神事。
境内の東端にある湧水を袂井、境内の西端にある湧水を花泉、奥殿神座直下の深淵を定水井と呼ぶ。深淵ほ盛夏にも涸れることなく、本社を定水大明神と称するはこれによるという。湧水は今日も存する。御神座直下の定水井のみ湧水なく明治初年ごろまでは湧水ありと伝えられる。

神社辞典






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