有鹿神社
ありかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】有鹿神社 相模国 高座郡鎮座
          (旧地)有鹿神社(旧地)

   【現社名】有鹿神社
   【住所】神奈川県海老名市上郷宮畑 2791
       北緯35度27分12秒,東経139度22分38秒
   【祭神】大日霊貴命
       古縁起によると、大日霊
       『神社覈録』太玉命

   【例祭】7月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天平勝宝6年(754)8月12日郷士の藤原廣政の夢兆で神祠創立
       同8年(756)9月墾田五百町を神供料とする
       貞観11年(869)11月19日従五位上『三代実録』
       永承4年(1049)後冷泉院より仏舎利の奉納
       元弘の乱(1331)で社殿焼失
       応永23年(1416)別当総持院社殿造営
       天正3年(1575)4月別当総持院の住慶雄夢告で霊石を得る
       天正19年(1591)11月徳川家康朱印十石を寄進
       元和8年(1622)地頭高木主水正の内室が社殿再興
       元文4年(1739)4月再建
       明治6年12月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は相模原市磯部の勝坂
        奈良時代あるいはそれ以前に現地へ遷

   【祭祀対象】有鹿谷の泉は、縄文の水神信仰の対象
   【祭祀】
   【公式HP】 有鹿神社
   【社殿】本殿草葺
       幣殿・拝殿・社務所・水舎・鐘楼

   【境内社】日枝神社・諏訪神社・稲荷神社・天神社・神明社

有鹿小学校北に鎮座する。
相模国最古の神社といわれている。
相模原市磯部の勝坂遺跡には有鹿谷の聖地がある。谷の奥には清水の湧く洞窟があり、鳩川に流れ落ちる。その傍らの鳥居の奥に奥宮が祀られている。この地が旧地と云われている。
欽明天皇の御代(539‐571)、伊勢の国鈴鹿から座間に移られた鈴鹿神は多くの財宝を持ち豊かな暮らしをしていた。当時、相模国勝坂にいた有鹿神はそれを聞いて財宝を横取りしようとやってきた。争いとなり、急を聞いて駆けつけた諏訪明神と弁財天の応援で鈴鹿神が勝ち、有鹿神は海老名の上郷に追いやられた、という伝説が残っている。


有鹿神社

有鹿神社は相模国の最古の神社であリ、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。
最古の神社 はるか遠い昔、相模湾の海底の隆起により、有鹿郷を中心とする大地が出現し、やがて、そこに人々の農耕生活か始まった。その豊穣と安全を祈り、水引祭が起こリ、有鹿神社はご創建されるに至った。
式内社 奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、海老名に国府かあり、有鹿神社は、官社であった。天智天皇3年(664)初めて神事を行い、また平安の延長5年(927)延喜式の制定により相模国の十三座に列せられた。美麗な社殿と広大な境内を有し、天平勝宝8年(756)郷司藤原広政の寄進により、五百町歩の墾田も神領となった。
正一位の神階 貞観11年(869)、従五位上に昇階し、その後、教次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)、正一位の極位に達した。平安末期、海老名郷の河原口に館を築いた豪族の海老名氏は、有鹿神社を崇敬した。応永23年(1416)海老名備中守持李(宝樹抄弥)は社殿を修理し、宮鐘を奉献した。しかし、室町の二度の兵乱を受け、海老名氏か滅亡するに際し、美麗な社殿を始め、ことごとく灰燼に帰し、広大な神領も失った。
総産土神 江戸期には、海老名郷五ヶ村の総鎮守であり、天正19年(1591)徳川家康より朱印十石の寄進を受けた。天正6年(1578)神殿の修復がなり、元和8年(1622)海老名郷領主(高木主水)の内室により、社殿が再建された。
明治6年(1873)に至り、郷社に列せられ、海老名の総鎮守となった。
明治40年(1907)神饌幣帛料供進社に指定された。第二次大戦後、宗教法人となり、神社本庁に属する。現在も有鹿神社は、海老名市のシンボルとして篤い崇敬を受けている。
社殿は三棟一宇で、本殿をおおう覆殿・弊殿・拝殿からなる。本殿は春日造、桧板葺5.6uであり、元和8年(1622)を始めとし、数次の修繕を受け、今日に至る。拝殿の天井には、大きな龍の絵が描かれている。万延元年(1860)、藤原隆秀(近藤如水)の作といわれている。本殿と天井絵は、海老名市の重要文化財の指定を受けている。
海老名備中持李の奉献、元禄2年(1689)再鋳の宮鐘は、第二次大戦中に供出を受けたが、昭和53(1978)年の再鋳がなった。続いて、手水舎の再建、天神社の遷座、社務所の新築等、神社の整備が進められている。
由緒地
神社の境内は有鹿の森であり、松なしの森ともいわれる。境内に隣接して、有鹿姫の悲恋伝説に由来する有鹿姫の霊地がある。そこは鐘楼跡でもある。
神社の東方約400mの所に有鹿の井戸(化粧井戸)があり、その北方200m進むと、有鹿の池(影向の池)がある。又、神社の参道を南方約400m進むと、鳥居の跡地の鳥居田がある。そこから、河原口・中新田を通り、社家門沢橋に至る古道は、明神大縄という参道であった。社家は、神社の楽人の居住地であった。
相模原市磯部の勝坂には、有鹿谷の聖地がある。谷の奥には、清水の湧く洞窟(有鹿窟)があり、鳩川に流れ落ちている。この清水は有鹿谷の霊泉といわれ、古代から、海老名耕地を潤すため、水引祭が続けられている。この傍らの鳥居の奥に奥宮が祀られている。
海老名総鎮守 延喜式内社 有鹿神社

社頭掲示板



有鹿神社

祭神 大日璽貴命
由緒 有鹿谷の泉は、縄文の水神信仰の対象。
泉落ちる鳩川に沿い、海老名の大地が成り、農耕の豊饒と安全を祈り、水引祭が起こり、創建。
霊験あらたかで、奈良・平安の頃、相模国府の崇敬篤く、天智天皇3年(664)に祭礼、天平勝宝8年(756)、墾田五百町歩の寄進、貞観11年(869)、従五位上に昇階との記録。室町の大乱により、美麗な社殿と広大な境内を喪失。その後、再建成り今日に至る。
例祭7月14日
交通本宮・中宮は、小田急一JR線厚木駅徒歩13分奥宮は、相模原市磯部勝坂の有鹿谷
JR相模線相武台下駅下車徒歩15分

参拝のしおり



有鹿神社

御由緒
相模国の中原(チュウゲン)に位置する有鹿郷(現在の海老名市)の誕生と発展を物語る「総産土神」(ソウウブスナガミ)であり、神奈川県で最古の神社である。
生成期
太古の昔、相模の大地は海底にあったが、次第に隆起し、森林を中心としたみでなす大地が形成された。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、水神として人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川に沿って農耕生活が発展し、有鹿郷という楽園が成立した。この郷の水田(海老名耕地)における農耕の豊穣と安全を祈って、「水引祭」が起り、有鹿神社はご創建されるに至った。
発展期
奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、有鹿郷の中心に国府がおかれていた。国府の守護をする神社として有鹿神社は霊験あらたかな神社であり、天智天皇3年(664)、国家的な祭礼を行い、また、延長5年(927)、延喜式の制定により式内社に列せられた。広大な境内には美麗な社殿が建立されており、また、天平勝宝8年(756)、郷司の藤原廣政の寄進により、海老名耕地五百町歩が神領となった。
変動期
有鹿神社は貞観11年(869)11月19日、従五位上に昇階し、数次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)、正一位の極位に達した。平安末期から室町中期まで、海老名氏と地名を名乗る武士団は、海老名耕地を支配するよりどころとして有鹿神社を崇敬し、そのご神域にあたる国庁跡に居館を構えていた。
応永23年(1416)、海老名備中守持季(出家の後、宝樹沙弥)は社殿を修理し、宮鐘を奉献した。しかし、室町の二度にわたる兵乱の災を蒙り、海老名氏は滅亡し、有鹿神社も美麗な社殿をはじめことごとく灰燼に帰し、広大な社領も略奪された。
再生期
天正3年(1575)、海老名耕地の用水を守る「水引祭」が復興し、相模国五之宮、海老名郷総鎮守として、海老名郷に属する上郷、河原口、社家、中野等の人々から崇敬されていた。天正19年(1591)、徳川家康より朱印十石の寄進を受け、また、元和8年(1623)、海老名郷の領主高木主水の内室により、社殿が再建された。
新生期
明治6年(1873)、有鹿神社は県社に列せられたが、海老名の総鎮守として郷社にとどまり、明治43年(1910)、神饌幣帛料供進社に指定された。第二次大戦の後、宗教法人として神社本庁の傘下に属する。
氏子・崇敬者の崇敬心が篤く、宮鐘の再鋳と鐘楼の再建、手水舎の再建、天神社の創建、社務所の新築、玉垣の築造、社殿扉の修理、中宮祠の再建など、次々と境内・建物等の整備が進められた。
有鹿神社は、現在も海老名市はもとより、神奈川県の要(へそ)として、人々から篤い崇敬を受け続けている。
御寶物
本殿
社殿は、「本殿」をおおう「覆い殿」、「幣殿」、「拝殿」の三棟一宇からなる。本殿は、春日造、檜皮葺の5.6平方メートルであり、元和8年(1623)の再建以来、数次の修理を受けつつ、美麗な姿を今に留める。海老名市より重要文化財の指定を受けている。
天井の龍絵
拝殿の天井には、万延元年(1860)の頃、藤原隆秀(近藤如水)により豪快で精緻な筆法で龍の絵図が描かれている。これは海老名市より文化財の指定を受けている。これを模写した絵馬も作成されている。
宮鐘
応永24年(1417)、宝樹沙弥により、和泉権守恒光作の宮鐘が寄進されたが、明応4年の地震で破損したので、元禄2年(1689)再建された。250年にわたり、朝夕に美しい音色を海老名耕地に響かせた。宮鐘は、第二次大戦の末期に供出され、昭和53年(1978)再建された。
神輿
現在倉庫に保管されている古い神輿は、昭和13年(1938)7月の修理と記されているが、200年を超えるものである。
第二次大戦後、新しい神輿が製作され、現在も用いられている。
由緒書
永和3年(1377)の「有鹿明神縁起」と天正13年(1585)の「同続縁起」であり、現存している。
現存のものは、平成13年(2001)の『お有鹿様と水引祭』である。

公式HP



有鹿紳社 御由緒

有鹿神社(あるかじんじや)お有鹿様は、相模国で最古の歴史と高い社格を有する。
創成
遥か逮い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、これより硫れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が形成された。縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されて来たが、祢生の頃になり濃厚の発展に伴い、人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を起し、有鹿犬明神と称え、有鹿神杜をご創建した。有鹿谷の奥宮、鳩川中流の座間の中宮、相模川に合流する地の本宮である。
発展
奈良平安の頃、相模国府は有鹿郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け、相模国の延喜式内社中随一の社格を有した。天智天皇3年(664)、
初めて祭礼を行い、天平勝宝6年(754》8年(756)、藤原広政の社殿の修裡と墾田五百町歩の寄進を受け、貞観11年(869)、従五位上に昇階し、永徳元年{1381)、正一位の極位となる。広大な境内に美麗な社殿が建ち、条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大縄(参道)は、社人の住む社家を経て寒川に至り、一大縄は、相模国分寺に至る。
変動
やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり,有鹿神社は、豪族の海老名氏の崇敬を受けるに至った。その後、室町の二度の大乱を蒙り、海老名氏は滅亡し、美麗な社澱と広大な境内や社領も喪失した。
その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説(座間では、鈴鹿明神の創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、農耕を礎とした産業の発展を背景とし、水引祭の斎行により、海老名耕地の用水を守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。
現代
明治維新となり、県社に列せられたが、郷社に留まり、神饌幣帛料供進社となった。
第二次大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、水引祭を通し、瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守り続ける。
神奈川のへそ子育厄除大社として、海老名総鎮守、また、神奈川県の聖地である。
本宮
大鳥居の跡地(烏居田}から400m参道を進むと、鐘楼跡の有鹿姫霊地の碑を傍らに、松無しの有鹿の森が茂る本宮が鎮座する。島居の右側に手水舎、左側に鐘楼と神楽殿、正面に本殿を覆う覆殿・幣殿・拝殿の三棟一宇の社殿かある、本殿の建築と拝殿の天井の龍絵は、海老名市の重要文化財の指定を受ける、社殿の左側に日枝社、稲荷社、諏訪社の三社、また、杜務所側の東門近くに有鹿天神社が鎮座する。
中宮・奥宮
東方400mの地に有鹿井(有鹿姫化粧井戸)、更に、200mの地に有鹿池(有鹿明神影向池)があり、中宮が鎮座する。鳩川に沿って上流に進むと、相模原の磯部勝坂の有鹿谷には奥宮が鎮座し、その奥には有鹿の泉が今も湧き出している。

社頭掲示板



有鹿神社

有鹿は阿里加と訓べし、和名鈔、(郷名部)有鹿、○祭神太玉命、(風土記)○海老名郷に在す、(地名記)例祭 月日、○惣國風土記七十残欠云、相摸國高座郡有鹿神社、圭田五十七束八毛田、所祭忌部氏之祖神太玉命也、天智天皇3年甲子夏5月、初行神禮、
神位
三代実録、貞観11年11月19日壬申、授相摸國從五位下有鹿神從五位上、

神社覈録



郷社 有鹿神社

祭神 大日霊貴神
相傳ふ聖武天皇神亀年中の創建なりと、「三代實録清和天皇貞観11年11月19日壬申、授相模國從五位下有鹿神從五位上」と見え、延喜の制式内小社に列せらる、当國十三座の一なり、天平勝宝6年別当総持院僧弘叫再建せしが、元弘の乱に当り、旧記並坊舎兵焚の為め焼失し、社領亦掠奪の災に罹る、後天正年中別当総持院住清慶雄、大に其衰頽を嘆き、諸人を鼓舞して神殿を建つ、然れども旧観に復することを得ざりしと、明治6年社格制定に当り、郷社に列せらる、社殿は本殿、幣殿、拝殿、境内地は751坪、官有地第一種たり。

明治神社誌料



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