寒川神社
さむかわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】寒川神社(名神大) 相模国 高座郡鎮座

   【現社名】寒川神社
   【住所】神奈川県高座郡寒川町宮山3916
       北緯35度22分46秒,東経139度23分0秒
   【祭神】寒川比古命 寒川比女命
       『一宮記』「寒川神社八幡也」『諸國一宮神名帳』「八幡大菩薩」など八幡とする説多い
       度会延経『神名帳考証』『神名帳注釈』澤女神
       『惣國風土記』「所祭菊理媛也」
       『旧神祠記』「素盞鳴尊・稻田姫尊」
       『一宮巡詣記』「大己貴尊」

   【例祭】9月20日 例祭
   【社格】旧国幣中社 相模国一宮
   【由緒】雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられた
       天平神護元(765)建立ともいう
       承和元年(834)11月10日社殿再興
       承和13年(846)9月從五位下『続日本後紀』
       斉衡元年3月14日従四位下『三代実録』
       貞観11年(869)11月19日従四位上『三代実録』
       元慶8年(884)9月21日正四位下
       延喜16年(916)正月28日正四位上『扶桑略記』
       治承3年(1179)2月26日社殿再興
       寿永元年(1182)8月11日源頼朝政子の安産祈願
       建久3年(1192)8月9日再び安産祈願
       建保2年10月2日北條義時奉幣御使
       宝治元年(1247)8月14日奉神馬御剣
       大永2年(1522)社殿再興
       天文15年(1546)北條氏康社殿再興
       永禄2年(1559)2月12日北條氏社領を寄進
       天正19年(1591)11月徳川家康百石の朱印領
       正保3年(1644)9月社殿修補
       元禄10年(1697)11月造営
       寛保元年(1741)9月造営
       明治4年5月14国幣中社
       大正12年関東大震災社殿破損
       昭和2年11月国費により再興

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】社名の変更もなく祭祀は継承
   【公式HP】 寒川神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神饌所・神輿殿・神門・手水舎・社務所・参集所・参拝者休憩所

   【境内社】宮山神社

柳田国男氏はサムの古い意味を“清い”という意味で“聖なる”水の意味とした。本殿後ろの6−7mほどのところに1坪ほどの凹みがあり、大正年間に北方に工場ができるまでは豊富な水がここから湧き出ていたそうである。
当社の祭神については諸説があり、一定をみない。一に、寒川神といい、八幡神といふ。あるいは沢女神、菊理媛、素盞鳴尋・稻田姫尋、大己貴尊、寒川比古命・寒川比女命といわれる。
明治7年、教部省が『皇太神宮儀式帳』に載る末社牟瀰(むみ)神社の祭神が寒川比古・寒川比女であるから寒川神社の祭神も同じであろうという説を出し、明治9年にこの説を採用したという。


由緒

御祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)
御祭神二柱をたゝえて寒川大明神又は、寒川大神と奉称している。
御神徳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切生業の大恩神にましますのである。
而して悠久幾千年、国土国民、一切生業の守護神として、あらゆるものゝ生成化育発展充実を理想へと導びかせ給い、わけても古来唯一の八方除の守護神として、御霊験あらたかにましまし、地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事災難をとり除かせられ、福徳開運をもたらし、生活々動に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、御神徳は実に広大無辺にあらせられる。
因みに、当社の追儺祭に用いた弓箭は、五穀の豊穣・除災招福・健康長寿或いは子供の夜泣きに霊威あらたかなりと信ぜられ、武佐弓祭の神的に掛けた麻は、妊婦の安産・土木建築に、斎竹は水利水運・漁業航海に御加護しるく流鏑馬の的は、当るとの意味から、商売繁昌、勝負事の必勝に冥助を戴けると伝えられ、さては末社に白豆腐を供えて祈ると母乳に恵まれると云われ、御本殿裏の難波の小池を渫って雨乞をすると、慈雨降らざるなしと信ぜられている等、何れも古くから巷間に根強い信仰を繋いでいるが、これらはすべて涯しなき御神威の一端をそれぞれの由縁に因んで敬仰したものであって、ともあれ、いやちこにおはします御神徳の片鱗を物語るものである。更に、御鎮座地が、関東の中心東京の都心からまさしく西南坤の方角、いわゆる正裏鬼門に当っており更にその御本殿の正面が、西南方に向っていられることも神社建築中他に例の無い特異な存在として世に知られてるが、いずれも尊い御神慮によることと仰がれる。即ち東京都を中心とする関八州を背後にしてその裏鬼門の鎮めとなられて、この地に神鎮り給うのであって、目に見えるこの一事を以てしても御神慮のほどが偲ばれ心打たれるものがある。

御由緒
 関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。
即ち総国風土記によると、約1500年前雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあるので、当時既に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知られる。
以後桓武天皇の延暦7年5月をはじめとして、御歴代奉幣、勅祭を行わせられたことは史上枚挙に遑まがない。仁明天皇承和13年以来、数次に神階の奉授があり、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特に名神祭に預る名神大社にも列せられた。
斯く皇室の御尊崇厚きは勿論、一千数百年の昔から相模国の一の宮、総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝・北条義時・同重時等屡々社参神宝を奉納し、小田原北条氏も累代社殿の造替、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊に厚かった。後年徳川氏も亦代々社殿を再建、社領を奉る等武家の崇敬奉祀も鄭重を極め、明治初年、官国幣社の制定定まるや明治4年5月、国幣中社に列格せられた。昭和20年12月15日、神道指令により官国幣社の制度は廃止され、現在は神社本庁の別表に掲げる神社として崇敬されている。 

神域
 現境内の総面積は14285坪余りである。因みに往古の神領は現今の藤沢・茅ケ崎・寒川・海老名の三市一町に及び広大なものであった。

御社殿
 御社殿造営の沿革として記録に残っているのは、聖武天皇の神亀4年、称徳天皇の天平神護元年等で、今から1200余年前のことである。その後仁明天皇の承和元年及高倉天皇の治承3年等に造替せられ、更に源頼朝・北条氏綱・北条氏康等によって改築のことあり、以来徳川幕府や氏子崇敬者の寄進によって間断なく造替修復が行なわれ、往時の社頭の規模頗る広壮雄大であった。
現在の社殿及工作物は、国費と氏子崇敬者の浄財とによって、大正14年1月着工、昭和7年3月竣工したもので、御本殿以下建物21棟、神橋その他の工作物33件を数える。尚現在の一ノ鳥居は昭和4年相模鉄道株式会社の寄進によるものであり、二ノ鳥居は、明治5年、老朽し撤去したものを明治改元百年記念事業として、氏子崇敬者の浄財により昭和41年9月、再建され、高さ、16m・幅13m・直径1.6mの鉄筋コンクリート造りで関東一といわれている。

宝物
 社蔵の宝物には、古文書・御神宝・武器・什器等多数あるがそのうち主なるものを挙げると、
「武田信玄寄進の兜」永禄12年秋、武田信玄、小田原征めの時に参拝奉納したもので、明珍房宗の作、いわゆる六十二間筋兜で、重要美術品に指定されている。
「龍面」木彫彩色、古色蒼然刀法の冴えを見せた名作である。(牡牝二面)
「棟札」五枚のうち有名なのは大永2年9月吉日、北条新九郎氏綱と、天文15年3月吉日、平氏康と銘のあるもので何れも400余年前のものである。
「薙刀」伝早良親王御奉納の薙刀(約1200年前)
「翁の古面」古式田打舞神事の祭具であって、福徳円満形相秀美希代の逸品と称せられる。
「一之宮引付書」相模国の一之宮であることを証明したもので、往古より社蔵の重要文書である。
「神領寄進状」天正19年11月、徳川家康から先例により神領百石を寄進した朱印状である。尚その後歴代将軍のこれを認証した安堵状も悉く残っている。
「古墳発掘品」大神塚(おおじんずか)から発掘した鏡・曲玉・金環・直刀・鏃等多数あるが、何れも古代文化の研究資料として貴重視されている。

祭典
 恒例臨時の祭儀が一年を通じて数多く行われるが、その中には当社特有の古式祭として由緒深い祭儀も少なくはない。その主なるものを挙げると、
「月次祭」毎月1日・20日厳修。
「八方除祭・元旦祈祷祭」1月1日 午前零時、授与される八方除神札を神前に献備して、古儀によって祭事が行われ、続いて年のはじめに当り氏子崇敬者並び社会の福祉と平和とを祈る元旦祈祷祭が厳修される。
「追儺祭」1月2日 祭典は午後8時にはじまり続き社頭並に近隣の燈火を悉く消して、神職・副士日蔭蔓の兜を冠り、太刀・金木(かなてぎ)を帯び拝殿に進み追儺板を打つこと数百度、次に宝物数えの行事の後太鼓の音に合わせて『難波の小池』と高唱しながら社殿を三周して終り邪気災厄をはらう。神前に供えた黒木の弓・葦の矢は災難厄除の御守として遠近の参拝者競ってこれを戴く。
「武佐弓(むさゆみ)祭」1月8日 神前の儀に続き、斎場に懸けた古式の的に向い祢宜が神歌を微唱して、三度矢を射り今年の吉凶を占う神事。
「節分祭」2月節分の日 追儺板を打ち古式による神事が神前に於て行われ、続いて年男年女によって福豆と多数の福物とが撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。
「紀元祭」2月11日 日本国の建国を祝い、民族の興隆と発展を祈る。
「田打舞神事」2月17日 五穀の豊穣と産業の振興とを祈る春祭に続いて、社人が伝来の翁の古面を被り、耕田種蒔の形容をしながら神楽歌を謡って舞い豊年を祈願す。一名福種蒔とも云う。
「年参講大祭」4月上旬 御神徳を慕い講員一同相携えて参拝、御神徳を感謝し更に一層の御加護を祈る祭典で、奉納演芸等の催もあり折から境内の桜も咲きほこり連日社頭は殷賑を極める。
「国府祭(こうのまち)」5月5日 一名端午祭。当社二大神幸祭(浜降祭・国府祭)の一つで、中郡国府神揃山(かみそりやま)の祭場へ神輿渡御、早良親王夷賦征討の祈願に発し、一之宮寒川神社。二之宮川匂神社(かわわ)。三之宮比々多神社。四之宮前鳥神社(さきとり)。五之宮八幡神社の五社が参集し、各社粽その他の神饌を供え国家安泰、五穀豊穣の祈願を行う。祭儀中の古式「座問答」は有名である。昭和41年神奈川県無形民俗資料に指定された。
「夏越の祓」6月30日 神前に設けた茅輪をくぐり罪穢を除き、心身の清浄ならんことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め夏越祓を受ける。
「浜降祭」7月15日 「みそぎ」とも云う。午前3時に社頭発輿、途中加わる近郷各神社の供奉神輿二十余基と共に茅ケ崎南湖海岸に渡御、暁の渚に列をなして渡り、折からの旭光を浴びて壮観極まりなし。日の出に祭典を行って即日還幸。神奈川県無形民俗資料に指定されている。
「流鏑馬神事」9月19日 鎌倉時代より連綿の家柄の者が奉仕して来たが、昭和41年より武田流司家、金子有鄰氏が奉納。現在金子家教氏が継承し奉納する。神事は、武田流の流鏑馬に則って、天長地久の式、鏑矢奉献の式を行った後馬場に於て直垂装束で馬に乗り馳け抜けながら式の的を射ぬき、「天下泰平」「五穀豊穣」を祈願する。古くから「宮山のまち」と称し参拝者群参して雑踏する。
「例大祭」9月20日 寒川大明神の由緒ある日で、氏子・崇敬者は、御神徳を讃え日頃の御神恩に感謝する祭典であって神社本庁より遣幣使が参向し厳修される。当日は献華・献茶・献句・武道・演芸等の奉納があり、多数の参拝者で賑わう。
「秋祭」11月23日 新穀を神前に奉献し勤労感謝のまことを捧げる祭儀である。
「師走大祓」12月31日 悪事災難を祓い清めて新年の幸福と繁栄を祈願する。氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓を受ける。
八方除について
寒川神社は唯一の八方除守護神として、地相・家相・方位・日柄・厄除等に由来する一切の災禍を除かせ給う御霊験を戴かれるよう八方除神札の授与と、八方除特別御祈念とを行っております。
蓋し八方とは、東(卯)西(酉)南(午)北(子)の四方と、東北(艮)東南(巽)西北(乾)西南(坤)の四隅のことで、古来からこの八方を基本にして、これに陰陽五行、十干十二支九星八宮等を配当して、住居、方角運勢等の吉凶を判断しております。即ち家相方位の吉方に合するか、凶方に傾向するかによって、禍を転じて福となり、徳を滅して災を蒙る等、人生の寿夭、禍福、盛衰はすべてこの家相方位の吉凶順逆に支配されるのであります。しかし住居は科学的見地に則したものでなければなりませんが、種々の条件によって不可能な場合もあり、又家相学上理想的な建築は容易ではなく、ましてや既設の住宅に居住又は移転する場合いちいち家相方位に拘泥している訳にはまいりません。又九星五行循環の条理によって人各々年により、本命殺・暗剣殺・八方的殺(八方塞)・金神(こんじん)・鬼門塞り・歳破・的殺等の方位の祟り障りがあり、月により日によって吉凶があり、これらが人事百般の吉凶を支配して、人生の禍福・盛衰を将来すると云っても、あわただしい現代社会に生活する者にとっていちいちこれらの法則に従って、行動することは、むしろ不可能と云わなければなりません。そこで吾々が知らず知らずの間に、又知りながらも所謂方位を犯して旅行などし又日常生活を営み、家相に合わない家屋に居住し、転宅する場合等の一切の災厄祟禍を除かせ給うべく、寒川大明神に、御祈念を捧げ、八方除御神札を戴いて奉斎することによって、その家その家族の家相・方位・日柄等に基づく一切の悪事災難を免がれ、普請造作・縁談縁組・転宅旅行・開業就職・開墾種蒔その他何事によらず万事意の如く明朗快活な日々を送り、家業繁栄、福徳開運を招くことができるのであります。 八方除祈念には、小式以上永代式まで六式階がありそれぞれの式次第によって御祈念を厳修しております。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




国府祭

國府祭は5月5日に齋行されることから別名「端午祭」と称され、養老年間に起つたと傳へてゐる。この祭りは一の宮(寒川神社)、二の宮(川匂神社)、三の宮(比々多神社)、四の宮(前鳥神社)、五の宮(平塚八幡宮)、六所神社の六社によつて行なはれ、祭儀の中心は神揃山(かみそりやま)(中郡大磯町國府)での「古式座問答」、それに大矢(おにやば)場祭場での対面の儀式であらう。とくに座問答は有名で、この式は相摸國の國府創立の故事を物語つてゐるといふ。すなはち、一の宮が上座を占めると、二の宮がさらに座を上に進め、無言でこれを二〜三回繰り返すと三の宮が仲裁に入り、「いづれ明年まで。」といつて、この古式は終るのである。

式内社調査報告



寒川神社

当神社の創祀年代は不明です。雄略天皇(456〜479)の御代に奉幣、また神亀4年(727)社殿建立と伝える記録があります。初めての公の記録は、仁明天皇承和13年(846)神階従五位下を授けられたとの『續日本後紀』の記録で、爾来神階の授与が度々なされており、齋衡元年(854)従四位下、元慶8年(884)正四位下、延喜16年(916)正四位上と進階されました。
 また『延喜式』神名帳(927年編纂)によれば、相模国十三社のうち、唯一の名神大社とされております。
後には源頼朝、北條義時、武田信玄等の武将、徳川家代々の篤い信仰をうけており、いずれにしても千五百年余りの歴史を有する古社で、相模国一之宮とも称され、霊験あらたかな神社として現在に至まで信仰されてきております。
元国幣中社。現在は神社本庁傘下の別表神社。

公式HP



寒川神社

御由緒
御祭神 寒川比古命 寒川比女命 寒川大明神と総称する
例祭日 9月20日
前日祭 9月19日 流鏑馬神事
当神社の創始は古く日本総国風土記によれば今より約千五百年前雄略天皇の御代朝廷より奉幣のことが記されており、当時朝野遠近の敬篤く著名の大社であつたことが知られ。
後桓武天皇の延暦7年を始めとして歴代奉幣のことがあり、亦仁明天皇承和13年以来数次に亘り神階を奉授せられ、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛を奉せられておりこの地方の庶民信仰の中心をなしていた。
後世源頼朝、小田原北条氏累代、社殿造営社領の寄進等あり武田信玄の信仰も特に篤く徳川時代に至っては徳川氏社殿再建のこと亦社領の寄進等古家武門武将の崇敬は鄭重きわめるものがあつた。
明治4年3月官国幣社制度の制定せられるや国幣中社に列せられ国費を以て幣帛料御奉納あらせられたるも昭和20年12月神道指令により神社の国家管理を廃止され現在は神社本庁の神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている。

社頭掲示板



寒川神社

御祭神
寒川比古命(さむかわひこのみこと)寒川比女命(さむかわひめのみこと)
寒川大明神と奉称しています。
御神徳
寒川大明神は相模国を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた関東地方文化の生みの親神であり、生業一切の守護神として敬仰されています。
わけても八方除の守護神として、地相、家相、方位、日柄、交通、厄年等に由来するすべての災禍を取り除き、福徳開運をもたらす御霊験あらたかな神様として信仰されています。
御由緒
相模国を始め、関八洲総鎮護の神として古くから朝野の信仰が殊に厚く、およそ千五百年前、雄略天皇の御代に奉幣のことが記されており、以後御歴代の奉幣、勅祭が行われたとあります。
醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国唯一の大社と定められ、特に名神祭に預かる名神大社に列せられました。
御社殿
神聖なる神嶽山を背に境内は約一万五千坪、緑豊かな樹木に囲まれています。
神門、手水舎に続き平成九年十月、厳粛の中にも絢燗さに輝く銅板葺、総木曽檜造りの御本殿以下、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等が完成。
桜並木に続く二ノ鳥居はその大きさに目を見張ります。

由緒書



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