寒川神社
さむかわじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

寒川神社 さむかわじんじゃ 神奈川県高座郡寒川町宮山。旧国幣中社(現、別表神社)。祭神は寒川比古命・寒川比女命の二柱であるが、中・近世、八幡神(応神天皇)・素盞鳴尊・大己貴命・菊理媛・沢女神等の諸説を生じた。創祀は明らかでないが、『寒川文書』によると「一説ニハ天平神護元(765)季乙巳建立スル故ニ、号神護寺卜云、一説ニハ神亀4(727)季丁卯建立スルトモ伝、依之卯日ヲ吉事二用ル。」「承和元年(834)甲寅11月10日、社殿再興す」とある。『三代実録』元慶8年(884)には正四位下に、『扶桑略記』延喜16年(916)には正四位上の進階がみえる。延喜の制では相模国唯一の名神大社に列し、一の宮と崇められるに至る。武家の尊崇も篤く『吾妻鏡』に源頼朝が妻政子の安産祈願のため奉幣したことがみえ、社蔵の棟札によると北条氏綱は大永2年(1522)に氏康は天文15年(1546)にそれぞれ社殿を再興している。永禄2年(1559)北条氏は社領二七貫文を寄せられ、天正19年(1591)徳川家康は一〇〇石の朱印領を下付し、歴代将軍もこれを安堵している。例祭は9月20日で、前日流鏑馬祭が行われる。特殊神事は1月2日=追儺祭、1月8日=武佐弓祭、1月15日=田打舞とあるが、特に県指定無形民俗文化財の5月5日の国府祭(端午祭とも称す)は国府の神揃山へ神輿が渡御する。当国二の宮以下五の宮までの神興も順次著御し、一の宮と二の宮が互いに座をすすめ上座を譲らず、三の宮の神職が「いずれ明年まで」と申して終わる古式の座間答が有名である。県選択無形民俗資料の7月15日の浜降祭(みそぎとも称す)は、神輿が茅ケ崎の浜の祭場まで渡御する神事で、途中近郷神社二〇余基の神輿の奉迎がある。
明珍房宗作の伝武田信玄奉納兜一頭、田打舞に使用する翁の古面一面、伝早良親王奉納の薙刀等の社宝がある。なお、当社は八方除守護神として特に著名で三〇万人の崇敬者を有する。

神社辞典



【由緒】

寒川神社は、古くから関八州鎮護の神としてこの地方の名祠とあがめられています。具体的な創祀年代はわかっていませんが、総国風土記によると約千六百年前、雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあります。関八州とは、江戸時代における関東八カ国のこと。当時既に関東全域において、著名な神社として知られていたと考えられます。
寒川神社の正確な創祀年代は、現存する資料には記載されていません。ただし、雄略天皇(456〜479)の御代に奉幣、また神亀4年(727)社殿建立と伝える記録があり、少なくとも約千六百年の歴史を有することになります。
公の記録として残る最初のものは、仁明天皇承和13年(846)神階従五位下を授けられたと『續日本後紀』に確認することができます。以来神階の授与が度々なされており、齋衡元年(854)従四位下、元慶8年(884)正四位下、延喜16年(916)正四位上と進階されました。 また『延喜式』神名帳(927年編纂)によれば、相模國十三社のうち、唯一の名神大社とされています。
寒川神社の八方除は古くから全国に知られており、過去には源頼朝、北條義時、武田信玄等の武将、徳川家代々の篤い信仰を受けてきました。
伝承によると、武田信玄は永禄12年(1569)10月の小田原城攻めの際、寒川神社へ立ち寄り、兜を奉納し、信玄芝原で兵を休めた、という逸話が残っています。その際に奉納された兜は寒川神社に現存しており、神奈川県の重要美術品として指定されています。

公式HP



寒川神社

御祭神 寒川比古命・寒川比女命二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。
例祭日 9月20日(9月19日例祭宵宮祭・流摘馬神事)
由緒 当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457年〜479年)の御代に奉幣(天皇より神社に猷上品がされること)の記録があり、神亀4年(727年)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史を有しています。
以後、延暦16年(797年)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和13年(846年)に神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。
また醍醐天皇の御代に制定されました延喜式神名帳によれば相模国十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心をなしていました。 中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や杜領寄進がなされており、武田信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納されるなど特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家からの崇敬は極めて篤いものがありました。
明治期になりますと、明治4年5月に制定されました官国幣杜制度によって、例祭において国費から幣帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。
その後大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和20年8月15日、大東亜戦争の終戦後、同年12月の神道指令によって、神社の国家管理制度が廃止されました。昭和21年2月、神社神道の宣布と祭祀の執行による氏子の教化育成を目的として、全国の神社及び神社関係者を統合する神社本庁が設立され、当神社も神社本庁による包括神社となっております。
戦後、日本全体の復興ともに、八方除信仰を中心とした御神徳の宣掲に努め、全国の崇敬者からの御崇敬と多くの御参拝をいただいております。 社殿 平成の御大典記念事業として平成9年に御本殿、幣殿、拝殿、昇殿、廻廊等の増改築が行われました。
境内 神聖なる神嶽山を背に、一万五千坪有しており、平成21年には御本殿奥庭の禁足地を「神嶽簸山神苑」として開苑致しました。

社頭掲示板



寒川神社

関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。
即ち総国風土記によると、約千五百年前雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあるので、当時既に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知られる。
 以後桓武天皇の延暦七年五月をはじめとして、御歴代奉幣、勅祭を行わせられたことは史上枚挙に遑まがない。仁明天皇承和十三年以来、数次に神階の奉授があり、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特に名神祭に預る名神大社にも列せられた。  斯く皇室の御尊崇厚きは勿論、一千数百年の昔から相模国の一の宮、総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝・北条義時・同重時等屡々社参神宝を奉納し、小田原北条氏も累代社殿の造替、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊に厚かった。後年徳川氏も亦代々社殿を再建、社領を奉る等武家の崇敬奉祀も鄭重を極め、明治初年、官国幣社の制定定まるや明治四年五月、国幣中社に列格せられた。昭和二十年十二月十五日、神道指令により官国幣社の制度は廃止され、現在は神社本庁の別表に掲げる神社として崇敬されている。 
神域 現境内の総面積は一万四千二百八十五坪余りである。因みに往古の神領は現今の藤沢・茅ケ崎・寒川・海老名の三市一町に及び広大なものであった。

神奈川県神社庁



寒川神社 名神大

寒川は佐無加波と訓べし、和名鈔、(郷名部)寒川、(仮字上の如し)○祭神八幡大神、(一宮記)○宮山村に在す、(地名帰)例祭月日、○当國一宮也、(一宮記)〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、相模國寒川神社一座、○惣國風土記七十残欠云、相摸國高座郡寒川神社、所祭菊理媛也、雄略天皇16年9月、初奉幣帛、古來侶俗之談莫詣熊野多賀則有此社、往昔東奥之俗多詣此社、
○東鑑十二云・建久3年8月9日、早旦以後、御台所御産氣、云々、相摸國神杜佛寺奉神馬、云々、一宮、佐河大明神
神位
続日本後紀、承和13年、9月丙午、奉授相摸國無位寒河神從五位下、文徳實録、齊衡元年3月戊戌、加相模國寒河神従四位下、三代實録、貞観11年11月19日壬申、授相摸國從四位下寒川神從四位上、元慶8年9月21日戊寅、授相摸國從四位上寒河神正四位下、
社領
当代御朱印高百石

神社覈録






戻るボタン


相模国INDEXへ        TOPページへ