慶応大学西に鎮座する。 「ウツモチ」の「ウツ」は「ウチ」と同語であり、「モチ」は小さい盆地の意で、打戻の地形が小さな盆地を形成しているところから、この社名が付けられたという。 近世は「別当金剛院」によつて維持されていた。 |
由緒 鎮座地 藤沢市打戻2662番地 御祭神 天照皇大御神 稚産霊神 若日下部命 天照皇大御神は伊弉諾、伊弉冉二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で人々から敬われ、日神とも称え奉られた。 稚産霊神(わくむすびのかみ)は豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神であります。 若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。 祭日 9月15日 由緒 当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で21代雄略天皇の御代(西暦495年)に厳粛なる祭祀が行われたことが日本総風土記に記されている。なお風土記によると当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。 61代朱雀天皇天慶2年9月(西暦939年)、若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬(はつせ)より遷座して相殿に奉祀されました。 90代伏見天皇正応3年8月(西暦1290年)、鎌倉八代将軍久明親王の執権北條貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。 寛永4年11月(西暦1627年)、領主高木主水源正次が社地900坪(約3000u)を寄進し、また本殿の改築を行った。 震災当時の建物は安政5年(西暦1858年)に建築されたもので当時の記録によると本殿9坪(約30u)拝殿25坪(約82u)幣殿4坪(約13u)神楽殿20坪(約66u)であった。 また、当神社は明治6年12月に郷社に列せられた。 大正12年の関東大震災により、社殿等全てが倒壊したが村人一同の総力をあげた努力により倒壊後わずか3年、大正15年9月に総てが現状のように復旧した。 本殿神明造6坪(約20u)幣殿5坪(約16u)拝殿12坪(約40u)神楽殿16坪(約53u)参集殿15坪(約50u)神輿殿3坪(約10u)が再建された。 境内地は約一丁六反(約16000u)で全域風致林の指定を受け、また昭和49年、自然環境保全地域の指定を受けている。打戻字大平2009番地には溜池一反五畝(約150u)の社有地もある。 昭和20年春戦争中、物資回収が行われ釣鐘が献納され鐘楼に鐘がないまゝであったが昭和50年、天皇の即位50年を記念して氏子総意により鐘が再建された。 また、当神社の神輿は百数十貫といわれる豪華なもので毎年例祭日には氏子を始め近隣の崇敬者達多数により渡御が行われる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宇都母知神社 祭神 天照大御神 稚産霊神 若日下部命 由緒 創建年代不詳。総国風土記に雄略天皇の御代雄略3年(466)に宮祭を享け厳粛なる祭祀が行なわれた。また、61代朱雀天皇天慶2年(939)に大和国泊瀬より若日下部命の尊霊を遷座して相殿に奉祀された。鎌倉期正応3年(1290)、執権北条貞時が社殿を改築。寛永4年(1627)、領主高木主水源正次が社地900坪を寄進し、本殿を改築した。 例祭9月15日 交通JR辻堂駅、小田急線湘南台駅から神奈中バスにて「慶応大学前」下車徒歩10分 参拝のしおり |
宇都母知神社 鎮座地 藤沢市打戻2662 御祭神 天照大御神 稚産霊神 若日下部命 例祭 9月15日 由緒 当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で21代雄略天皇の3年(紀元129)に厳粛なる祭祀が行われ神饌巫所等も有りし由日本総国風土記に記されている。 なお風土記によると当神社の所在地相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。 61代朱雀天皇天慶2年9月(紀元1599)若日下部命(雄略天皇の皇后)の御尊霊を大和国泊瀬より遷座して相殿に奉祀されました。 90代伏見天皇正応3年(紀元1950)8月鎌倉8代将軍久明親王執権北条貞時が社殿を改築し同年9月に参拝された。 寛永4年(紀元2287)11月領主高木主水源正次が社地900坪を寄進し、また本殿の改築を行った。 明治6年郷社に列せられ大正元年9月神饌幣帛料供進神社に指定された。 大正12年の関東大震災により本殿等全てが倒壊したが村人一同の総力を挙げた努力により大正15年9月に総てが現状のように復旧した。 昭和51年天皇の即位50年を記念にて氏子総意により釣り鐘が再建された。 社頭掲示板 |
宇都母知神社 宇都母知神社(うつもちじんじゃ)は藤沢市打戻(うちもどり)の宮台にある神社です。 当社は、打戻の鎮守で、御所見地区で最も古い神社として歴史を重ねてきました。創建時期は不明ですが、平安中期(905:延喜5年)の「延喜式」神名帳に、相模国13座中のひとつとして社名が記載されていました。鎌倉時代(1290:正応3年)には、時の執権、北条貞時によって社殿が寄進されたこともあります。また、この神社の名前が地名「打戻」の元になったとされており、明治時代の「皇国地誌」によると、宇都母知神社がある村は宇都母知村を呼ばれていたが、いつの間にか読みが「うちもどり」に転じ、文字も「打戻」となったとされています。ちなみに、「うつもち」という名は「うつ=うち(内)」「もち=古語で小さい盆地」を意味し、小出川・打戻川とその支流によってつくられた小さな盆地という地形を表していると考えられています。 祭神は天照大御神・稚産霊神・若日下部命ですが、もともとは稚産霊神が祀られていたそうです。稚産霊神は五穀や養蚕を司る神であること、若日下部命は仁徳天皇の皇女で養蚕を盛んに奨励したとされていることから、かつての打戻の地は養蚕がさかんで、これと関係の深い神々が祀られたのでしょう。 社は、富士山を望める小高い丘の上に位置し、約5000坪(16000u)の境内を緑深い鎮守の森で囲まれています。敷地の南東隅付近には樹齢300年といわれる御神木の椎の木が、鳥居右手には古墳と伝えられる地形跡があります。 社殿などの建築は、1858(安政5)年に建てられた境内の建物が関東大震災で全壊し、1927(大正15)年に村人たちの多大な努力によって復旧されたものであると言われています。現在の神明造の拝殿・本殿と神楽殿はこのときに造られたものです。近年では、1875(昭和50)年、天皇即位50年を記念して鐘の再建が行われ、また、2002(平成14)年からの3カ年で参集殿・社務所、神輿殿、手水舎などが新築されました。 このように、長い歴史をもつ社は、現在でも打戻地区の鎮守として親しまれており、例大祭、うつもち収穫祭などが盛大に開催されています。 御所見まちづくり推進協議会 |