宇都母知神社
うつもちじんじゃ


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【由緒】

宇都母知神社の歴史は古く、平安時代中期にはすでにあったといわれている相模国十三社の一つとされています。
「日本総国風土記」によると宇都母知神社は西暦459年にはすでに存在し、祭祀が行われていたことが記されています。
雄略3年(459年)【古墳時代】
「日本総国風土記」に厳粛な祭祀を行う記載あり。
「相模国鷹倉郡宇都母知郷」に鎮座。
延長5年(927年)【平安時代】
「延喜式神名帳」に「相模国十三座(式内社)の内高座郡六座の内の一座宇都母知神社」と記載あり。
※「延喜式神名帳」には「宇都母知神社」の社名が記載されています。
天慶2年(939年)【平安時代】
第61代朱雀天皇の御代、大和国の泊瀬より若日下部命の尊霊を遷座し、相殿に合祀。
正応3年(1290年)【鎌倉時代】
鎌倉幕府八代将軍久明親王の執権北条貞時(得宗家)が社殿を改築し、9月に参拝。
寛永4年(1627年)【江戸時代】
領主高木主水源正次が社地九百坪を寄進、また本殿を改築。
この頃、「大神宮」・「神明宮」とも称す。
高木氏は、清和源氏頼親流で徳川家康の三河以来の家臣団の一人で旗本。
高木清秀公は本能寺の変後、家康関東移封に伴い相模・武蔵・上総三国内で五千石の加増を受け、文禄三年(1594年)相模国高座郡海老名に隠棲した。 三男正次公が家督を継ぎ、のちに河内国丹南藩一万石初代藩主として移封されている。
明治6年(1874年)郷社に列せられる。
大正12年(1923年)関東大震災によって御本殿が倒壊。
この御本殿は、安政5年(1858年)築
大正15年(1926年)御本殿等を復旧し、現在に至る。

公式HP



【由緒】

当神社は創立年代は詳らかではないが、延喜式内社で、二十一代雄略天皇の御代、(皇1119年 西暦459年)に厳粛な祭祀が行われたことか、日本続風土記に記されている。
風土記によると、神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。
六十一代朱雀天皇、天慶2年9月(皇紀1599年、西暦939年)若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬より遷座して相殿に奉祀された。
九十代伏見天皇、正応3年8月(皇紀1950年、西暦290年)鎌倉八代将軍久明親王の執権北条貞時か社殿を改築し、同年9月に参拝された。
寛永4年11月(皇紀紅2287年、西暦1627年)領主高木主水源正次が社地900坪(約3000平方米)を寄進し、又、本殿の改築を行った。
当神社は明治6年12月郷牡に列せられた。
大正12年9月の関東大震災により社殿等全てが倒壊したが、村人全員が総力をあげた努力により、倒壊後わずか三年の大正15年9月に全てが、現状のように再建された。
境地は一丁五反(約15000平方米)で全域風致林の指定を受け、自然環境保全地域に指定されている。
打戻字大平2009番地には溜池一反五畝(約150平方米}の社有地がある。
社務所参集殿等の建設を記念して、この碑を建てる。
平成16年9日吉日

社頭石碑



宇都母知神社

当神社は廷喜式内神社
延喜式は醍醐天皇延喜5年(西暦905年)に編慕をはじめ延長5年(西暦927年)完成、神名帳に記載された神社、3132座2862の神社を延喜式内社という。
日本総風土紀によると、当神社は相模の国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあり、宇都母知神社の御祭神は稚産霊神で雄略天皇3年(西暦466年)に祭祀が行われ神家巫戸等があったとある。
天慶2年(西暦939年)若日下部命の御尊霊を大和の国より遷座して奉祀された。
平安時代、大庭御厨が伊勢神宮の荘園領とされた。大庭御厨は永治元年(西暦1144年)のころには東は境川、西は相模川、南は相模湾、北は菖蒲沢辺りまての広大な土地となった。この地域には、天照大神を祀る神社が十数社あるが、当神社もこのころ、天照大神を合祀され、神明様と呼ばれるようになった。
正応3年(西暦1290年)8月、鎌倉八代将軍久明視王執権北条貞時が社殿を改築し、同年9月参拝された。これは文永の役(西暦1274年)・弘安の役(西暦1281年)いわゆる元寇の役の後、各地で異国降伏を社寺に祈ったが、正応4年(西暦1291年)には幕府の命により祈らせた。
寛永4年(西暦1627年)11月、領主高木主水源正次が社地九百坪を寄進し、本殿の改築を行った。
明治6年(西暦1873年)郷社に列せられた。
大正12年(西暦1922年)の震災により倒壊した建物は、文政5年(西暦1822年)に建築されたものて、本殿四坪・幣殿四坪・拝殿二五坪・神楽殿二〇坪であった。震災後の復旧に当たっては、震災復興記念誌に詳述されているが、略記ずると次のとおりである。
大正14年寒川神杜が改築されることとなったので、旧社殿の譲渡を受けるべく御所見村村長宮治彦次郎、泊瀬川斎治等が奔走したが旧社殿の譲渡は不確実になり、同年7月31日県指令一〇号をもって金2196円の交付を受けることになり、また、これと前後して神社復旧の御下賜材拾教石を賜った。このことにより急遽独自で社殿改築の声が上がり、総代五人・宮世話人五人・建築委員一五人が選任された。
建築用材として境内および保安林の中から縦・椎・杉・松等、約四六本の樹木が許可を得て伐採された。建築様式は神明造とし、内務省造神宮技師井上清考案により設計がなされ、棟梁は愛川村半原の森悦造が行った。
翌大正15年1月4日を期し、氏子より三年賦をもって三五〇〇円の寄付を仰ぐこととした。
しかし、総額六〇〇〇円を超える金額が寄付された。
氏子の方々は、自身の家の復興にも容易ならざる状況にもかかわらず多額の基金が寄せられたことは、各人が神社に対する並々ならぬ熱意の賜物であったと考えられる。ちなみに、当時の打戻の戸数は124戸であった、
神社の釣鐘は昭和19年、軍需用に供出され鐘楼のみが建っていたが、昭和50年、昭和天皇在位五〇年の記念事業として釣鐘の再建を行った。
神社の鳥居は、大正6年に、再建されたが震災で笠木が折れ、修理していたが再び危険であるとの声が上がり、老人会(会長宮治康彦)から鳥居新設の資企の一部として寄付をいただいたこともあり、御大典記念事業として平成2年9月に新票された。
神社ではこれまで井戸で水を賄っていたが、平成5年水道が敷設された。
戦後五十年伊勢神宮御遷座三千年の記念事業として境内社の菅原神杜の改築が平成8年に行われ、棟梁は井出金左衛門が行い、基礎工事は役員一同が連日奉仕し同年9月完成した。

由緒書き



宇都母知神社

宇都母知は假字也O祭神稚産霊命(風土記)○打戻村に在す、(地名記)例祭月日、○惣國風土記七十残欠云、相摸國高座郡宇都母知神社、圭田三十八束三畝二字田、稚産霊命之御鎮坐也、雄略天皇3年己亥9月、官宣嚴重而始行祭禮、有神家巫戸等

神社覈録



郷社 宇都母知神社

祭神 天照皇大神宮
   稚産霊神 若日下部王
創立年月及由緒群ならすと雖、廷喜の制式内小社に列せられたる古社にして、境内は延暦の度の除地なりと伝ふ、朱雀天皇天慶2年9月、大和国泊瀬より雄暦天皇皇后日下部王の霊を勧請して、相殿に奉祀す、(新編相模風土記に神体板に書く、立像にて鉾を策し、日の丸扇をさしかざし玉ふ)と見えたり、伏見天皇正応3年乙未8月、執権北條貞時、征夷大将軍久明観王の命を奉じて社殿を造営し、同9年将軍社参、降つて後水尾天皇寛永4年11月、時の領主高木正次再建し、社地九百坪を寄す、明治6年社絡制定に当り、郷社に列せらる、社殿は本殿、拝殿、境内地は495坪(官有知第一種)にして、村内中央の高地なり、老松繁茂し四境を蔽ふ。

明治神社誌料






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