深見神社
ふかみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】深見神社 相模国 高座郡鎮座

   【現社名】深見神社
   【住所】神奈川県大和市深見 3367
       北緯35度28分6秒,東経139度28分17秒
   【祭神】武甕槌神 (合祀)建御名方神
       『神社覈録』闇おかみ神

   【例祭】9月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】雄略天皇22年3月(485)の創祀
       寛政3年(1791)11月社号標建立
       明治6年12月郷社
       同8年隣地仏導寺の出火に類焼
       昭和16年11月15日社殿再興
       同17年3月25日改めて郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は現地の西南のオクラ稻荷のところに鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鹿島社」と称していた
   【公式HP】 深見神社
   【社殿】本殿神明造茅葺
       幣殿・拝殿・神饒所・神樂殿・社務所・水舎

   【境内社】靖国社・稲荷社

相鉄線路南、深見小学校東に鎮座する。
古代にはこの地まで海が深く入り込んでいた入江であり深見の地名が起こったとする。
縁起によると、武甕槌神は東国平定のため常陸鹿島におられた時、船を率いてここに進軍し、イザナキの御子、倉稲魂神・クラオカミ神の2神に当地を治めさせ、両神は深海を埋めて美田を築き郷を開いたという。これが深見の名の起源となった。境内拝殿西の御倉(オクラ)稲荷神社はこの両神を祀る。
拝殿西に位置する「おくら稲荷(宇賀之御魂・保食)」が本来だった様子である。
旧社地はこのオクラ稲荷の所に東面していたが、昭和16年現在地に再建された。
境内の靖国社は、もと厚木航空隊の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により深見神社に移築した。


由緒

参拝の栞 延喜式深見神社御由緒 一、御祭神 武甕槌神・建御名方神 
一、鎮座地 神奈川県大和市深見3367
一、例祭日 9月15日
一、由緒 深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約1500年前、人皇第21代雄略天皇22年3月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇龍神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総國風土記による)。 年移ること1500余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。 
明治6年12月、太政官布告によって郷社に列せられたが同8年、隣地仏導寺の出火に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳となった。明治42年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和15年9月3日炎上以来、実に五55ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇敬者の熱情は逐に昭和16年11月15日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同17年3月25日、改めて郷社に列格した。
尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和26年4月7日、鎮座祭を執行し摂社とした。(深見神社奉賛会謹誌)
一、御神木なんじゃもんじゃの木 樹令500年、周り4m、木の高さ43m、全国的に珍しい木である。
この御神木の北側御神木延喜の松があった。目通三丈五尺五寸(11m)、高さ百六十五尺余り(50m)、樹令1300年余り。白雉の頃植えられたと云い伝う。現在の御神木は延喜の松の下木であった。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




厚木空神社 石碑

第302海軍航空隊は昭和19年 4月 勇将小園安名司令のもと厚木基地に 雷電 零戦彗星 月光 銀河 の精鋭機を擁し 本土防衛部隊として編成された 同年11月 B−29来襲に始まる防衛戦闘において 302空は勇戦奮闘 昼夜を分かたず来襲する米空軍を迎え撃って B−29 P−51 F6F 等多数の米軍機を撃墜破する戦果を挙げ 小園部隊の勇名を天下に轟かせた 又終戦時 徹底抗戦を叫び世に言う厚木事件を起こした部隊としても知られている。
終戦に至るまでの戦闘において 数多くの隊員を失ったが 戦没者は海軍葬をもって 基地内の厚木空神社の祀られた 終戦後 同神社の神殿は大和市深見神社の境内に奉遷され 地元出身戦没者の英霊を合祀して靖國社となり 今日に及んでいる。
戦没者の霊を慰め 302空の名を永く留めるため この地に之を建てる

社頭掲示板



深見神社

祭神 武甕槌神 建御名方神
由緒 創建年代不詳。約1500年前雄略天皇22年3月(485)の創祀と伝えられ、当時より朝野遠近の崇敬篤く、中世源頼朝、武田信玄を始め太田道灌ら武家の崇敬、祭祀は鄭重を極めた。武運長久、勝利をもたらす護り神として、さらに、悪事災難をはらいやり開運招福をもたらし平穏な生活をお守り下さる大神様として、その御神徳を戴きもとめ、御加護を感謝する崇敬者のお詣りが多い。
例祭9月15日
交通小田急線、相鉄線大和駅から徒歩十分

参拝のしおり



深見神社

「深見」という地名は「倭名類従抄」(931−37)に相模国高座郡深見郷と記されており、市内の地名が初めて文献に登場したものです。しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めてかなり広い範囲を総称していたもののようです。
深見神社は鹿島社の別称がありますが、いい伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市内に所在している神社の中では唯一の「延喜式」神名帳(927)に掲載された延喜式内社となっています。
延喜式内社は全国では3132社あるが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当時の国の中枢である天皇家と直接結びつくものでありました。村の鎮守という一面と地方を代表するものという一面の両者を持っていたといえます。なお、境内には大和市指定重要文化財である寛政3年に建立された「深見神社社号標」と天然記念物であるハルニレがあります。
大和市教育委員会

社頭掲示板



深見神社

御由緒
御祭神
武甕槌神
建御名方神
例祭9月15日
当神社の創始は古く総国風士記によれば今より約1500年前雄略天皇22年3月創祭とあり朝廷より奉幣の事が記されてある。当時朝野遠近の崇敬篤く著名の社であった事が知られる。其の後桓武天皇の5月を始め歴代国司より奉幣の事があり更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国十三座の一社と定められ官社として扱われ国幣を奉られた。
毎年2月の祈年祭には神祇官の奉幣が奉られこの地方士民信仰の中心をなしていた。
後世源頼朝小田原北条、武田信玄を始め渋谷庄司重国太田道灌等の信仰も特に篤く徳川時代に至っては旗本坂本小左衛門重安寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣し社殿造営のこと亦社領寄進等古来武門武将の崇敬は鄭重をきわむるものがあった。
明治6年12月太政官布告により郷社に列せられたるも同9年隣地仏導寺の火災に類焼し荘厳なる社殿工作物等悉く焼失した。
明治42年村内諏訪社を合祀し諏訪社の祭神は当社の相殿となった。
昭和16年1月当社が再建されたるも昭和20年12月神道指令により神社の国家管理が廃止され現在は神社本庁に属しこの地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。

社頭掲示板



深見神社

深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第21代雄略天皇22年3月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
 当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇おかみ神の二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総國風土記による)。
 年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。
 明治6年12月、太政官布告によって郷社に列せられたが同8年、隣地仏導寺の出火に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳となった。明治42年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和15年9月3日炎上以来、実に55ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇敬者の熱情は逐に昭和16年11月15日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同17年3月25日、改めて郷社に列格した。
 平成24年3月本殿再建70年の節目を迎え社号標石建立と共に延喜式神名帳登載の御祭神闇おかみ神を御倉稲荷神社から本殿へ合祀した。
 尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和26年4月7日、鎮座祭を執行し摂社とした。

由緒書



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