大山山頂にあるのが本社・奥社・前社、中腹(大山ケーブル終点)にあるのが下社・拝殿(標高685m)。 大山は、またの名を「あふり山」(雨降山)という(古くは大福山といった)。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起こったと言われている。アフリは雨降りの略である。 山頂からは、縄文式土器(加曽利B式)や土師器・須恵器などが発掘されており、素朴な原住民達の信仰が原始時代から古代にかけて既にあったのではないかといわれている。 天平勝宝4年に良弁大僧正が入山して不動堂を建立、その後神仏習合・修験道の一大聖地となり山頂の霊石の由縁を以って石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号した。 江戸時代には「大山詣」が年間20万人にも達したという。 山頂にある本社は石尊社・石尊宮・石尊大権現宝宮とも呼ばれ、その神体は一大自然石である。 下社はもとの大山寺の本堂不動堂が置かれていたところである。 |
由緒 大山大観 大山阿夫利神社本庁 御由緒 大山阿夫利神社は大山の山嶺に三社がありまして本社は大山祇大神を祀り、摂社奥社に大雷神が前社に高おか神が祀られております。摂社両社は古俗に大天狗・小天狗、と称せられまして、本社の御霊体であり、底津磐根に鎮座して、高天原に千木高知り座しておられる天下の神蹟といわれているのが、両部時代より大山石尊大権現と称せられた祭神であります。 次いで大山阿夫利神社の由緒を述べればその御鎮座、神社創立は今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代と伝えられ古来より大山は山嶽神道の根源地であり一名を雨降山、古名を大福山と呼ばれて、標高1253メートルの山頂に本社があり、延喜式神名帖に登載せられており、式内社であります。天平勝宝4年(752年)に良辯大僧正が入山して漸く不動堂建立以来の時運は神仏習合の機熟し、堂塔僧坊を建て、霊石の由縁を以って石尊大権現と称し奉り、一山を挙げて雨降山大山寺と号した。 この号は神山の山頂に常に雨滴の点々たる霊木存するが故に名づけられたもので、今なお雨降木の名を以って残されている。 爾来数百年の間神職・修験・僧侶等混淆して、奉務したのでありますが、時には聖武天皇の勅願所となり、房相総3ヶ国の祖税を以って一山の費用に充てその報賽をおこたらなかったのであり然るに元慶3年大地震があって神火に遭い、一山悉く烏有と帰したこの時鎌倉の僧願行上人がこられて鋭意再興を計られたのであります。 元暦元年9月源頼朝は幕府所在国の霊社として特に社嶺を寄せて尊信し、崇敬厚く、徳川氏に至り、朱印黒印等を以って社領を157石を寄進せられた、又神地境域の内外に除地・山林200町歩を置き、殊に三代将軍家光公は18万両の巨費を献じて、本社以下摂末社を改築し、殿字の結構なることは勿論、崇厳を極め、一山実に12坊、8大坊をして管領せしめたものであります。 然るに安政年間の大火により、全山灰燼に帰し、昔の盛観全くなくなったのでありますが、鋭意崇敬者は再建に努力し、明治元年に至り神仏混淆が廃され同年10年鎮守府の命によって、石尊大権現ならびに大山寺の称を、廃止して阿夫利神社の旧号に復して、明治6年7月県社兼郷社と定められ、時の(初代祠官権田直助翁)続いて昭和27年8月、宗教法が制定せられ、阿夫利神社本庁として出発し神社、祀職、先導師、講社一連の組織を確立し、神道の実践と日本神社宗教の確立を計ることになったのであります。 御祭神 大山祇大神、高おかみ神、大雷神 大山の御神徳 御主神大山祇大神は又の御名を大水上御祖の神とも、大水上の神とも申し上げ、神威炳焉、生活の資源は勿論のこと、海運、漁獲、農産、商工業また又の御名を酒解神と称へ酒造の祖神とし御霊徳高く丹精を篭めて祈願すれば諸願一つとして成就しないことはない。 古来より神意の現れたことは度々で、天狗の来住する神山であるといわれ、大雷神、高O神もまた共に殖産・灌漑・桑蚕の生業を守護して、その神徳は明耀であり、生活に必要なあらゆる物資はみなその神徳によるものといわれる。 大山の霊験顕著なことは、また幾多の神異が克く人智では窺い知れないものを示しているのでも明確に知ることが出来る。境内外の摂末社は二十有余社の多きを数え神徳弥高く、神蹟もまた多い。 大山の祭祀 当社の祭祀は年中その数多く、1月1日歳旦祭また元旦奉幣祭は、元旦より7日まで講社員の登拝多く、崇敬者のために、その家運隆昌の祈願祭を執行している。 1月7日の筒粥祭は、その年の作物の豊凶を占し、同夜引目祭という古伝神秘の大神事を修する。これは宝祚の無窮と国土安穏の祈祷を修するのである。 2月節分の日には節分祭を行って、厄除祈祷を修する、この日は崇敬者の申出により年男を当山独特の儀式によって荘厳な、豆撒追難式を挙行する。 春季大祭は4月5日より20日まで毎日祭典を行い、山嶺本社の登拝を許可する。 4月25日には、当社歴代社司の霊を始めとして、講社物故者並に戦死者の霊を祀る祖霊社の大祭を執行し年々合祀柱数も多く、遺家族の参列者も登拝、関東の慰霊祭としてよく知られている。 5月5日には、当社附属能楽社特有の神事能があり、また5月中に「酒祭祈願祭」を執行し、併せて市販酒KI(ききざけかい)酒会を開催する。 夏季大祭は所謂開山季、夏山祭で7月27日より始め、この日に例祭を執行し、爾後20日間連日登拝する崇敬者が非常に多い。 秋季祭は8月27・28・29日の3日間行われ、27日に神輿渡御鹵簿粛々として下社を出発し、大山町々方の社務局境内の行宮に奉安して、当社に古くから伝わる大和舞巫子舞を奉奏するので賽者遠近よりの参詣者で賑う。 紅葉祭は10月20日より11月20日まで行う全山紅葉の錦衣に変る。 その他多くの神事があり、講社員又は崇敬者の祈願報賽には太々神楽舞、引目祭、鎮魂祭供饌奉幣祭等の別があるが、何れも各々受持先導師の斡旋によって、神職威儀を凝して奉仕し、霊験の顕著なことは、多くの人々が神思に俗していることで実証せられている。 無形文化財大山神楽舞 大山の神楽舞は明治6年権田直助翁大山阿夫利神社祠官に任ぜられてより倭舞巫子舞を孫一作氏をして奈良春日大社社家富田光美氏について習得せしめられ明治11年9月2日富田氏より阿夫利神社御祭典に之を奏進する事を許された。昭和29年県無形文化財の指定を受く。 大山の特殊信仰 当社古来からの特殊信仰に「納太刀」の慣習があり、昔源頼朝公が在国の霊社として崇敬の誠を捧げられて、毎年一度佩刀を当社の大前に供え、武運長久、諸災祓除の祈祷を修せられ、之を護身の太刀とせられたのに始まったもので爾来これにならって、一般の人々にこの慣習が伝わり、毎年登拝の折には木太刀を納めて、社頭に於て家運隆昌、諸災祓除の祈祷を受ける様になり、その木太刀を拝受して自家の神棚に奉斉し朝夕神徳を仰いでその翌年登拝の際新旧を交納し、専ら諸願成就報賽の至誠を捧げたのである。即ちこれによって実に立身出世、成功成就の祈誓と共に質実鋼健、克己尚武の気風を涵養したのである。 大山祭事暦 元旦奉幣祭 1月1日 崇敬者の家運隆昌を祈念する。筒粥祭 1月7日 その年の作物の豊凶を占う。引目祭 1月7日 病気平癒、国土安穏を祈る。節分祭 2月節分 開運厄除宝撒き。春山祭 4月5日〜20日 講中参拝。祖霊社祭 4月25日当社歴代の社司戦死者の霊を祀る。酒祭祈願祭 5月下旬 全国の酒造繁栄を祈る。 夏山大祭 7月27日〜8月17日 講中参拝。秋季例大祭 8月27日〜29日 神輿渡御。火祭薪能 10月1日・10月2日。紅葉祭 10月20日〜11月20日。神事能5月5日・8月28日。神輿渡御行列 8月27日・8月29日 (注)文中の高O神は祭神コード002713タカオカミノカミです。 (注)文中のKIは、「口」偏に「利」です。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大山阿夫利神社 御祭神 大山祗大神(オオヤマツミノカミ) 高オカミノ神(タカオカミノカミ) 大雷神(オオイカツチノカミ) 御主神大山祗大神(オオヤマツミノカミ)は、またの名を、大水上御祖神(オオミナカミノミオヤノカミ)とも、大水上神(オオミナカミノカミ)とも言い、神威炳焉(つまり、霊験あらたか、ということです)、生活の資源はもちろん、海運・漁獲・農産・商工業など、熱心に祈願すれば、成就しないことはありません。 さらにまたの名を、酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられています。 大山は、古来よりたびたび神意が現れ、天狗の来住する神山であるとも言われています。 大雷神(オオイカツチノカミ)、高オカミノ神(タカオカミノカミ)も共に、殖産・灌漑・桑蚕の生業を守護する神で、その神徳(いわゆる、御利益です)は明らかで、生活に必要なあらゆる物資はみな、その神徳によるものだと言われています。 多くの人智では計り知れない神異からも、大山の霊験あらたかぶりを窺い知ることができます。境内外の摂末社は20有余にのぼり、神徳は高く、神蹟も数多く存在します。 御由緒 大山阿夫利神社は、大山の山嶺に三社があり、本社は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)を祀り、摂社奥社に大雷神(オオイカツチノカミ)が、前社に高オカミノ神(タカオカミノカミ)が祀られています。 摂社の両社は、古くは大天狗・小天狗と言われていました。 底津磐根(ソコツイワネ 地の底です)に鎮座して、高天原(タカマガハラ 天上の神々の国のこと)に千木高知り座して天下の神蹟と言われているのが、両部時代より大山石尊大権現(オオヤマセキソンダイゴンゲン)と称せられた、本社の御霊体であり祭神です。 大山阿夫利神社の御鎮座、神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられています。 古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を大福山と呼ばれていました。 標高1253メートルの山頂に本社があり、延喜式神名帖に登載されている式内社です。 天平勝宝4年(752年)に良辯(リョウベン)大僧正が入山してようやく不動堂建立以来の時運到来、神仏習合の機が熟し、堂塔僧坊を建て、霊石の由縁をもって石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号しました。 この号は、神山の山頂にある、常に雨滴がたたえられている霊木にちなんで名付けられたもので、今なお、雨降木の名をもって残されています。 以後、数百年の間、神職・修験・僧侶などが入り交じって奉務することになりました。 聖武天皇の勅願所であった時など、房相総3ヶ国の租税から一山の費用をまかなうなどして報賽(祈願成就のお礼参り)を欠かさなかったものですが、元慶3年、大地震があって神火に遭い、一山すべてが無に帰してしまったのでした。 その時、鎌倉の僧、願行上人が来られて、再興を計られたのです。 その後、元暦元年9月、源頼朝は幕府所在国の霊社として、特に社嶺を寄せて篤く信仰しました。 徳川氏の時代になってからは、朱印黒印などをもって社領157石を寄進、また、神池境域の内外に除地・山林 200町歩を置いたりしたのですが、中でも三代将軍家光公は、18万両の巨費を献じて、本社以下、摂社末社を改築し、実に12坊8大坊でもって一山をとりしきらせることとしました。 ところが、安政年間の大火で全山が灰燼に帰してしまい、以前の盛観はまったくなくなってしまいました。 崇敬者は再建に努力し、明治元年、神仏混淆の廃止・同年10月の鎮守府の命によって、石尊大権現らなびに大山寺の称を廃止して、阿夫利神社の旧号に復し、明治6年7月、県社兼郷社と定められ(初代祠官権田直助翁)、続いて昭和27年8月、宗教法の制定により阿夫利神社本庁として出発、神社・祀職・先導師・講社一連の組織を確立し、神道の実践と日本神社宗教の確立を計ることとなり、現在に至ります。 公式HP |
大山阿夫利神社 祭神 大山祇大神 高お神 大雷神 由緒 創建を十代崇神天皇の御代と伝える。天平勝宝4年(752)良弁大僧正が入山し漸く神仏習合の機熟し、一山を挙げて雨降山大山寺と号した。源頼朝特に社領を寄せ、降って足利・上杉・北条の諸氏も神領を寄進。徳川氏もまた社領百五十七石、山林二百町歩を累代寄進。 殊に三代将軍家光は十八万両の巨費を献じて本社以下摂末社を改築し、殿宇結構壮厳を極めた。 然るに安政年間大火に依り全山灰燼に帰し、鋭意再建に努め明治元年神仏分離し、一山往古の神山に復し阿夫利神社と称する。 例祭 7月27日(夏山開き大祭〕 8月28日(秋山例祭) 交通小田急線伊勢原駅下車バス大山行き25分 参拝のしおり |
大山阿夫利神社の御祭神 大山祇大神 大雷神 高おか神 当阿夫利神社は、海抜1,252mの山頂に本社があり、現在地の下社御拝殿は700mに位置し古くより信仰活動の中心霊場であります。 神仏習合時代には石尊大権現とも称せられ堂塔は善美を尽くし、その威容と盛観を誇った社殿でありましたが、安政元年12月晦日と明くる正月2日二度にわたる山火事により一切を烏有に帰し取敢えず仮殿が再建されました。明治33年に至り時の内務大臣男爵末松優澄の認可を得て下社御造営事業が着手されましたが、諸般の事情から本殿のみが装いを新たにいたし遂に御拝殿は手がつかぬまま大正12年の関東大震災の厄に遭遇・幸いにして倒壊は免れましたのでその災害の応急的修理をして今日に至りました。 昭和48年講社崇敬者の□誠により御造営奉賛会が設立され、五ヶ年の継続事業として御拝殿の建設が着手されました。昭和52年10月オイルショックと呼ばれる経済界の一大難局をのりこえ、崇敬者の浄財が結集され明治以来の悲願は見事に達成、荘重優雅な流れ造り型式の社殿として清楚秀麗、昔日の面影をしのぶ近代建築を以て竣工を見たものであります。 山□幽遂の中新拝殿は神気が満ち自ら身のひきしまるを覚えます。皆様本日は遙々とよくご参拝下さいました。どうぞ俗界をはなれた当社の境域より霊気と共に相模平野を一望し遠く房総、伊豆七島の雄大な展望を十二分に御満喫下さい。 ご一家の無事息災、ご家内の安全繁栄をお祈りいたします。 社頭掲示板 |
片開きの「登拝門」について 大山は、古くより霊験あらたかな神体山として崇敬を集めているお山でありましたため、明治初年の神仏分離までは、この登拝門は夏の山開き大祭(7月27日〜8月17日)期間以外は固く閉ざされ、山頂への登拝は禁止されていました。 登拝門の鍵は遠く元禄時代より、280年に及ぶ長い間、大山三大講社の一つである東京日本橋のお花講が保管し、毎年7月27日の夏山開きには、お花講の手により扉は開かれる慣例となっており、現在もその精神は連綿として継承されています。 その後、明治20年には登拝者の増加に伴い、春山開き大楽(当時は4月5日〜15日) が新たに設けられ、この期間も山頂登拝が出来得ることとなり、山頂登拝の規制は徐々にゆるめられました。 更に、みのげ・日向・ヤビツ峠方面等の表参道以外よりの登山道が開かれると共に、昭和40年には国定公園に指定をされ登山者は急激に増加いたしましたので要望にこたえて、現在では年間を通して常時庶民の山として登拝門は開かれるようになりました。 然し、その結果は、必然的に登拝門の伝統的意義と性格が失われてまいりましたので、ここに往時をしのびつつ登拝門のもつ史跡としての重要性を考え合わせて、一枚の扉のみを閉じて片開きといたし、その名残をとどめることといたしました。 よろしくご理解の上、ご登拝下さるようお願いいたします。 ●頂上参拝をされない方は、当所より遥拝して下さい。 社頭掲示板 |
大山阿夫利神社 御祭神 大山紙神 高おか神 大雷神 大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起ったこいわれる。 標高は、1251.7mで、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は,丹沢山塊東端の独立峰となっている。 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国御岳(国の護りの山)・神の山として、あがめられてきた。山野の幸をつかさとる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1,000年頃の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣の社となった。武家が政冶をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。 引目祭・簡粥祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のままに伝承されている。 全山か四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望も素晴らしい。都市に近いため、多くの人達に親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない。 昭和57年11月3日(平成10年10月吉日 修復) 伊勢原ライオンズクラブ 社頭掲示板 |
大山大観 大山阿夫利神社 大山祇大神(本社) 大雷神(奥央社) 高おか神(前社) 両部時代石尊大権現という 頂上海抜1,251.7m、下社(この位置)山海抜690mの大山は相模の標柱で・あリ旗竿である。それは丹沢の東端をなすが、東南両面を断層によって削りとられて山勢ほとんど独立峯に近い三角形で、頂点の光った美しい姿を相模野に立たせている。関東の低地から突然立ち上がり絶好の目標として仰がれ親しまれている。この点は、北の筑波山と好一対である。 従って全相模を一望できる山上のすばらしい眺望は改めて説明を要しまい。又、海洋からの湿風に直接さらされている為に、雲霧が常に山頂を去来していることから、いつしかこの山が雨を恵むと信じられ、雨降山の別名ともなっている。 阿夫利神社本社の創始は、遠く人皇第10代崇神天皇の御代にあり、延喜式内の社と定められ、年々朝廷より祈年の奉幣に預る。中古以降神仏混淆の時には、大山石尊大権現とよばれており、明治6年の神仏分離まで修験道のあらたかな道場ともなっていた。石尊参り、或いは大山詣は関東一円の行事てあり、白衣を着た参詣者又は参籠者の姿は途切れることがない。そのために山麓の谷間は門前町として発達している。今の大山がそれで往時の先導師の家が今なお立ち並んで宗教の町、観光の町として発展しつつあります。 青雲の上に秀立つ阿夫利山、仰ざても知れ神のみいづを 大山阿夫利神社下社 社頭掲示板 |