大山阿夫利神社
おおやまあぶりじんじゃ


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【由緒】

大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社でございます。 古くから相模国は許より関東総鎮護の霊山としてご崇敬を集めて参りました。海抜1252mの山頂からは、祭祀に使われたと思われる縄文土器が出土しており、当山の歴史の古さを物語っております。
大山は、別名「あめふり山」とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。
奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。隆盛を極めた江戸期には年間で数十万が訪れたと記録されています。「大山詣り」と呼ばれた当山への参詣は古典落語の中でも語られ、著名な浮世絵師によって多くの浮世絵も残されています。そうした作品に描かれた躍動感溢れる人々の姿からも、いかに大山が当時の人々にとって身近な存在であったかを窺い知ることが出来ます。
また人気を博した大山詣りを背景に、多くの独特な文化が生み出されたことも大山の特徴です。源頼朝公が刀を納めた事から起こった木太刀を納める納太刀、当社の御祭神が富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われました。一部地域では、大山に登れば一人前として認められると伝承されていたとも云われ、立身出世の神としても知られています。他にも一年の天候を占い農作物の豊凶を占う筒粥神事、天地の魔と穢れを祓う引目祭、夏の山開き、火祭薪能などの多種多様な神事が現在も行われ、三百年以上の伝統を誇る大山固有の大山能、そして巫女舞、倭舞も今に継承されております。 阿夫利神社は、古代から人々の心の拠り所となり、国を護る山・神の山として崇められてきました。
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、山岳信仰の中心として、今日に及んでいます。
春は花、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪と四季折々に彩られるこの大山は今もなお、伝統と文化を継承し続け、参拝をする人が絶えません。
平成28年4月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされました。

神奈川県神社庁



【阿夫利神社】

阿夫利は假字也○祭神鳥磐檸樟船命、(地名記)〇大山に在す、(同上)今石尊権現と称す、例祭月日、
平田篤胤云、門人守屋某云、大山を其所人は雨降山と云ふ、不動の額に阿夫利神社とあり、
さて峯より廿八町下りて不動あり、此地にありし八大龍王社を、別当八大坊の門前なる高き所に移して、額に大山地主と記せりといへり、依て按るに、当山の神は元山上に坐しけむを、所謂石尊を祭る時に、地主神をば山下におろし奉りけむ、さて八大龍王とは例の佛者言にて、實は雨ノ神にこそおはすらめ、雨降山と云ふを思ふべしと云り、
社領
当代御朱印高二百石

神社覈録



縣社 阿夫利神社

祭神 大山祇命
創立年月及由緒詳ならす、古老或は云ふ、崇神天皇の御宇なりと、延喜の制式内社に列せられ、当國十三座の一なり、孝謙天皇天平勝宝の末年、僧良弁入山以来、靈石の由縁を以て石尊と改称し、又大山寺と称す、後俗に大山不動と称す、当時勅願寺たり、俗に僧良弁、孝謙天皇の勅を奉し本社を開基せりと謂ふ、蓋今の不動堂の誤にして、神社創立は其以前なる由社記に見ゆ、云く、
「方今伝ハル処ノ大山寺記大山古縁記大山靈験記等ノ諸書ヲ参考スルニ、良弁ノ創立ハ今ノ不動堂ニシテ、神杜創立ハ其巳前ニ在リ卜見ユ、其証ハ右書中ニ天平勝宝7年5月28日、衆人集山麓、良弁先達、而伐倒大木、穿富石、競登彼山、遙至山頂、刈払草葉、掘得不動明王石像、前有石鳥居、不可思議之事也云々トアリ、是則僧徒撹乱ノ始メニテ、神靈奇石ニ座スヲ以テ石像ノ不勤トハ妄言セシモノト見エタリ、道ナキ如クナレトモ、神社ナクバ石ノ鳥居アルベキ謂ナシ、神社アレバイカデ道ナカルベキ、是良辮開山以前神社アリシヤ確然タリ、山号ヲ阿夫利神社ト称ス。」
中世相、房、上三国の租税を以て寺用に充てらる、爾来上下の崇奉厚く、世々執権武将地を寄せ物を献らざるはなし、殊に徳川幕府に至り大に尊崇の誠を致し、朱印(神社覈録に当時高二百石なりと)黒印、並に修復料其他許多の寄附あり、関東有数の霊域たり、浮屠氏入山以来、神職僧侶修験混淆して勤務せるが、慶長10年徳川家康真言の一派を以て一山を総括せしめ明治維新に至る。明治元年10月石尊権現、及大山寺の称を廃し、阿夫利神社に復称す、現今神職は社司一名社掌二十五名にして、御師六十余家あり、6年7月新に縣社兼郷社に列せらる、御神体は相傳ふ一箇の靈石なりと
社殿は本殿、拝殿、社務所、握舎詰、手水舎等を備へ、境内2500余坪(官有地第一種}にして、境外山林三町三反余歩を有せり、眺望絶佳、馬入の一水帯の如く貫流せる武相の平野、遠くは三崎、洲崎、近くは江島、平塚の海路、悉く双眸の間にあり、登坂の賽者覚えず快哉を連呼す、例祭は7月27日より8月17日迄(幣饌斜参向使の参向は7月27日)其他春季祭4月15日より24日迄秋季祭は9月8日より10日迄とす、以上三祭の内大祭、春季祭中は嶺頭本社へ衆庶の参拝を許せども其他は之を禁ぜり、又毎年1月7日に筒粥祭とて其年の豊凶をトする特有の祭事あり。

明治神社誌料






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