埒免古墳は丹沢山地南麓に広がる丘陵地帯にある円墳で、相模国三ノ宮として知られる比々多神社の北西約200mのところにある。新編相模国風土記稿によれば、かつて比々多神社は埒免古墳のある場所にあったが、室町時代から戦国時代にかけて神社は衰えて荒廃し、天正年間の初めになって現在の場所に移転したとされている。 埒免古墳は直径38mの円墳で、墳丘周囲には約5mの周溝がある。埋葬施設は幅約2m、長さ約4.8mの玄室と、幅約1m、長さ約4mの、自然石の巨石を積み上げて築造された片袖式横穴式石室である。古墳の築造時期は600年頃と考えられ、当時の相模国では最大級の古墳で、古墳の被葬者としては相武国造が想定されている。 |
埒免古墳 埒免古墳は昭和39年に建物の建設中に発見されました。その際、石室内から飾り大刀や鏡、金を貼った馬具など見事な副葬品が出土しました。それらはまさに、相模の最高権力者にふさわしい内容を備えており、伊勢原市の重要文化財に指定されています。これらは現在、三之宮比々多神社の郷土博物館で目にすることができます。 江戸時代の末に編さんされた『新編相模国風土記稿』によると、この地は、戦国時代以前の三之宮比々多神社があった場所であり、「埒免」と呼ばれていたと記されています。このことから、この古墳も埒免古墳と呼ばれることになったと考えられます。 その後、平成12年からの建物の立て替えに伴う発掘調査や平成14年の石室の再調査などで、墳丘・石室の規模・構造が明らかになり、当地域における埒免古墳の存在は古墳時代後期の相模を知る上で、ますます重要性が高くなってきています。 平成17年3月 伊勢原市教育委員会 社頭掲示板 |
埒免古墳の横穴式石室 平成14年2月に伊勢原市教育委員会は、東海大学考古学研究室の協力を得て、この石室の再調査を実施しました。その結果、石室は南東側に入口をもつ横穴式石室と呼ばれる構造で、遺体を収める部屋(玄室)は北東側に張り出した片袖式という形態であることが分かりました。 石室は、幅2m、長さ4.8mの玄室とそれに続く幅1m、長さ4m程の入口部分(羨道)からなります。石室は巨大な石を組み上げて造られており、玄室の正面奥に使われている最大の石は、縦・横2mを越す大きさです。 現在の石室は半分以上が埋め戻されていますが、本来は周囲の石積みの上に巨大な天井石がのり、内部でも1.7〜1.8mの高さがあったと考えられます。 また、これより以前の建物の建て替え時の調査では、石室を覆うマウンドの周囲に巡る大きな溝の跡が見つかっています。それによると埒免古墳の墳丘の大きさは直径40mとなり、石室とともに古墳時代後期としては地域最大の規模となります。 さらに、当古墳の出土資料の内容は、銀装の太刀、金を貼った鞍や轡(くつわ)などの馬具、銅製の鏡といずれも貴重なものばかりです。相模地域の中でこの内容に匹敵する副葬品をもつ古墳といえば、南側に見える尾根上に位置する登尾山(とおのやま)古墳以外には見当たりません。 つまり両者には6世紀後半から7世紀にかけて当地域を治めた最高権力者が葬られていると考えられています。 平成17年3月 伊勢原市教育委員会 社頭掲示板 |
元宮のいわれ この高台(旧宮山))は、比々多神社の社殿が建てられていた「埒面」という神聖な場所で神社の境内地です。 かつては周辺一帯一万七千坪を有しておりましたが、室町時代の頃より幾多の戦により神地を失い、大半は民地となっています。 その後、佐野文雄氏が所有されていましたが、昭和55年に返還(奉納)の志を賜り小祠をまつり「比々多神社元宮」と称して鎮座しています。 社頭掲示板 |