このあたりは往古比比多郷と呼ばれた、和名抄では日田郷となっている。「比比多」(「日日田」・「日田」)は良田の意味と思われる。 付近に古墳が多く一帯が地方文化の中心地であったと思われる。 社伝によれば、当社は相摸国総社でもあったようで、国司が当社の庇護者であった。淳和天皇の頃、詔により相摸国司橘峰継を介して冠大明神の神号を当社に寄せたと伝えられるが、この頃国府は大住郡三ノ宮付近にあったと推定される。国府の移転の時期は878年の武相地方の大地震の後とする説がある。 また、国司橘氏の氏神を祀る京都梅宮の祭神は酒解神であり、酒解子神も祀られている。この祭神を当社に勧請したことから同じ祭神となったものと思われる。 これは9世紀前半ということになるので、それ以前の祭神は分からない。おそらく土地を開いた豪族の氏神を古墳時代の初めに祀ったと思われる。 当社の旧社地は埒面、現在の伊勢原市三ノ宮の恵泉女学園園芸短期大学付近とされている。 比々多神社の社伝では「比比多神社」と書かれた古額があったのを子易明神社の神主に貸したところ返さず、子易明神社にこれを掲げて式内社と称したという。 |
由緒 御祭神 豊斟渟尊 天節明玉命 雅日女命 日本武命 (相殿) 大酒解神 小酒解神 由緒 比々多神社の歴史は大変に古く、神社付近より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当神社の始源は今から約一万年以上前まで遡れる。社伝によると、比々多神社の鎮座は初代天皇の神武天皇6年、人々が、古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模国の霊峰大山を神体山とし、豊斟渟尊を日本国霊として祀ったことに始まるという。 第10代崇神天皇の7年、神地「神戸」を奉られ、次いで、孝徳天皇の大化元年 (645) に至り、相模国の国司・布勢朝臣色布知によって社殿の改修が行われ、一対の木彫の狛犬が奉納された。更にこの年、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「ウズラミカ」と称される須恵器が奉納されたという。なお、この狛犬一対とウズラミカは、共に、江戸時代の官撰地誌である『新編相模国風土記稿』 (1841年成立) に紹介されており、現在は、市の重要文化財、県の重要文化財に指定されている。 天平15年 (743) 、竹内宿弥の裔孫・紀朝臣益麿を比々多神社の初代宮司として迎え、同時に第45代聖武天皇より荘園を賜わる。 第60代醍醐天皇の御代、延喜年間に全国の主要神社の名簿 (これを『延喜式神名帳』という) が作られることになった時、比々多神社も登録され、以後、式内社 (『延喜式神名帳』記載神社のこと) として国幣 (朝廷より賜わる幣帛) を奉る神社となる。 これより先、第53代淳和天皇の天長9年 (832) 、相模国国司・橘朝臣峯嗣を勅使として当国総社「冠大明神」の神号を天皇より賜わる。この神号は『吾妻鑑』建久3年 (1192) 8月9日の条にもみえる。即ち、征夷大将軍源頼朝が妻政子の実朝出産に際し、その安産祈願のため相模国の社寺に神馬を奉納したという記事の中に、比々多神社が「三宮冠大明神」の名をもって列記されているのである。 南北朝、室町時代になると戦禍によって神領の大部分を失い、また、明応年間 (1492〜1501) に、社殿を兵火によって焼失し、天正の初め、社地を埒面から現在の地に移転遷座し、更に、天正19年 (1591) 、比々多神社が相模国の名社であることを知った徳川家康によって社領十石が寄進されるに及び、漸く社頭の復興をみるに至った。以後、家忠・家光以下十二代の将軍から神領の寄進がなされ、明治維新に至る。明治6年 (1873) 、社格を郷社と定められる。 戦争が始まり大東亜戦争に突入すると、比々多神社境内の宮鐘も資源回収のため供出せられたが、終戦後、氏子崇敬者の幸福と平和を願って、人間国宝香取秀真氏に新鐘の制作を依頼した。昭和25年秋、香取秀真・正彦父子制作による第二の宮鐘が完成し、境内に設営された。そして、現在、比々多神社は事始めの大神様として、近隣はもとより広く関東一円の人々より篤く崇敬されるに至っている。 年中祭事 歳旦祭・元旦大祈祷 除夜の鐘と同時に斎行される式典で、氏子・崇敬者の一年の家内安全・交通安全・商売繁盛などを、祈願者一人一人の氏名を御神前に奏上、祈願します。 節分祭 (2月節分の日) 立春の前日の厄除招福の行事で、毎年、氏子・崇敬者の中から選ばれた年男年女の奉仕によって、午前10時・正午・午後3時の三回、境内で「節分宝まき」を行います。 祈年祭 (2月17日) 春の始めに五穀豊穰・産業繁栄を祈る祭で、氏子・崇敬者が健康で仕事に従事できるように祈願します。 例大祭 (4月21・22日) 三宮祭の名で親しまれている当神社の例大祭には、神輿の他に三基の山車が出ます。その三基の山車の頂上には各々、仁木弾正・熊谷直実・加藤清正のカラクリ人形が載せられており、神輿と共に氏子区域を巡幸します。境内では約二百軒の植木市が開かれます。 国府祭 (5月5日) 大磯町の神揃山と大矢場で斎行されるこの祭は、平安時代、国司が国府の総社において所管内の主要神社を奉祭したことに始まります。神揃山では「座問答」の神事が、大矢場では国司祭が行われます。 まが玉祭(5月下旬) 文化の継承と地域の活性化を目的としたお祭です。境内・社務所において茶道、書道、武道などの発表展示、夕刻には雅楽の夕べが行われます。 大祓式 (7月・12月) 知らず知らずに人々が犯した罪・穢れを祓い清め、健康で明るい生活が送れるよう祈願します。 正祭・招魂祭 (10月17日) 崇神天皇より当神社に神地「神戸」を賜われたことを感謝する祭で、続いて、比々多地区内の慰霊祭が執行されます。 新穀・勤労感謝祭 (11月23日) 実りの秋に五穀豊穰を感謝し、あらゆる産業発展に感謝する祭です。 酒祭 (11月下旬) 酒造りの神を相殿とする当神社の御神体ウズラミカを用いて執行する祭で、仕込み前の新酒の醸造安全と酒造関係者の商売繁盛を祈願します。 神社に由来する地名 三之宮・・平安時代、相模国の式内社十三社のうち勅使の参向する順序によって、一宮二宮・と称した。比々多神社は三番目の参向社だったので、三之宮と呼ばれ、それがそのまま村の名となる。 竹ノ内・・竹内宿弥の裔孫で、当神社の初代宮司紀朝臣益麿の別邸があったことから、小字名となる。 領家・・当神社の荘園・神領の役所があったことから地名となる。 皇家・・国司が当神社へ奉幣のために参向する際の仮家があったことから地名となる。 御所・・当神社斎館の跡地をいう。 神戸・・崇神天皇の7年、天皇より当神社に神戸が賜われ、その神領地がそのまま地名となる。 真田・・天平十五年、聖武天皇より荘園を賜わり、地名となる。 血見世坂・・坂が急なため神輿渡御の際、怪我人が多く血を見なければすまなかったことから、この名が付く。 気粧塚・・参道口と神揃山の入口の二ヶ所にあって国府祭のときに、神官がこの塚で衣冠束帯を旅装に着替え (参道) 祭場が近づくと、旅装から衣冠束帯へと着替えた塚の名から生まれた地名。 神揃山・・国府祭に相模国一宮寒川神社・二宮川匂神社・三宮比々多神社・四宮前鳥神社と平塚八幡神社の五社の神輿が集い座すことから、この名が生まれた。 埒面・・天正19年以前、当神社の社殿があった旧境内地をいう。 郷土博物館 昭和28年、先代の永井参治宮司によって設立された郷土博物館は、伊勢原の歴史を調べる人々にとって、欠かすことのできない施設となっている。古代の伊勢原の文化発祥地とされる比々多神社周辺には、昭和の初め、三六〇基を超える古墳があったといわれる。以来、数多くの発掘調査が行なわれ、そもそも、その貴重な出土品資料の散逸を防ぐ目的で、当博物館は開設されたのである。 博物館には、付近から出土した縄文式・弥生式の土器等の考古資料の他、中世から江戸時代にかけての古文書、絵図等が、多数保存展示されている。 その二千点にも及ぶ所蔵品のなかには、県重要文化財の「うずらみか」 (昭和31年指定) と呼ばれる須恵器甕、市重要文化財の狛犬一対 (昭和52年指定) ・金銅単竜環柄頭 (昭和57年指定) 等の文化財も含まれている。 氏神様への信仰の第一歩は、まず郷土の歴史を知り、郷土への理解を深めることにあるといえましょう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
比比多神社 当社は約4000坪のうっ蒼とした木立の中に荘厳なたたずまいを持つ相模国の古社であります。 御祭神 豊國主尊 (とよくにぬしのみこと) 別名、豊斟野尊 (とよくむぬのみこと) 国土創造の神 大地・開発・発明・創造力・厄除・交通安全 天明玉命 (あめのあかるたまのみこと) 玉造の神 不思議な霊力発揮・子宝 雅日女尊 (わかひるめのみこと) 機織りの神 衣料 日本武尊 (やまとたけるのみこと) 叡智と武勇の神 出世・開運・厄除・商売繁昌・交通・縁結び 相殿神 大酒解神 (おおさかとけのかみ) 別名、大山祇神(おおやまつみのかみ) 小酒解神 (こさかとけのかみ) 別名、木花咲耶姫(このはなさくやひめ) 酒造りの神 酒類業・山火鎮護・縁結び・子授安全 御社宝 ◇うずら瓶(県重文) 大化元年(645年)、10月酒解神合祀の際、納められました。 ◇狛犬一対(市重文) 持統天皇朱鳥6年(692年)、相模國・国司布施朝臣色布智奉納。 由 緒 比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当社の淵源は今から約1万年以上前まで遡れる。論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石中の 「立石」こそ祭祀遺跡であり御神体であり、原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰の指標を現している。 社伝記(天保5年・1834年)によると、御鎮座は初代神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模國の霊峰大山を神体山とし、豊國主尊を日本國霊として祀ったことに始まるという。 第10代崇神天皇7年、神地「神戸」を奉られ、第36代孝徳天皇・大化元年(645)、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い、「うずら瓶」と称される須恵器が奉納されたという。次いで、第41代持統天皇・朱鳥6年(692)、相模 國の國司・布施朝臣色布知によって社殿の改修が行われ、一対の木彫り狛犬が奉納された。尚、このうずら瓶と狛犬一対は、共に、『新編相模風土記稿』に紹介されており、現在は、県重用文化財・市重要文化財に指定されている。 天平15年(743)、竹内宿祢の裔孫・紀朝臣益麿を比々多神社初代宮司に迎え、同時に第45代聖武天皇より荘園を賜る。第53代淳和天皇・天長9年(832)、國司・橘朝臣峯嗣を勅使として当國総社「冠大明神」の神号を天皇より賜る。この神号は、『吾妻鑑』建久3年(1192)8月9日条にもみえる。 即ち、征夷大将軍源頼朝公が妻政子の実朝出産に際し、その安産祈願のため相模國の社寺に神馬を奉納したという記事の中に、当社が「三宮冠大明神」の名を以て列記されているのである。 第60代醍醐天皇の御代、延喜年間に全国の主要神社の名簿(これを『延喜式神名帳』という)が作られるにあたり、当社も登載され、以後、延喜式内社(亦は式内社、式社。『延喜式神名帳』登載神社2861社、相模國13座の1、大住郡4座の1)として國幣(朝廷より賜る幣帛)を奉る神社となる。 当國を本拠として天下の覇業を大成した源頼朝公は、元暦元年(1184)、大規模な社殿再建を行い、社殿回廊など甍を並べて聳え、文治元年(1185)国土泰平祈願のための御願書を奉る。 南北朝、室町時代になると戦禍によって神領(当時は約4倍の17,000坪)の大部分を失い、また、明応年間(1492〜1501)に、社殿を兵火によって焼失し、天正のはじめ、社地を埒面から現在の地 (旧神主屋敷)に移転遷座する。 天正19年(1591)、当社が相模國の名社であることを知った徳川家康公によって社領10石が寄進されるに及び、ようやく社頭の復興をみるに至った。以後秀忠公・家光公以下12代の将軍から神領の寄進がなされ、明治維新に至る。 享和12年(1802)、神祇白家(白川家)の門人(440社余)に附属し、「社家の他に祝部以下社家在之」(「諸國神社附属帳」文化13年改)とあり、社家社人を多く要した。 明治6年(1873)、社格を2大区6小区の郷社と定められ、16ヶ村の総鎮守となる。明治41年(1908)、神饌幣帛供進神社に指定される。 大東和戦争に突入すると、境内の宮鐘も資源回収のため供出されたが、戦後、氏子崇敬者の幸福と平和を願って、人間国宝・香取秀真氏に新鐘の制作を依頼した。昭和25年(1950)、香取秀真・正彦父子制作による第二の宮鐘が完成し境内に設営された。 現在、献幣使参向指定神社に定められ、事始めの大神さまとして、近隣は基より広く関東一円の人々より篤く崇敬されるに至っている。 公式HP |
国府祭 毎年5月5日に中郡大磯町國府本郷に鎭座の六所神社(六所宮・六所(大)明神・柳田(大)明神(これは地名をもつて、かく称したものであらう)、または惣(総)社とも)の社有地の神揃山(カミソリヤマ)(神集山(カミツドヒヤマ)とも)及び大矢場(オホヤバ)(逢親場・王家場・皇家場・おほや着(ギ)、または高天原とも)において執り行はれる國府祭(コフノマチ)(端午祭とも)は、當國の一宮寒川神社・二宮川勾神社・三宮比比多神社・四宮前鳥神社・平塚八幡神社(国府八幡に当るか)の五社(その歴名は、上にも引文した吾妻鏡、建久2年8月9日の条にもみえる)の神輿が参集して、それぞれの御霊代(玉串)を六所神社の神輿に遷し奉る祭儀である(この際、一宮にして旧国幣中社の寒川神社と雖も、六所神社の下位に座せしめられてゐるのに注意されよう)。 凡そ祭儀(祭祀)とは、或る出來事がはじめて生起せしめられたその"聖なる時間"のひとときに毎年々々繰り返し回帰するのを根本の趣旨としてゐるといつてよからう。だから、われわれは、この國府祭(端午祭)なる無時間的瞬間において、平安の末期のそのかみの相摸國総社六所宮の創立といふ始源的形式を、はるかに降つた昭和50年の今日にあつても、ほのかに窺ふことができるのであるが、この意味からしても、本祭儀は頗る注目すべきものであるといつてよからう(ここでは本国の国府の所在地が二遷または三遷したことについては触れない)。 その初見としては、史料の制約上、辛うじて旧國府本郷村民吉兵衛所藏文書の天文13年(1544)12月23日付の後北條氏印判状に「相州六所領六十五貫七十八文之内…五百文端午祭」(『相州古文書』)とある、ごく後代のものを挙げ得るに過ぎないが、これが平安の末期のその創立の時より現代に至るまで引き続いて執り行はれてきてゐるものであらうことは想察に難くないのである。 ところで、このいはば総社創立祭・総社創立記念祭に終始参集してゐるのが、伊勢原市三ノ宮に鎭座の比比多神社であり、または式内社であることの明らかな一宮寒川・二宮川勾・四宮前鳥の諸社であるところからするに(平塚の八幡神社も参集するが、一宮・二宮……などの制のなかには加へられてゐないので、この場合はしばらく除外してよからう)、この「三宮」も亦、式内社であるのを類推し得られるであらう。 式内社調査報告 |
比比多神社 祭神 豊斟野尊 天櫛明玉命 雅日女霊命 日本武命 大酒解神 小酒解神 由緒 創建は神武天皇六年と伝える。当国三宮として崇神天皇七年勅して神地神戸を奉られ、淳和天皇9年相模国総社冠大明神の神号を奉られた。建久3年(1192)「吾妻鏡」の条に源頼朝が妻政子の実朝出産に際し神馬を奉られ、その由縁で多方面より子宝と事始祭そして酒類関係の繁昌安全の大神様として親しまれ崇敬されている。 例祭4月22日 交通小田急線伊勢原駅からバス15分 ポイント三宮郷土博物館があります。 参拝のしおり |
神輿 右、白木神輿 昭和15年、皇紀2600年記念に造られました(国府祭用) 中央、神輿 平成6年、3月に新造(大祭用) 左、神輿 安政年間(1850年代)に宮大工、手中明王太郎により製作。 平成5年までの130年の長い間にわたり、巡幸に勤めた神輿です。 社頭掲示板 |
下谷戸縄文遺跡 伊勢原市指定史跡 下谷戸縄文遺跡 三ノ宮・下谷戸遺跡は、東名高速道路の建設に伴い、昭和40年〜42年に発掘調査されました。その場所は、三之宮比々多神社の南東、県道上粕屋・南金目線が東名高速道路と交差する付近にあたります。ここに残る遺構は、関係者の熱意により、昭和42年5月に移築、復元されたものです。 発掘調査は第3次調査まで行われ、三ノ宮字下谷1090番地を中心に縄文時代から古墳時代にかけての遺構が数多く発見されました。とりわけ縄文時代の遺構は、当時としては比較的珍しい大規模な配石遺構群が確認され、おびただしい数の石が出土したことで注目を集めました。時期は、出土した土器から縄文中期から後期と考えられます。 主な遺構としては、張出し部を持つ柄鏡形の敷石住居址、配石、環礫方形配石遺構、墓壙群等があります。敷石住居址には、住居全面に石を敷くもの、中心部分にのみ部分的に敷くものが見られます。配石は幅2mほどの帯状の範囲に石が集中して置かれているもので、それが半円形にめぐっています。環礫方形配石遺構は、小さな礫を一辺5mほどの方形に敷き並べたもので、周囲からは焼けた土や鳥獣の骨片が検出されています。また、配石の下からは、墓壙と思われる楕円形の土壙群が発見され、環礫方形配石遺構の下からも人骨が出土しています。 こうした縄文時代の配石遺構群は、平成4年から始まった東名高速道路の拡幅工事や周辺の開発事業に伴う調査でも発見されており、より広い範囲に広がっていることが明らかになっています。市内の縄文時代の遺跡としては、日向の下北原遺跡と並ぶ代表的な存在であり、県内でも貴重な資料と評価されています。 このほか、本遺跡では弥生時代後期、古墳時代前期の竪穴式住居址、古墳時代後期の古墳の周溝等も確認されています。 平成20年3月 伊勢原市教育委員会 社頭掲示板 |
三之宮郷土博物館 三之宮比々多神社は、相模國三之宮、延喜式内社としての歴史と伝統を有してる。 この地は大山を背に南面が拓け、相模湾を眺望する丘陵地に太古より人々が生活を営み中央政権との繋がりも深く、この地方の豪族が住んでいました。このことは三之宮、栗原付近一帯に多く古墳や遺跡があり、その出土品により実証されます。 旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・奈良・平安時代と各々の時代から多くの遺物が発掘調査で出土しています。 この三之宮郷土博物館には、神社で祭祀に用いられた神具などが展示されております。 特に伊勢原市指定重要文化財に指定された埒免古墳からの馬具一式・銅鏡・銀装の大刀・登尾山古墳の銅鋺・直刀・栗原古墳の環頭柄頭等数多くの資料から悠久なる古しえを偲ぶことができます。 当館は先々代永井健之助社司が人類学、考古学者である坪井正五郎氏と親交があり、共に調査収集を行い、その意志を継いだ先代の永井参治宮司が考古学に造形深く収集したものが散逸してしまうことを危惧し、昭和28年8月、宝物殿として建設しました。その後に「三之宮郷土博物館」として考古資料を中心に保存展示しています。 社頭掲示板 |
比々多神社 相模國三之宮 比々多神社 鎮座地 神奈川県伊勢原市三之宮1468番地 御祭神 豊国主尊 天明玉命 稚日霊命 日本武命 大酒解神 小酒解神 由緒 神武天皇六年国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を創建したと伝えられる 崇神天皇の御代神地神戸を奉られ大化元年(645)社殿の際復の際木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納又此年に酒解神を合祀うずら瓶(県重要文化財)を納められた 天平15年(743)大宮司に竹内宿祢の後裔紀朝臣益麿を迎えて初代宮司に任命勅して荘園を賜り真田を称す 天長9年(832)6月国司橘朝臣峯嗣を勅使として相模國の総社として冠大明神の神号を奉られ鎌倉時代にはいり将軍源頼朝が文治元年(1185)に国土安泰の御願書を奉り建久3年(1192)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された 南北朝室町時代に戦さに巻込まれ神領の大半を失い衰微したが徳川時代に当社が相模國の名社であることを知った家康公により社領を新たに寄進され以下十四代将軍まで続いた よって社運も持直し明治時代には社格は郷社となり社格制度が廃止後は指定神社となる 御神徳 主祭神豊国主尊様は国土創造神様で大地を整えることは元より地上に生存する万物の芽組みと育成又はあらゆるものを考え出し組立てる大元を司りになられます これは私達が生活する中で子供の成長や縁組そして家庭内の安穏又諸産業の発展へと御神威を発揚せられます 御参拝の皆様方には大神様の御加護をいただきよりよき生活が営まれ御多幸あられますことを御祈念申し上げます 歳旦祭 一月一日 まが玉祭 五月?三土・日曜日 節分祭 二月 大祓式 六月三十日 十二月二十日 祈年祭 二月十七日 正祭慰霊祭 十月中旬 例祭 四月二十二日 新穀勤労感謝祭 十一月二十三日 国府祭 五月五日 酒祭十一月上旬 月次祭 毎月一日十五日斉行 御自由に御参拝下さい 社頭掲示板 |
比比多神社 比比多は假字也、和名鈔(郷名部)日田、○祭神大酒解神、小酒解神、(風土記)○白根郷三宮村に在す、今三宮と称す、(社説)例祭月日、O惣國風土記残欠云、相摸國大墨郡比比多伊神社、天万豊日天皇乙巳10月、所祭大酒解神、小酒解神也、神貢三十束、○東鑑十二云、建久3年8月9日、早旦以後、御台所御産氣、云々、相摸國神社佛寺奉神馬、云々、三宮、冠大明神 伴信友云、按るに、比々他伊ト伊ノ字ヲ添テイヘル也、同風土記駿河國伊穂原郡ニ阿蘇宇伊卜云地名ヲ記シ、次ニ阿蘇宇伊神社もあり、今由井駅の西に阿蘇宇といふ処これ也と國人云り、東國にて同例也、地名に某里と里を添て呼るがある如く、ただ何どなく添へて呼ならへるなるべしと云り、○社司大貫氏云、今社地四千五百坪ばかりありて除地也、こは、古神主の屋敷地也、古の社地は今の社の上の方にて、今は畠となる、其処より一町余下に御門神とて、門の雨腋の如く小社二宇あり、古例にて今も5月5日の祭禮に、神輿其御門の神社の中間を渡り給ふ也、さて其御門神の眞向三四町許下に神戸村と云あり、当杜の神戸なりし処也、5月5日の大祭には、一宮二宮三宮四宮等の神輿、三里許神幸の式あり、時によりて翌日帰座の事もあり、○又云、先年同郡子易村に子易明神といふ淫祠ありけるを、上糟谷村に遷し、三宮神主に内談し、比々多神社の称をかり、比々多神社子易大明神と二行の額を掛け、守札に相摸國十三座之内比々多神社と記せる由也と云り、さては地名記に、上粕谷郷子易村比々多神社、祭神吾多鹿葦津姫命と載たり、今暫く三宮の説に随うて再考をまつ、 社領 当代御朱印高(欠く) 神社覈録 |
郷社 比々多神宮 祭神 稚日女神 木花開耶姫命 豊斟野神 大山祇命 天櫛明玉命 日本武尊 創立年月及由緒詳ならず、或は云ふ、崇神天皇7年、天社国社及神地神戸を定められし時の一なりと、廷喜の制式内小社に列せられ、当國十三座の一にして、相模三ノ宮たり、後柏原天皇永正9年の頃、三浦荒治郎、父義意と共に大住郡岡崎の域主氏茂と戦ふ、其の当時の社地は、今の社地の上にあり、(今社地面と称し、時々瓦の出つる冠塚の附近)一萬七千坪なりしと、戦利あらず、遂に氏茂の兵火の為め社殿、神宝悉く鳥有に帰し、神地神戸又失ふに至る、後正親町天皇天正の初。字宮之前なる神官の居屋敷、即ち今の地に遷し奉る、同19年11月徳川家康社領十石の朱印を寄す、明治4年上地し、6年郷社に列す、当社元地名に依り比々多明神とも称し、又三宮明神社と称せり、明治維新後今の名に復称す、社殿は本殿、覆殿、幣殿。拝殿、境内は1678坪(官肴地第一種)あり。 当社祭神を、特選神名牒に、大酒解神、小酒解神とし説あり、曰く、 「今按、社伝祭神大酒解神小酒鰹神トスルモノハ、偽風土記ノ説ナレバ如何アラン、サレド注進状ニ本社イト古キ瓶二ツヲ神体トスト云ルニヨレバ、拠ナシトモ云ベカラズ、故今姑ク之ニ從フ」 伴信友云、社司大貫氏云、今社地四千五百坪はかりありて除地也、こは古神主の屋敷也、古の社地は今の社の上の方にて、今は畠となる、其処より一町余下に御門神とて、門の両脇の如く小社二宇あり、古例にて今も5月5日の祭礼に神輿其御門の神社の中間を渡り給ふ也、さて其御門神の真向三四町許下に神戸村と云あり、当社の神戸なりし処なり、5月5日の大祭には、一宮二宮三宮四宮等の神輿、三里許神幸の式あり、時によりて翌日帰座の事もあり、又云、先年同郡子易村に子易明神といふ淫祠ありけるを、上糟谷村に遷し、三宮神主に内談し、比々多神社の称をかり、比々多神社子易大明神と二行の額を掛け、守札に相模國十三座之内比々多神社と記せらる由也と云り、さては地名記に、上粕谷郷子易村比々多神社、祭神吾多鹿葦津姫命と載せたり。今暫く三宮の説に随うて再考をまつ。 明治神社誌料 |