川匂神社
かわわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】川匂神社 相模国 餘綾郡鎮座
          (旧地)川匂神社【旧地】

   【現社名】川匂神社
   【住所】神奈川県中郡二宮町山西宮山 2064
       北緯35度17分58秒,東経139度14分17秒
   【祭神】大名牟遅命 大物忌命 級津彦命 級津姫命 衣通姫命
       『風土記稿』『相中留恩記略』衣通姫命・大物忌命・級津彦命

   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】旧郷社 二宮
   【由緒】創祀は11代垂仁天皇の朝
       建久3年(1192)8月9日北条政子の安産祈願
       建長4年宗尊親王奉幣
       応永年間(1394−1427)兵火により社殿宝物など焼失
       永禄4年(1561)上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿焼失
       永禄5年(1562)に北條氏政社殿造営
       天正18年(1590)11月社領寄進
       明治6年郷社
       昭和7年県社の内示

   【関係氏族】師長国造
   【鎮座地】当初鎮座の地は社殿の北方500mの宮上とする

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「二宮」と称していた
   【公式HP】 川匂神社
   【社殿】本殿春日造
       幣殿・拝殿・神饌所・随神門・神庫・手水舎

   【境内社】

二宮西中学校北に鎮座する。
神社のすぐ西を押切川が南北に流れ、大きく曲がる地点であることから「川輪」の意味から名付けられたと思われる。
崇神朝に、磯長(師長)国造阿屋葉連(末社の東五社に奉祀)によつて創建、この地は古代師長国の中心地であつたとされている。
端午祭(国府祭)(平安末から斉行)で神揃山において一宮寒川神社と二宮川勾神社の神主で上座を争う座問答があり、一般にはこれを相武・師長二国の併合に際して一宮を争つたものであると説明されている。
当社の氏子総代であった古老の話として、社殿の北方500mの宮上(みやうえ)というところに中世以前の旧社地があったという。その前は開けた水田で、旧神領であった。


由緒

御祭神
大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です。
大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です。
級津彦命・級津姫命 相模国が昔相武と磯長の二国であった頃磯長の国を御開拓なされた神様です。
衣通姫命 安産守護に霊験あらたかな神様です。
御由緒
当社は相模国の二の宮で、古くから二宮大明神又は二宮明神社とも称し、『延喜式』所載の相模十三社の各社であります。縁起書によれば其の創祀は11代垂仁天皇の朝、当時余綾足柄両郡の東西海浜を磯長国と称せし頃、その国宰たる阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇祀せらる。
磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願あり。
人皇19代允恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため、奉幣祈願あらせられる。
現宮司二見家の家系記によれば、65代一条天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日まで相続き、現宮司に至り39代に及ぶ。
建久3年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。
建長4年宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納められる。
北条相模守、小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず、徳川の世に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の他喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。
正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕末まで続行せり、明治6年、郷社に列せられ、昭和7年4月、県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。
社殿
社殿造営の沿革として記録に残っておるのは、建久年間、源頼朝、社領若干を寄附し社殿造営の事あり、時に川匂七郎政頼之を奉行せり。応永年間兵火に罹り社殿宝物等悉く焼失し、ただ随神の木像のみ存す。応永30年の頃、再建の事あり、後北条氏更に修覆を加う。
永禄4年、上杉輝虎小田原を攻むる時、兵火亦社殿に及べり。よって元亀年間、北条氏之を改造せり。特に小田原城よりは当社が丑寅の方角に当れるを以て北条氏の鬼門守護神として格別崇敬が厚かりし、現社地附近に古大門と唱ふる所あるもその謂なり。
安永9年、大風雨により社殿著しく破損あり。32代神主二見左門忠良、遠近に勧進して天明7年、之を再建せり。
当時地勢に沿革ありしかば南面して社殿を建立せしという、以後昭和初年に及ぶ。現在の社殿は昭和7年、県社昇格の御内示を受け新築造営工事に着手せり、爾来大東亜戦争、終戦等幾多の困難変遷を経て、昭和26年、現宮司に至り完成せり。
神域
境内地二千坪、四囲風致林五千有余坪、老杉雲表に聳え、閑静典雅にして荘厳なる霊地なり。県自然環境保全地区に指定さる。
宝物
社蔵の宝物の主なるものを挙げると
器物の部
〇網石 壱顆 高さ 八寸径四尺 重量 十二貫 網の如く目理ありて網石と名付く二見氏の先祖伊勢二見浦より携へ来りしものにして旱年には河中に入れ雨を祈るに霊験あり。
〇木像 弍躯 豊磐間戸神・櫛磐間戸神  丈け 三尺五寸 衣冠を着したる状態にして何年頃何人の作なるや詳かならず、されど当社応永年間兵火に罹りし際幸に災を免れしものなり。随神門に奉祀す。
〇木像 四躯 丈 二尺一寸 これまた前者と同じく応永年間兵火を免れしものである。千有余年以前の御神像であると考古学者は推定せり。
〇田船 (丸木船) (二宮町重要文化財) 長さ 四尺八寸 巾 七寸八分 厚さ 一寸五分 大正四年旧神領地の水田より発掘されたものにして左半形をとどめて居る、原木をくりぬいたものであり奈良時代のものと推定さる。
古文書の部 (二宮町重要文化財)
〇川匂神社縁起書
〇源頼朝の臣川匂七郎政頼の書状
〇川匂七郎政頼の孫村隼人の書状
〇一条殿御内保田遠江守の社号額字一枚及寄進状
〇小田原北条氏の臣山角刑部左エ門の虎朱印判状参通及書状
〇徳川家康公の書状
〇徳川家康の近臣全阿弥の書状
〇徳川家康公五十石の寄進状の写
〇宝暦8年正月寺社奉行より登城御許御達書
〇寺社御役所より旧幕府御判物拾弍通の請求書
〇明治6年郷社御達書
〇国府祭古図
〇二見家系図
天然記念物 (二宮町重要文化財)
〇大銀杏 樹齢推定300年 国道より参道入口に位置す。
祭儀
当社の古式祭として元三祭、御的神事、牛王祭等相模風土記にも見えるが、現在行われている御祭儀の主なるものを挙げると。
元旦祈祷祭 1月1日 午前零時願主氏子崇敬者に授与される護摩札を神前に献備して祭儀が厳修される。
御筒粥祭 1月15日 早暁古式に倣い、その年の十二種の穀物の豊凶を占う古式神事である。
節分祭 2月節分の日 神前にて旧儀による追儺神事の後、鬼追神事が行われ続いて裃姿の多数の年男による小判入福豆が撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。
祈年祭 2月17日 五穀豊穰と産業振興とを祈念し、大祭として祭事が厳修される。
国府祭 5月5日 相模国一宮寒川神社、二宮川匂神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、平塚八幡神社、総社六所神社以上六社の神輿が祭場たる中郡大磯町国府の神集山に渡御になり合同祭典が執行される。端午祭、天下祭とも呼ばれ千有余年の伝統をもつ祭典として名高い。祭儀中の古式「座問答」は相模国の国造りの古事を伝え有名である。所謂「国府の市」と云って多数の参詣者で賑ふ。昭和41年、県無形民俗資料の指定を受ける。
例大祭 10月10日 「みそぎ祭」とも云う。当日早朝祭典斎行の後神輿社頭を発御、須崎の浜にて神事あり。引続き氏子区域一円渡御相成り夕刻還幸さる。神社にては弓道奉射大会、舞踏等賑々しく催される。
新嘗祭 11月23日 勤労感謝の日 氏子より奉献された種々の新穀を神前に捧げ新穀感謝の大祭が厳修され、記念講演等催される。 大祓式 夏越大祓 (6月30日) 氏子崇敬者の大祓形代を神前に備え古式に倣い厳粛な代祓神事が執行される。 師走大祓 (12月29日)
其の他 月次祭 (1日・15日) ・初宮詣・七五三詣・成人祭・結婚式・交通安全祈願・家内安全・商売繁昌・厄除・還暦算賀の奉告祭・各種祈願祭等恒例
臨時の祭儀が一年を通して賑々しく行われている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




川勾神社

祭神 大名貴命 大物忌命 級津彦命 級津姫命 衣通姫命
由緒 創建は神社縁起書によると十一代垂仁天皇の朝、磯長國の國宰たる阿屋葉造が勅命を奉じて当國鎮護のため創祀せりとある。以来磯長國造大鷲臣命・相模國造穂積忍山宿禰が神宝を奉納し崇敬の念篤く、また十九代允恭天皇皇妃衣通姫命御安産の奉幣祈願される。また小田原城の鬼門守護として北条氏の崇敬も篤く、徳川家康よりは朱印地五十石を寄せられ隔年正月には、江戸城へ登城し御祈祷御札を献上することが例となり幕末まで続けられた。
例祭10月10日
交通JR二宮駅下車徒歩30分神奈中バス「国府津下行」乗車「押切坂上」下車徒歩10分

参拝のしおり



川勾神社

当社は相模国の二の宮で、古くから二宮大明神又は二宮明神社とも称し、『延喜式』所載の相模十三社の各社であります。縁起書によれば其の創祀は11代垂仁天皇の朝、当時余綾足柄両郡の東西海浜を磯長国と称せし頃、その国宰たる阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇祀せらる。
磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願あり。 人皇19代允恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため、奉幣祈願あらせられる。
現宮司二見家の家系記によれば、65代一条天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日まで相続き、現宮司に至り39代に及ぶ。
建久3年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。
建長4年宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納められる。
北条相模守、小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず、徳川の世に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の他喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。
正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕末まで続行せり、明治6年、郷社に列せられ、昭和7年4月、県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。

社頭掲示板



川勾神社

当神社は、相模国(さがみのくに)の二之宮(にのみや)で古くから二宮大明神(にのみやだいみょうじん)又は二宮明神社(にのみやみょうじんじゃ)と称し、二宮町の町名は当社が二之宮(にのみや)であることからきています。又、延喜式式内社(えんぎしきしきないしゃ)とは延長(えんちょう)5年(927年)にまとめられた『延喜式(えんぎしき)』(平安時代中期に編纂された法律)の延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)(全国の神社一覧)に所載された、相模国13社の中の名社であります。
創建は、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代(約2000年前)、磯長国造(しながのくにみやつこ)(今の県知事のような人)・阿屋葉(あやはの)造(みやつこ)という人が国の勅命(ちょくめい)により、磯長国(しながのくに)(今の県西部)鎮護(ちんご)の為創祀(そうし)。日本武(やまとたけるの)尊(みこと)が東征(とうせい)途中奉幣祈願(ほうべいきがん)をされ、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)皇妃(きさき)の衣通姫命(そとほりひめのみこと)安産祈願を始め、建久(けんきゅう)3年源頼朝(みなもとのよりとも)安産祈願の為神馬を奉納し、小田原北条氏より鬼門守護社(きもんしゅごしゃ)として崇敬(すうけい)深く、徳川(とくがわ)家康公(いえやすこう)九州名護屋(なごや)出陣の際祈祷札(きとうふだ)を献上(けんじょう)、殊(こと)の他(ほか)喜ばれ御朱印地(ごしゅいんち)五十石を与えられました。
それ以後、歴代徳川(とくがわ)将軍(しょうぐん)に御朱印地(ごしゅいんち)を認められ又、歴代宮司には「二見神太郎(ふたみじんたろう)」を名乗ることを、正月には必ず江戸城に登城してご挨拶申上げ御祓札(おはらいふだ)を献ずるのが例となりこれが幕末まで続き、明治6年郷社(ごうしゃ)に列(れっ)せらます。
現在宮司二見(ふたみ)家は、第65代一条天皇(いちじょうてんのう)の永延(えいえん)元年(987年)粟田中納言(あわだちゅうなごん)次男(じなん)次郎(じろう)藤原景平(ふじわらかげひら)が初代宮司となり二見(ふたみ)氏を名乗り、以来1200年、今日まで続き、現在の宮司で41代続いています。
敷地2千坪、四方を森に囲まれ閑静(かんせい)典雅(てんが)にして神聖(しんせい)な霊地(れいち)であります。社蔵(しゃぞう)宝物(ほうもつ)主なるものは、二見(ふたみ)家初代宮司が三重県伊勢二見浦(ふたみがうら)より携えてきた雨乞(あまご)い神事(しんじ)の網石(あみいし)、茅葺(かやぶき)屋根(やね)の神門(しんもん)に県内最古(平安後期)の随(ずい)神像(しんぞう)、旧神領地(きゅうしんりょうち)より発見された田船(たぶね)(奈良時代)、国府祭(こおのまち)神揃山(かみそろいやま)祭場(さいじょう)古地(こち)図(ず)(江戸中期)、初代総理大臣伊藤博文公直筆の鳥居額(とりいがく)が保存、その他古文書記録多数がございます。

公式HP



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