川匂神社
かわわじんじゃ


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【由緒】

当社は相模国の二の宮で、古くから二宮大明神又は二宮明神社とも称し、『延喜式』所載の相模十三社の各社であります。縁起書によれば其の創祀は十一代垂仁天皇の朝、当時余綾足柄両郡の東西海浜を磯長国と称せし頃、その国宰たる阿屋葉造が勅命を奉じて当国鎮護のため崇祀せらる。磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願あり。人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため、奉幣祈願あらせられる。現宮司二見家の家系記によれば、六十五代一条天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日まで相続き、現宮司に至り三十九代に及ぶ。建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。建長四年宗尊親王鎌倉に下向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納められる。北条相模守、小田原北条、小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず、徳川の世に至り家康公九州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の他喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕末まで続行せり、明治六年、郷社に列せられ、昭和七年四月、県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。

神奈川県神社庁



【川勾神社】

かわわじんじゃ 神奈川県中郡二宮町。
旧郷社。大名牟遅命・大物忌命・級津比古命・級津比売命・衣通姫命を祀る。社伝によれば垂仁天皇の朝、勅命により阿屋葉造が奉祀したのに始まると伝える。延喜式内社に列し相模国二の宮として崇敬されるに至る。日本武尊東征の折、衣通姫皇子誕生安穏の奉幣祈願があり、源頼朝は夫人政子安産のため神馬を奉納した。北条氏・小田原北条氏・大久保氏等も尊崇篤く徳川家康九州名護屋出陣の際、祈祷札を献上したところ、殊のほか喜ばれ朱印地五〇石を寄せられた。社家二見氏は永延元年(987)藤原景平が伊勢国二見七郷より当地に移り住んだのに始まるという。例祭10月10日。5月5日の国府祭に当社の神輿も渡御する。

神社辞典



川勾神社随身像

川勾神社随身像について
川勾神社宮司 二見直樹
当神社は相模国二之宮であり、古くから二宮大明神とも称し、『延喜式』所載の相模十三座のひとつでありまず。創建は、第十一代垂仁天皇の朝、当時余稜郡・足柄郡両郡の東西海浜周辺を磯長國と称していた頃国造阿屋葉造によって創建されました。
一般に随身門とは、神社に兵杖を帯した随身の像を安置してある門であります。随身とは貴人の身に随ふ事で供人の門といふ意味で、その中に安置してある随身は抱を着、巻纏の冠をつけ、剣を帯び弓箭を負ひてゐる為、矢大臣とも又門の神である豊磐間戸神・櫛磐間戸神を表したものであるとも云はれてをります。
当神社の随身像は豊磐間戸神・櫛磐間戸神をお祀りし、茅葺きの古き門の左右に安置されてゐる一対の倚像形の随身(守門神)であります。
当神社の紀録によると、応永年間、兵火に罹り社殿宝物等悉く焼失の折、神像共々災を免れたとあります、二躰ともに歳月を経、風雪に耐へ、その造形は著しく摩滅し、また虫損も進み、像容の細部を明らかにしない程に変化してゐます。しかしながら、巾子冠を被り抱を着け、沓をはいて倚座する威風堂々たる全体形はよく保たれてゐます、頬骨の張った厳つい面貌や、ゆったりとした抱の袖に刻まれた衣文、先のとがった沓など、しっかりとした造形がみてとれます。構造は巾子冠から脚部まで全てを含む全くの一木造で、複数の節をともなった広葉樹を用ゐて作製されてゐます。
専門の学者によれば、太く厳つい造形は、地方の作ではありますが、平安朝の制作を頷かせるものであり、それは随身の古像として知られてゐます岡山・高野神社の立像(応保2年=1262)などとも一脈通ずる雰囲気をもってゐるさうです。
制作時期は12世紀と考察されてをります。中世期に入ると随身は半蹴像が多くなり、本像の倚像である点はまた古式を示すものと考へられるさうです。
傷みの著しい点がおしまれますが、県下における現存最古の随身像として、非常に貴重なものであります。

社頭貼り紙



古文書・田舟

古文書・田舟 川勾神社所蔵
二宮町指定重要文化財
昭和49年6月5日指定
一、古文書
小田原北条氏の臣山角刊部左衛門の書状
北条氏鬼門除守護神として信仰あつく元亀3年(西歴1572年)正月三嶋麻役銭など寄進のもの
徳川家康公五十石の寄進状の写し
天正19年(西歴1591年)
徳川家康公の書状
文禄の役家康九州名護屋在陣のときの札状など十一点
これら多くの古文書により当川勾神社が古くから幕府および有力な武家の深き信仰を受けていたことかわかる。
二、田舟
長141.0cm 厚さ4.8cm
巾31.0cm
全容の左半形のみで、原木をくりぬいて作られわが国古代奈良朝の頃まで田植えの苗運ぴに使用されたものと推定される。
大正4年5月当神杜裏旧神領地より発堀されたものである。
昭和50年12月5日
二宮町教育委員会

社頭掲示板



川勾神社

川勾は加波和と訓べし○祭神衣通姫命、級長津彦命、大物忌命、(地名記)〇川勾村に在す、(同上)今二宮と称す、例祭月日、○東鑑十二云、建久3年8月9日、早旦以後、御台所御産氣、云云、
相模國神社佛寺奉神馬、云々、二宮、河匂大明神
社領
当代御朱印高五十石

神社覈録



郷社 川匂神社

祭神 大名牟遅命
相殿 衣通姫命 志那都昆古命
創立年代詳ならず、延喜の制式内小社に列せられ、当国十三座の一なり、又当国二ノ宮たり、故に後二宮河匂大明神とも、二ノ宮明神社とも称せり、一条天皇永廷元年粟田中納言次男景平神官たり、建久年間源頼朝社領若干を寄附す、同3年8月5日、又神馬を奉る、後小松天皇応永年間、兵焚に罹り、神殿神宝悉く焼し、僅に随神を存せしのみと、現時の社殿、其建設の年を詳にせず、小田原北條氏より鬼門守護として五十貫文の地を寄せられ、天正19年徳川家康先規に依つて社領五十石を寄す、明治維新に至り諸社と共に上地す、6年7月30日、社格制定に当り、郷社に列せらる、建物は本殿、拝殿、神輿殿、境内地は85坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料






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