もとは、三宮字荒屋、引田部神社の南に鎮座していたと伝。 明暦期(1655−58)までは三宮村大社に越敷社が現存、現在地には八幡社が鎮座していた。 寛文5年(1665)猿八村に遷座し八幡宮と合併した。 峠の頂きに道路に面して鎮座している。 |
越敷神社 越敷神社 祭 神 埴安神 応神天皇 菅原道真朝臣 由 緒 当社は延喜式神名帳に記載ある 佐渡九社神の第七に位する大社である 寛文年中 佐渡国雑太郎三宮村に鎮座せる 祠を先に勧請ありし 八幡社に合祀 遷座せられたり 明治6年8月式内村社に列せられる 明治31年12月4日社殿火難に羅りしを氏子は敬神の念強く翌年より二ヶ年で再建 現在に至る 例祭日 9月1日 社頭掲示板 |
越敷神社 大字猿八字東平にあって、宝暦寺社帳によると埴安(はにやす)神を祭神とする。埴安とは陶土つまり焼物をする人たちの神である。 慶長10年(1606)に与えられた神官の許状で社名は『佐州雑太郡折敷神社」となっており、以降の元和(1615〜24)・明暦(1655〜58)も同じ社名を用いている。畑本郷村の元禄検地帳にも「折敷(おしき)免」という田を2筆記載してあるので、江戸初期には折敷と書いていたことはまちがいない。 猿八に移る以前に、三宮村荒屋の太社(たいしろ)というところにあったとする伝承がある。元和4年(1618)に三宮村折敷神社の巫女(みこ)和泉に与えた許状は、巫女の多かった三宮村の実態を反映しており、越敷社三宮説を納得させる資料でもある。 当社と猿八に村づくりをした斉藤清兵衛の二代目や当時神官であった高橋との関係については、『旧村史』にくわしい。 昭和48年に県の遺跡調査で確認された後山遺跡によって、同52年から3年にわたる発掘調査でおびただしい土器が出土。窯跡は発見されなかった。佐和田町の羽生部落の山や越後の羽生田から陶土が出ることでわかるとおり、羽生や羽ニ生が埴土を扱う職名からつけられた姓であることはまちがいない。事実近年も後山台地から陶土を採取。 畑野町史 |
越敷神社 宝暦寺社帳に当杜当國九社之内也、御神號埴安神造化神也、土神也、神社今は不見と記され明細帳には彦火々出見尊を主祭し誉田別尊を合殿とせり、往古は越敷八幡両社也、其越敷は延喜式所載の旧肚にして本国九社の第七に位す口碑の伝ふる所は初三宮の字荒屋に在りしを慶安元年現地に移祀すといふ、其相殿は寛永5辰年の勧請と元禄の寺社帳に在りと宝暦寺社帳に見えたり、明治6年6月村社に列せらる。 佐渡神社誌 |