氷上姉子神社
ひかみあねごじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】火上姉子神社 尾張国 愛智郡鎮座
          (旧地)元宮【氷上姉子神社境内社】
          熱田神宮境外摂社

   【現社名】氷上姉子神社
   【住所】名古屋市緑区大高町氷上山 1
       北緯35度3分40秒,東経136度55分48秒
   【祭神】宮簀媛命
       『延喜式神名帳頭註』両道入媛命

   【例祭】10月第一日曜日
   【社格】熱田七社の一つ
   【由緒】仲衷天皇4年館跡(現在の末社元宮)に創建
       持統天皇4年(690)現地へ遷
       寛治7年(1093)5月当社の臥木が起き立つた
       平治2年(1160)正月源義朝太刀一口を献納
       寛正2年(1461)造営
       永正6年(1509)鳴海城主安原宗範修理
       天文12年(1543)村瀬隼人拝殿修理
       貞享3年(1686)徳川綱吉造営
       明治5年郷社
       同13年再び熱田神宮の摂社に復す

   【関係氏族】尾張氏
   【鎮座地】仲衷天皇4年館跡(現在の末社元宮)に創建
        持統天皇4年(690)現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       渡殿・幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】元宮

この地は古代の火上の里。日本武尊東征のとき、火上の尾張国造乎止與(おとよ)の館に留まった。尊の死後宮簀媛は火上の地に留めおかれた草薙神剣を祀りその後いまの熱田の地に祀った。
仲衷天皇4年館跡(現在の末社元宮)に創建という。持統天皇4年(690)現地へ遷。
小山の上の神社。叢林はこんもりしているが、国道、高速道路直近でありひどくうるさい。


氷上姉子神社

熱田神宮摂社
ひかみあねごじんじゃ
氷上姉子神社
熱田神宮のお社の一つで、昔から「お氷上さん」と親しく呼ばれ、地元緑区大高町はもとより、広く当地方の人々の限りない崇敬と信仰を集めているお社であります。
当社は、古代尾張の開拓神であった天火明命の子孫で、当時の尾張国造(現代の地方長官)として、氷上の地を本拠としていた乎止与命の館跡に、宮賢媛命を御祭神として仲哀天皇4年(195)に創建された由緒深い神社であります。
御祭神の宮賛媛命は乎止与命の女で、古代随一の英雄と称えられる日本武尊が、東国平定からの帰途この地に瑠まられた際に結婚され、尊のお亡くなりになられた後草薙神剣を奉斎守護して、やがて熱田神宮御創祀への尊い道を開かれた方であります。草薙神剣は、八咫鏡(伊勢神宮内宮に奉斎)や八坂瓊曲玉(皇居内に奉斎)と共に、三種の神器と申し上げ、天皇の御位と共に伝えられた尊い御璽であります。
草薙神剣は申すまでもなく熱田神宮に奉斎されていますが、熱田神宮にお祀りされる前、この火上(のち氷上とあらたまる)の里にお祀りされていたことから、熱田神宮の元宮と云われ、厚い信仰を集めてきました。
当社は古いお社で、数多くのおまつりが行われておりますが、主なる祭典の日時は左記の通りです。
太々神楽 12月最終日曜日14時
頭人祭 5月6日 11時
大高斎田御田植祭 6月第四日曜日 10時
例祭 10月第一日曜日 14時
大高斎田抜穂祭 9月28日 11時
大高斎田御田植祭について
24日(日)午前10時より、摂杜氷上姉子神仕(祭神 宮賛媛命、緑区大商町に鎮座)の境内にある斉田で五穀豊穣を祈るお祭りを行います 斎主(渡邉権宮司)が奉耕者代表に玉紺を授けた後、水玉k模様の着物に身をつつみ、手甲(てっこう)・脚半(きゃはん)・菅笠(すげがさ)をつけた名古屋市農協大高支店婦人部の方々が田植歌にあわせ、手振りゆかしく田舞を舞います。
次に水田に入り鳥帽子に橙色の装束をつけた男子奉耕者の介添えで手さばきも鮮やかに早苗を斎田に植えつけます。
なお、この御田植祭は昭和8年6月2日目に初めて執り行なわれましたが、当時は遠膝愛知県如事、神田名古屋市助役外来賓多数が参列し荘厳な御田植祭であったとのことです。
特に御田植祭は優美な田舞があることで広く知られています。
又、斎田で収穫されたお米は、熱田神宮本宮をはじめ各摂末社四十五社の祭典神事と、毎日のお日供祭にお供えされています。

社頭掲示板



氷上姉子神社

当神社は昔から「お氷上さん」と親しく呼ばれ、尾張氏の祖神として、大高町はもとより、広く当地方一円の人びとから厚い崇敬を集めています。
ご祭神の宮簀媛命は、尾張の国をおさめておられた、乎止与命(おとよのみこと)の女で、古代随一の英雄とたたえられた日本武尊が東国平定からの帰途、この地に留まられた時に結婚されました。その後、尊が伊勢の国の能褒野で亡くなられてからは、尊から託された草薙神剣をこの地で守護してこられましたが、やがて神剣を熱田の地へお祀りされ、熱田神宮御創祀の貴い道を開かれた方です。
御社殿は、乎止与命の館跡(現在の元宮の地)に、仲哀天皇四年に創建、持統天皇四年に現在の地に遷座されました。以後、延喜式(西暦927年)の小社に列せられ、江戸時代の貞享3年(西暦1686年)には、幕府によって御造営が行われるなど、厚い処遇をうけて今日に至っています。

社頭石碑



氷上姉子神社

熱田神宮摂社で祭神宮簀媛命を祀る。「寛平熱田縁起」によれば、日本武尊を建稲種命が火上(現大高町)にお迎えした時、妹の宮簀媛を妃とされ、東征の帰途にも立寄られ、草薙劔を留められたという。仲哀天皇四年、館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で、持統天皇四年(690)に現在地に移ったといわれる。

社頭掲示板



氷上姉子神社

当社は、古代尾張の開拓神であった天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫で、当時の尾張国造(現在の地方長官)として、火上の地を本拠としていた乎止与命(おとよのみこと)の館跡(現在の火上山山頂近くの元宮の地)に、宮簀媛命を御祭神として仲哀天皇四年(195)に創建された由緒正しい神社です。
その後、後醍醐天皇の延長5年(927)に編纂された『延喜式』には、火上姉子(ほのかみあねこの)神社と記載され、又貞治3年(1364)の『尾張国内神名牒』にも従一位氷上姉子天神とあって、古くから格式の尊いお社であったことがわかります。さらに康正元年(1455)12月には、遷宮を示す棟上げのことが見え(『熱田宮年代記』)、永正6年(1509)9月には、本殿と供御所の御修理が行われた記録(『氷上社記』)もあり、江戸時代の貞享3年(1686)には、幕府によって御社殿の造営が行われました。現在の御本殿は、明治26年の熱田神宮御改造の時までの別宮八剣宮の御本殿を、当社へ移築した由緒の深い建造物です。
氷上・姉子の名称
当社の御鎮座地は大高町火上山ですが、昔は「火高火上(ほだかひかみ)」と称しました。ところが当社及び大高の民家がたびたび火による災害を蒙ったので、それまでの地名から火の字を忌んで、「大高氷上」と改めたといわれています。尚、現在は地名については元の火上山に復しています。
また姉子については、『尾張国熱田大神宮縁起』に、日本武尊が御東征の帰路、甲斐国の坂折宮で宮簀媛命を恋い偲のんで詠まれたと伝える次の御歌から付けられたと云われています。
年魚市潟(あゆちがた) 火上姉子は 我れ来むと 床去るらむや あはれ姉子を

由緒書



沓脱島跡

ここは「沓脱島」といわれた所です。日本武尊が東征のおり立ち寄られたときに沓を脱いで休息された説と、「火上山」全体を島にみたて、ここから先が氷上姉子神社の神域になるので、参拝客が沓を脱いだ場所であった、という説があります。下の図は江戸時代の氷上姉子神社の古図です。
「沓脱島」の場所が異体字で「沓脱島」と示されています。
大高歴史の会

社頭掲示板



浜宮跡

ここには「浜宮」というお社がありました。
こ祭神は「塩土老翁」という、航海・製塩など海を司どる神様が祀られていました。
熱田神宮と氷上姉子神社の間が海だった頃、参拝者は神宮から氷上姉子神社へ船で訪れ、この近くの浜鳥居付近に上陸しました。その際、まずここ「浜宮」を参拝し心身を清めました。
下の図は、江戸時代の氷上姉子神社の古図です。「浜宮」の場所が旧字で「濱宮」と示されています。
大高歴史の会

社頭掲示板



火上姉子神社

火上姉子は比加美阿禰古と訓べし○祭神宮簀姫命、(社伝)両道入姫命、(頭注)〇大高庄大高村に在す、今知多郡に属す、(集説府志) 集説云、熱田縁起曰、宮簀姫下世之後建祠崇祭之、號氷上姉子天神、其祠在愛智郡氷上邑、以海部氏為神圭、海部尾張氏別姓也、云々、凡喬座、八劒、日割、火上称熱田四所別宮、延久元年合大宮称五所大神、」張州府志云、熱田縁起曰、日本武尊到尾張國愛智郡時、稻種公啓曰、当郡氷上邑存桑梓之地、伏晴大王税駕息之、云々、又旧説、大高村者始火高也、後改火字為大字云々、宮簀媛命者、神祇宝典曰、蓋宮簀媛者尾張連稲種之姉也、今称姉子神社是也、按、神皇正統記及熱田清稻縁起等、皆為稻種之妹、二説不知孰是也、と云り、神名帳頭注云、両道入姫命日本武妃也、(妃賭本作姉誤)為仲哀母、』そもそも当社祭神の説前の如し、まづ両説を挙て後の考をまつ、〇熱田尊命記云、祈年新嘗の祭の外の諸祭は、皆此社を先とし、後に大宮諸神を祭る、
神位
國内神名帳云、從二位火上姉子明神、

神社覈録



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