日割御子神社[熱田神宮摂社]
ひさきみこじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】日割御子神社(名神大) 尾張国 愛智郡鎮座
          熱田神宮摂社

   【現社名】日割御子神社
   【住所】名古屋市熱田区神宮 1-1-1
       北緯35度7分22秒,東経136度54分33秒
   【祭神】天忍穗耳尊
       『熱田宮旧記』「火徳神」
       『熱田大神宮記』『熱田尊命記集説』『張州府志』『熱田宮略記』迦具土神
       『神名帳頭註』『尾張志』『神社要録』『特選神名牒』武鼓(たけかいこ)王
       『尾張国式社考』『参考本國神名帳集説』『熱田神体傳』稻依別王

       祭神については、火の神説と日本武尊の御子説の二説がある。
       @日本武尊が東夷を征伐された時、焼津にて賊から逃れる際に役立つた火打石(天火徹燧(あめのほとぼし))が祭神であるとする
       A日本武尊の御子とし、武鼓(たけかいこ)王、稻依別王とする。

   【例祭】 6月 5日
   【社格】熱田七社の一
   【由緒】孝安天皇の御代に創建
       承和2年(835)12月日割御子神として名神『続日本後紀』
       正応4年(1291)造営
       天文22年(1553)社殿造営のため勧進
       貞享3年(1686)幕府によつて修覆
       元文5年(1740)再度修造
       昭和20年戦災によつて焼失
       同57年4月旧地に造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】江戸時代以前には八剣宮東南の御所町

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「日破宮」と称していた
   【公式HP】 熱田神宮
   【社殿】一間社流造素木造屋根銅板葺
       

   【境内社】

正門東、本社境内の南東隅に鎮座する。
江戸時代以前には本宮の境内は狡小であつたため、八剣宮東南の御所町に属した。その鎭座地は、少し高台になるが、海に突き出た熱田丘陵の先端に位置しており、社名「ヒサキ」の意味は、水際に張りでた州崎の名残りで、「干崎」の意であろう。


日割御子神社

日割は比左岐と読り、御子は假字也、○祭神武鼓王、(頭注)○熱田大宮南八劒宮東門外に在す、(集説府志)○式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、尾張国日割御子神社二座、〇頭注云、日本武五男武鼓王也、母吉備穴戸武姫、吉備武彦女、集説に、稲依別王云々、稚武彦王、云々、と云る慥ならず、考証、府志共に、火神軻遇突智神、実天火徹燧也、日本武尊東征之時、倭姫命所授之燧也、府志云、謹按、軻遇突智者火霊也、古事記云、倭比売命賜草那芸劒、亦賜御嚢而詔、若有急事解茲嚢口、云々、到相模國之時、其國造火著其野、故知見欺而解開其姨倭比売命之所給嚢口而見者、燧在其裏、於是以其御刀苅擾草、以其燧而打出著向火而焼退、還出皆切滅其国造等、云々、私曰、倭姫命所授神劒、既蔵本宮、又以同時所授燧藏当祠、社伝固有処矣哉、と考へたるは軻遇突智の由縁には似たれども、日割御子を火神といふは、例の推量ならずや、』又云、凡熱田別宮之内、高座孫若及日割共有御子之號、拠神祇宝典則皆為熟田太神御子、然高座仲哀天皇、孫若稚武彦王也、於当祠祭皇未詳焉、夫日本武御子有云々、不知以何皇子為日割御子、とあるは却て正しき考へといふべし、今は暫く頭注の説に從ふといへども、足らざるここちぞすめる、
神位
國内神名帳云、從二位日割御子明神、(一本作火破)
名神
続日本後紀、承和2年12月壬午、尾張國日割御子神、云々、総三神挙預名神、並熱田大神御児神也、

神社覈録



日割御子神社

祭神 天忍穂耳尊
この地は太古水際に張り出た洲崎の名残で干崎(ひさき)といわれていた 記録によれば古くは司破明神と称され、江戸時代初期の慶長年間には掘尾吉晴(松江城初代城主)が当社の造営を行っている

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