鳴海駅北の道路に沿って鎮座する。現在はお旅所とされている。 |
成海神社旧祠 天神社由緒 成海神社旧祠 天神社由緒 古事記に景行天皇40年皇子日本武尊東夷を征すとあるが、その節鳴海浦のこの地にお立ちになった尊は対岸の火高(現大高)丘陵の尾張氏館を望見して、 鳴海浦を見やれば遠し火高地に この夕潮に渡らへむかも とお詠みになった事が熱田神宮寛平延喜に見える。 鳴海神社は是を由縁として天武天皇朱鳥元年尊とその御東征を翼賛した尾張氏祖とを併せ祀ってこの所に創建されたのである。 延喜5年制定の律令書「延喜式神名帳」には尾張国愛知郡成海神社と登録せられ文治2年の「尾張国内神名帳」には従三位上成海天神と称えられて、此所に鎮座東海道古名社と尊ばれた。 戦国時代当初応永年中足利氏武将安原宗範この地に築城のため成海神社を乙字山の現在地に奉遷。 その後永禄3年桶狭間合戦の際この城は今川氏の重要拠点となったが天正年間織田信長により廃城され、後世「鳴海城址」として史蹟に指定された。 城の鎮守として斎かれた天神祠はそのままこの地に遺り世俗成海神社御旅所と称え祭礼の日古例に則り御神幸あり、崖下扇川畔にて御東征の遺意を伝える「御船流神事」が斉行せられる。 平成2年11月 社頭掲示板 |
鳴海城跡 根古屋城ともいい、応永年中(1394−)安原宗範の築城といわれる。 永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもつて奮戦した。 その後、佐久間信盛、正勝らが城主となつたが、天正十八年(1590)廃城となつたと伝えられる。 『尾張志』は東西七五間、南北三四間で四面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。 名古屋市教育委員会 社頭掲示板 |