成海神社
なるみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】成海神社 尾張国 愛智郡鎮座
          (旧地)成海神社【旧地】

   【現社名】成海神社
   【住所】名古屋市緑区鳴海町乙字山 85
       北緯35度5分11秒,東経136度57分12秒
   【祭神】日本武尊 (配祀)宮簀媛命 建稻種命
   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】朱鳥元年(686)6月鎭座
       天応元年(781年)「熱田大神宮御鎮座次第本記」に記載
       文治2年(1186)3月従三位上成海天神「尾張国神名帳」
       弘治3年(1557)12月3日今川義元神領寄進
       天正17年(1589)山口重政より神領寄進
       享保元年(1716)9月京都吉田家より正一位の神階(吉田兼敬宗源宣旨)
       明治元年9月27日明治天皇御東幸の際官幣
       同5年5月郷社
       昭和16年12月15日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとはお旅所=鳴海町字城28番地にあった
        応永初年(1395頃)鳴海城構築で現地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「東宮・東宮明神」と称していた
   【公式HP】 成海神社
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿・直会殿(旧拝殿)・参集殿・神饌調理所・神輿舎・社務所・茶室

   【境内社】天神社・東宮稲荷社・今宮社

朱鳥元年(686)鎮座という。
社地は、もと當社の南600mのところに鎭座される天神社(お旅所=鳴海町字城28番地)の境内付近に存したが、応永年間(1394〜1427)に安原宗範が鳴海城を築いた際、その境内の大半は城地となつたために現在地に移転した。
旧地は丘陵の南端で、小高い丘の上に位置しており、鳴海潟に臨む見晴らしのいい絶景の地であつたと思われる。
祭祀氏族については、明瞭でないが、当時の地形等を勘案すると、付近の大高と同様、海で生活をする人々であつたと思われる。


由緒

成海神社は、天武天皇の朱鳥元年(686年)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀と伝えられています。
是は社伝「成海神社古実聞書」(元禄14年〜延享4年)神主 牧野播磨守英治筆録のみでなく、奈良朝末期 天応元年(781年)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第本記」に成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神と見えることでも肯けます。
ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所でその東征のとき尾張国の長官であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました。
寛平2年(890年)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので成海神社は是を縁起としてその故地に創祀された。
その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成って室町初期、応永の時代(約596年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当って、今の乙子山の地にご遷座したもので現在では当社の御旅所として、礼祭日には神輿渡御で巡幸しその折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を齋行する。
当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依る縁由で旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




成海神社

祭神 日本武尊・宮簀媛命・建稲種命
旧社格 県社、延喜式内小社
創祀 朱烏元年(688)年 〔天武天皇15年〕
例祭 10月10日
境内地 22,221坪
社名・社号
○成海神社
延喜式(延喜5年(905五)撰修五十巻の法令書)第九巻の神名帳尾張国の条、愛智郡十七座の中に(成海神社)とある。その小十三座中に所載せられ、国幣の供進に興かる神杜として官帳に登録せられたのである。
○成海天神
文治2年(1186)3月尾張国中諸神の位階を増進し天下安穏を祈った折の「尾張国神名帳」には、愛智郡坐廿六所の内に「従三位上成海天神」と奉唱したことが見える。
○東宮大明神
成海神杜古実聞書(元禄14年-延享4年の神主牧野播磨守英治筆録)冒頭に、「東宮大明神伝記、延喜式神名帳所載尾張国愛智郡成海神社是也」とあり、弘治三年今川義元朱印状にも「鳴海東宮大明神並八幡神田之事」と見え、その他近世上梓の神名帳考証・張州府志・本国神名帳集説.大日本史神砥志等何れも成海神社を「在鳴海駅、称東宮明神」と記載する。世俗又「東宮様」と私するは蓋し"熱田の東宮"の意としての別称に依る。
◎創祀縁由
天応元年辛酉(781)正月15日熱田宮正祝詞司大内人部宿祢清稲在判の「熱田大神宮御鎮座次第神体本記」に"成海神社日本武尊也、日本武尊由御東征之縁祭神也、至浄御原朝初崇祭所也"と記す。成海神杜古実聞書に「一、人皇四十代天武天皇朱鳥元年熱田神剣自帝都御還座之時当社始而草創之由所申伝也」とあるを立証する記録として尚い。
熱田神宮は日本武尊薨去の直後、火高ノ里(今の大高)の尾張氏館に於て、妃と成られていた宮簀媛が日本武尊よりお預かり申していた草薙神剣を熱田の地に斎き奉った尊いお社である。「古事記」に依るとその神剣を天智天皇7年(668)新羅沙門道行盗みて宮の浜より逃亡するも果し得ず、難波津に漂着して処刑され神剣はそのまま大津宮都に安置され次で天武天皇飛鳥浄見原朝に遷座せられていた。天武天皇15年(686)に至って天皇御不例のト占に熱田神剣御崇りと出で、6月始め即時熱田御還座を仰出され年号も朱烏と改めさせられた。
此の機に日本武尊御東征縁故に依って創祀せられた神社は成海神社を含めて十所が前記「熱田御神体本記」に載せられているのである。
尚又寛平2年(890)10月15日尾張守藤原朝臣村榲記述の「熱田大神縁起」に"日本武尊又歌云奈留美良乎美也礼波止保志比多加知爾己乃由不志保爾和多良部牟加毛とあって、古く第12代景行天皇40年(110)皇子日本武尊御東征に際しては、伊勢神宮に御参拝あって神器の御剣をお受けになり、之を奉じて第一に尾張国造(地方長官一尾張氏始祖の拠るヒカミ(ヒタカとも)の館に至りまして尾張氏舟軍の賛助によりこの地を御東征根拠地とせられたのである。当時この一帯は伊勢湾の入海でナルミ潟と総称していた。その御軍功成って再びナルミの地に御帰還の際ヒタカの尾張氏館を望むナルミ浦の瑞陵にお立ちになって前記の御製歌を口誦あらせられたと拝察する。そこは現鳴海駅北の高台であったであろう。この御歌あってこそ天武天皇朱烏元年熱田神宮神剣御還座を機に成海神社は御縁故深き地の故を以って日本武尊を奉祀する聖地として熱田大宮司庶流稲麿愛知郡牧野村より来って初代神主となり創祀されたのである。 爾来茲に1300年を経る昭和61年5月吉辰を以って式年大祭が斎行されたのである。
当に成海神社創祀縁起と仰ぐこの御歌の遺息は御船流〃と称へる当社特殊神事として伝承せられ、現今も毎年例祭の日御神幸有つて扇川畔で執り行われる。悠久なナルミの歴史を彰はす一端として尚んで頂き度い。
◎社地奉遷
応永初年(1395頃)に至って、鳴海城構築のことと成り、成海神杜鎮座の聖地を冒すを恐懼した城主安原備中守源宗範により神杜は北の方0.5km今の乙子山に奉遷されたが、戦国の世治まって廃城となった今日もその地は成海神杜旧地として飛地境内に指定され「天神社」(祭神本社に同じ)の神祠を安置する。その傍に前記神詠歌碑を新設し、1870余年の古いこの地の歴史を偲ぶよすがと仰ぐべくその企図が進められている。ここを「天神山」(俗称お天王)と称し現に成海神杜飛地境内神社「天神杜」が祀られているのも、鎌倉時代初期文治2年の尾張国神名帳登載従三位上成海天神の御称号が遺されたものとして尊い。ここに立って南面すればヒタカの旧地も遠望され、往古のナルミ潟景観も偲ばれて日本武尊鳴海浦御船出御製歌の遺意深く胸宇を衝く。偶々昭和61年4月応永2年(1395)2月祈年祭に神主尾張宿祢千治が奏上した祝詞一葉を発見した。当に成海神杜旧祠時代の祭詞で、590年前の当杜最古の尊い文献である。
◎神階
文治2年尾張国中神社位階増進の際の本国神名帳に当杜従三位上とあり、一本国府宮藏本「尾張国内神名帳」には正二位上成海天神とも見える。其の後享保元年9月11日神道管領勾当吉田兼敬の名儀を以って正一位成海神杜と進階の宗源宣旨が出され、社宝として保管している。
◎皇室の御崇敬
明治元戊辰年(1868)天皇御東幸の際、御道筋式内諸杜へ官幣使御差立の旨仰せ出され、当社へは9月27日侍従正四位下源朝臣植松雅言卿を勅使として御差遣相成り、畏くも奉幣の嚴儀に興つた。このときの記録は「成海神社官幣使御参向之覚」神主牧野釆女尾張宿祢資知十九歳謹相勤之と、儀前の諸用意調度を始め尾張藩神砥懸よりの鋪設方通告並に御附添・警備諸役の派遣と服装、御参向次第等委細を極めている。御幣物は金子千疋を奉書紙二枚重ねに包み御献上相成った由も伝え、官幣使奉婁の干串は今も本殿内御筥に納められたままである。
◎武門武将の崇敬
○安原備中守源宗範
安原氏は愛智郡の名族で、宗範は足利三代将軍義満の幕下にあって当地を領した。応永初年鳴海丘台に築城の工を起すや、成海神社の地を城域とすることを畏み北の方乙字山に奉遷した。そのとき社殿・御供所・篭所・鳥居並に神輿等一切を造営し奉り、女中方も神鏡八面を寄進した。
○今川義元
桶狭間戦の三年前鳴海城が駿府領首今川義元の手中に帰するや、弘治3年(1557)12月3日義元は成海神社祢宜二郎左衛門に宛て・神領寄進の朱印状一通を下附している。頭書に「鳴海東宮大明神並八幡神田之事」と誌し神領寄進に依り神事祭礼怠りなく勤む可き旨を申し付けている。
○山口長次郎重政
天正14年星崎城主となった山口重政は豫て星崎荘居住の頃より当社敬仰の念厚く十六年伊勢国朝明郡茂福に転封されるや、その翌天正17年(1589)5月吉日知行所たる羽津郷の田畠二十貫文を神領として寄進の書状壱通を東宮神主八幡神主宛に寄せている。然しその所領は慶長二年豊臣秀吉の検知に依って上地させられ、今文書のみを保存する。因に又当社建立由緒宝物帳に依れば重政は天正20年6月本殿造営にも奉賛した旨を記録する。
○山口修理進
寛永6己巳年(1629)10月16日付山口修理進花押の初穂米献納証文尾州鳴海神主宛のもの一通を社宝として藏する。前記山口長次郎重政が徳川三代将軍求光に召されて寛永六年遠江.常陸二州の領主となるや修理進重政と改名し、その知行所たる遠州山名庄より当神社へ御初穂米二俵宛を毎歳奉納するというもので、重政の成海神社信心の念慮深甚であったことに敬服される。
○代官山田貫一郎の崇敬
当社西方近傍の地を森下と称し、ここに尾張藩鳴海陣屋が置かれ主領を代官と呼び愛知・知多両郡内六十九村を支配下とし今日の納税(年貢)・警捕・裁判の職務を掌った。偶々安政6年(1859)9月当地一円にサンコロリ(今のコレラ)と呼んだ疫疾流行の際、時の代官山田貫一郎司祭の下に支配村々を挙げて平癒の祈願を七日問に亘って当社に嚴修した。即ち9月朔日から11日に渉って六十九村の村々より奉賓の御初穂・神楽料・献灯・角力・獅子・万才・花棒・飾り馬等連日賑々しく上納有った旨「御陣屋支配下村々御祈祷之覚」(神主牧野釆女資知)の記録に詳である。
◎旧行特殊神事
○鎭疫神斎
当杜疫神斎の祭事は格別巖修の旧儀であった様で、「成海神社古実聞書」に依れば6月20日特に須佐之男尊以下十座の神々を併せ祀り鎮疫の秘事が執り行われた。是は"神主一人唯授、莫他人洩矣、愼而可奉祭祀之者也〃とあって社家口伝の秘儀であったのである。
翌21日神幸ノ儀あり、2月午日祈年祭・9月9日御湯神楽・11月寅日新嘗祭と共に大祀として毎歳斎行されたものである。この内鎮疫神斎は所謂祭礼ともされ氏子を挙げて奉賛し、近郷近在に周く知られていた様である。安政2年鳴海代官司祭の鎮疫斎が臨時に斯くも盛大に修行せられたのもこの故あったに依る。
○東宮太々神楽講
明治・大正の代に亘って近在の町々村々に当神杜の太々神楽講が組織せられ、毎年2月講社員相寄り相集つて神前に太々神楽が奉納されて賑わった。昭和に入ってこの事は廃されたか、その多年に■だ記念の碑石が神楽面と共に遺されている・近在の人は汎く当社を「東宮明神.お東宮様」と尊称して深く崇敬を捧げていたのである。
○重陽御湯神楽
旧暦9月9日湯立神楽ノ儀有り、牛ノ舌形長餅・新米小豆飯ノ御餅・一夜作りノ甘酒.栗.大根等定めの神饌を調進する古儀で、本社の外末社熊野日白杜・白山社.山神社.神明社にも同様奉仕し、丹下・北浦.花井・山花の氏子四町からの献灯も行われた。地誌「張州府志」.「尾張志」その他に"又九月九日行祭事、昔ハ当杜ノ大祀ナリキ〃と記す。
◎祭礼の変遷
成海神社古実聞書に、年中祭祀之事としてその頭書に「6月20日鎮疫神斎.6月21日神輿神幸」とあるのは即ち祭礼で、2月午日祈年祭・11月寅日新嘗祭.9月9日御湯神楽と共に往古より大祀として斎行されたものである。然し同書の他の一条に「当所前之庵八幡太神祭祀杜式之事元禄年中迄ハ当社神主八幡神人両社乃祭事立合相務処、元禄13庚辰(1700)当杜神前ニテ両人祭礼争論ヨリ出合相止、其後人々勤二成リ産子モ四分六分二立別祭礼モ両度二成ル」とあって、元禄頃の祭礼は7月11日に行っていたことが知れる。当時の祭礼古図に依ると丹下飾馬・三皿祭車・作町獅子頭・根古屋音頭台.相原町傘鉾等が見え、祭礼は鳴海村を挙げて奉賛していた様である。それが元禄13年の祭礼争論で成海.八幡両杜別立し氏子も裏方・表方の二つに成って現況の態勢になったのである。その後成海祭礼は享保3年(1718)6月寺杜奉行に願出て当社御鎮座由緒日たる6月21日の旧儀に復することが認められ、年中行事古記録に依ると「6月21日四門供御調進」とあり、政所南鳥居朝日出山谷嫁茶屋行合西坂山口の四所に夫々当杜鳥居が有ってここに疫神祭供御調進の行われたことも記されている。
明治5年に至って暦制改定により凡て新暦を用いることとなり、旧6月21日を元祭と称して献灯神事あり祭礼日は新暦9月21日と定められたが、台風時季でもあり戦後更に改め十月十日の現行とされ、例祭献幣ノ儀並に神幸祭旧儀のままに執り行われ、山車四両と子供御輿等二十八町よりの神賑奉賛行事が氏子を挙げて営まれ社頭も町中も終日賑やかである。
◎現行特殊祭
○御船流シ
例祭 10月10日一当日旧鎮座地天神社(地名城卜日フ)に神幸有り、その節扇川畔へ「御船板」と称する桧板三枚を捧じ行列を仕立てて扇川畔へ参進、祝詞を奏して御船板を川面に投じて流す。世俗之を船霊として船中に奉斎すれば海上風波の難を避くと言ひ、水中にて競ひ拾ふ。
御船板は長サ三尺六寸.幅六寸五分・厚五分の桧板三枚、中央に「大日本洲尾張国愛智郡成海神社」各枚右下方に「御三神船」・左下方に夫々「天下泰平」・「国土安穏」・「疾病消除」と書き分く。日本武尊鳴海浦御船出の故事を祝詞に日し了って水流する。鳴海浦ヲ見ヤレバ遠シ 火高地ニ コノタ汐二渡ラヘンカモの御詠遺意の祭事として伝承せられるものである。
この日祭車四両町内を巡行し雑踏する。
○節分祭
2月節分の日追儺行事の民俗を尚び斎行される。昭和初年廃絶の太々神楽に代って氏子外近在の人々も多数参詣し、二千六百余件の御祈祷並に豆まき追儺の行事を修し厄祓神符.追儺門札・破魔矢・厄除ダルマ・福豆を授与し、福引・甘酒の接遇有って杜頭終日殷盛を極める。
○夏祭茅ノ輪神事
7月中旬の夜茅ノ輪神事斎行、人形を頒ち・ミヨシを授与し災厄解除の祈祷を修した上、各人茅ノ輪をくぐり、神符・茅ノ輸御守・撤饌を受け、金魚掬ひ・納涼踊りに興じて夏の情趣を娯しむ。露天の店も立ち並び参詣者境内に満ち浴れる。
◎社殿修造の沿革
大東亜戦争前、昭和16年12月15日付神砥院通達を以て当社が県社に列格する迄の社頭のたたずまいと云へば、現本殿と旧拝殿(現直会殿)とこの両杜殿間に中門・渡廊とが配置されているだけであった。県社昇格の記念として杜殿造営が企画され、翌17年先づ本殿を十五間程後方(北へ)に引移し、旧拝殿との間に祝詞殿一宇を新築することとし、仮本殿が旧拝殿北に連接して設けられた。然し戦況熾烈となって造営計画は中止の己むなきに至り、旧拝殿のみで日々武運長久祈願の奉仕を続けた。昭和19年末には遂に来襲敵機の爆弾が境内にも二発落下して山林内に大穴を穿ったが幸に建物の被害は無くて終戦を迎へた。窮亡の戦後生活を耐えぬいて昭和23年末懸案の本殿桧皮屋根の葺替と祝詞殿新築に取りかかることが出来た。資金は山ノ神と白山の所有地を処分し、氏子の浄財寄進を仰ぎ昭和24年秋竣工、盛大に本殿遷座祭を奉祝することを得た。更に昭和32年には拝殿に翼廊を附設し本殿.祝詞殿屋根の銅板葺替工事が明治百年■頌記念事業として施行されて神前壮麗に整備された。然し近年元旦祭・節分祭・桜花祭・夏越祭・祭礼・七五三詣等年内数度の特殊祭斎行に奏者の参列激増して杜殿狭隘を告げる折柄、適々迎へる千参百年祭に対する記念事業として杜殿大修造の工を起すことゝ成り、昭和59年奉賛会が結成され氏子崇敬者各位に汎く賛助を乞ひ、旧拝殿を右方(東)へ移設して直会殿と改め、その跡本殿祝詞殿正面に三十余坪の新拝殿を、更にその左方(西)に参集殿を夫々木造にて新築しこの三殿を翼廊で連接する工事を一年半がかりで施行、昭和61年4月中旬を以て美はしく成し克へた次第である。
当社本殿修補の旧事を調べると、現存最古の棟札に寛正4未年(1463)4月上葺遷宮とあり、今より523年前の記録である。応永初年当社が旧地より現地へ遷移されて67、8年後の棟札で上葺とあるから桧皮屋根葺替施工のもので、神社を奉遷した鳴海城初代城主安原備中守奉建の神殿葺替の棟札と言えよう。安原氏が応永当初建立の社殿結構は大規模のものであった様だが、其の後再度に及ぶ神領の没収で数戸の社家次々と廃絶し神杜の維持頗る困難となり社殿修補も兎角不如意であつたと思われ一時神体を渡殿に奉遷した由を旧社家聞書に窺ひ知る。
延宝5丁巳年(1677)に到つて、漸く氏子の浄財を得て本殿が再建せられた様で・陳札にも建立由緒宝物帳にも建立の事を誌るす。次で宝永3丙戌年(1706)6月11日修理の棟札あり、降つて大正2年現本殿屋根葺替の際慮らずも垂木に「宝永3丙戌暦4月23日釿始」との記載が発見された旨亡父の記録有り、是にって現本殿は即ち延宝5年建立のものと立証される。昭和61年現在で実に309年の星霜を経たこととなる。神さび坐して尊いことである。
◎神社関係古蹟
○燈明島
「尾張志」に"日本武尊東征還御のとき火打石を納め給へる地也〃とあるが、場所は不明で丹下の田中の塚がその跡と伝えられる。
○祓島
丹下光明寺南、眞池川畔の田中に一坪程の島が遺り榎一樹が今も老生する。元ここに祓島社があり、成海神社6月20日の鎭疫斎の祓所であったと伝へる。祓島杜は明治初年成海神社に移し末社と成ったが、近年迄は祭礼の日この跡地に忌竹を立てシメ縄を張る習わしであった。
○社宮司(おしゃごし)
森下の地に無格杜石神社があり、土地の人々杓子に氏名を書き厄除けに参詣した。石神の、セキジン.シャクジンが詑ってオシャクジン・オシャグシ・オ社宮司等とも転詑して各所で厄除信仰或はオサクジン(作神)の農耕信仰として流布されている。ここの石神杜も其の例であったが明治10年1月愛知県御達に依り成海神社へ移転、同社末社道祖杜に合併されてその跡地も廃絶した。
○鉾ノ木
「張州府志」の矛掛樹の条に丹下城跡の辺にあり、日本武尊東征御帰還の砌ここに休憩、老樹に矛をかけられたので矛ノ樹と云ったが枯死した旨を誌す。この縁由で矛ノ木の地名今も遺る。片平小学校北の丘陵である。
○御手洗井
日本武尊鳴海浦御船出に当って、手を洗われたとの伝承ある井戸である。成海神社祭礼神幸の節中世迄は神輿を井上に安んずる神事が行われたが、井戸廃絶のため今はその跡と思われる本町東海道旧札ノ辻辺に駐輦し祝詞を白して往時を偲び奉る。札ノ辻十五坪余は昭和36年迄は成海神社所有の郡村宅地で、ここに木造鳥居一基と石灯篭二基が設置されていたが、交通障害を顧慮し鳴海町と協議の上乙子山地内に換地し鳥居灯篭は天神杜飛地境内に移転し今日に及んでいる。
◎社宝
○古文書 三通 奉書折紙、今川義元及び山口重政神領寄進状、山口修理進初穂米寄附状
○神位々記 一通 享保元年九月正一位進階宗源宣旨
○成海神社古実聞書 一冊 元禄末年神主播磨守英治書上
○瓶 一個 陶器素焼茶壷形伝瀬戸陶祖作、銘祖母懐
○扁額 一枚 木製伝小野道風筆文字東宮日月歩
○棟札 数札、桧板、寛正四年本殿上棟最古
○鉾 二柄、柄朱塗元禄十三年鳴海刀鍛治氏雲作奉納
○太刀 五振 白鞘元禄・享保・宝暦奉納
○列格証書 二通 明治五年郷杜・昭和十六年県社に列格
○神鏡 十五面 享保年間鋳造
○応永2年祈年祭祝詞 一葉 昭和61年4月発見(591年前ノ古文書)
○俳譜「千鳥掛」・「俳諸千韻」二巻

由緒書



成海神社

朱鳥元年(686年)、成海神社の創建当初は今より南の地、扇川に面した天神山に鎮座しておりました。中世の東海道では、熱田神宮から鳴海までの区間は鳴海潟と呼ばれる干潟があり、満潮時には海となる地形でした。天神社には、日本武尊が鳴海潟で詠まれたという御歌が残っています。
「鳴海浦を 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも」(熱田大神縁起より)
御歌にある「火高(現在の大高)」とは尾張国造城館の所在地で、日本武尊の后である宮簀媛命が住んでおられました。東征からの帰還の際に、日本武尊は鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったことが伺えます。
室町時代の応永年間(1394?1528)に、安原備中守宗範の鳴海城築城にあたり、当社は現在の乙子山に社殿が移されました。旧社地である天神山には現在、飛地境内神社の天神社が祀られています。御旅所として、毎年10月第2日曜日の例祭には神輿が渡御します。また、先の神話に因み、御神霊が旧址に渡御し、木片一片を御舩として扇川に流す御舩流神事が伝承されています。
明治元年の明治天皇御東幸の際には、御道筋の式内諸社へ官弊使御差立の旨仰出され、同神社へは9月27日に侍従正四位下源朝巨植松雅言卿が勅使として参向。畏くも奉幣の嚴儀が執り行われ、同5年には郷社、昭和16年には県社となりました。

公式HP



成海神社

平安時代初期の宮中の年中行事や制度などを記した『延喜式』に載る「愛智郡成海神社」にあたるとされる格式の高い神社である。
朱鳥元年(686)の創建といわれ、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祭神とする。初め天神山(根古屋)に在ったが、応永(1394〜1428)のころ安原宗範が鳴海城(根古屋城ともいう)を築くにあたり、この地に移された。
現本殿は棟札にあるように延宝5年(1677)の建立と見られる。
名古屋市教育委員会

社頭掲示板



成海神社

成海は奈留美と訓べし、和名鈔、(郷名部)成海、(仮字上の如し)○祭神日本武尊、(社伝)○鳴海庄鳴海駅に在す、俗東宮大明神と称す、(集説、府志)
社記云、日本武尊東征之日留止之地也、仍祭日本武尊也、
神位
國内神名帳云、從三位成海天神、

神社覈録



郷社 成海神社

祭神 日本武尊 宮簀媛命 建稻種命
天武天皇朱鳥元年6月の創祀にかゝる(社記、府志、尾張名所図会)、此地が日本武尊東征の時須臾止りたまひし所なるを以てなり(神名帳、集説)、当時天神山に在り(社記、名勝地志参取)、醍醐天皇延喜の制小社に列り延喜式)、一に東宮と称するは熱田神宮の東に在るを以てなり(府志、社記)、尾張名勝志にば正一位東宮大明神とあり、又本国帳には正二位鳴海神社とあり、後小松天皇応永年中安原備中守源宗範此地に城を築くに当り今の地に遷す(社記、名勝地志)、後奈良天皇弘冶2年織田信長社領若干を寄せ、又正親町天皇天正17年山口長次郎の寄せし文書今も存せり(名所図会、府志)、例祭の当日には神輿を旧社地天神社に遷し、井上に安んする式あり、又木板一片を以て名けて御舟といひ之を扇川に流す、是れ日本武尊東征の日の龍飼に橡るといふ(府志、社記参取)、中御門天皇享保元年9月11日正一位に進められ、明治元年9月官幣使の参向あり、同5年5月郷社に列し。
社殿は本殿、拝殿、渡殿、籠所、神輿所、社務所、假殿、神札所、祭車蔵等を具備し、境内地13121坪(官有地第一種)あり、鳴海駅の真北に位せり、当社の西方二鉾の木といふ所に矛掛松といふがあり、昔日本武尊東征の日矛を掛けて憩ひたまひし所と云ひ傳ふ、又昔御手洗の御井とてありしといふ。

明治神社誌料



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