深川神社
ふかがわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】深川神社 尾張国 山田郡鎮座

   【現社名】深川神社
   【住所】愛知県瀬戸市深川町 11
       緯35度13分40秒,東経137度6分9秒
   【祭神】正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 天之菩毘命 天津彦根命 熊野久須毘命
       活津彦根命 多紀理日売命 市寸島比売命 多岐津姫命
       (合祀)建御名方神 火具土命
       『神名帳考証』倉稲魂

   【例祭】10月下旬日曜日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】宝亀2年(771)創立
       永享10年(1438)11月吉日の年紀をもつ梵鐘あり
       慶長元年(1596)火災で焼失し現地へ遷
       明治5年5月郷社
       明治40年10月26日神饌幣帛供進社指定
       昭和19年10月7日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧地は東屋敷という
        慶長元年(1596)火災で焼失し現地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八王子社」と称していた
   【公式HP】 深川神社
   【社殿】本殿流造木造銅板葺 信州諏訪の大工立川和四郎によつて建つという
       祝詞殿・幣殿・拝殿・神樂殿・手水舎・神饌所・宝庫・社務所

   【境内社】秋葉社・八幡社・神明社・白山社・恵比寿社
        稻荷社(深川神社奥宮)・市杵島社


瀬戸川北岸。深川小学校西に鎮座する。
社名は地名に由来するとしている。
宝亀2年(771)の創建。本殿は約180年前の文化年間に信州諏訪の名工・立川和四郎の手に成る。立川流宮大工は江戸時代後期に活躍し、素木の建築美と華麗な彫刻で知られている。
永享10年(1438)11月吉日の年紀をもつ梵鐘一基が社宝として大切に保管されており、神仏習合の時代には、社殿以外に塔や堂を設けていたと伝わる。
織田信長が鷹狩の際に参拝した折、美濃の斉藤龍興の刺客に襲われそうになったが、宮司の機転で難を逃れ、その御礼に七十五石の供米を賜ったという。
陶祖藤四郎作と伝えられ、重要文化財に指定されている狛犬がある。鎌倉時代の作とみなされ灰紬の狛犬である。
古くは雌雄(阿吽)一対であったが、そのうち一箇が盗難にかかったといわれていて現在は、吽形だけである。


深川神社

神社の創建と歴史背景
深川神社境内には、石室の中心が約4m四方の横穴式円墳がある。この古墳からの発掘物は現存していないが、石積みの方法から6世紀頃のものと推定されている。古墳の存在は、この場所が辺り一帯を治める長をお祀りしていた「聖域」であったことを示している。また、この地区は良質な陶土に恵まれていることから、土器等を作って生活する集団の中心的な場所であったと言われている。
奈良時代、ここ尾張は、時の政権大和朝廷との繋がりを保つため、宝亀2年(771)に朝廷・藤原氏縁の天津神(あまつかみ=天に住む神々)をこの地に勧請(神仏を分霊して祭ること)、創建した。これが、延喜式(えんぎしき=延喜5年、藤原時平ほか11名の委員によって編纂された古代法典)に記されている深川天神の始まりである。このため、この地にあった国津神(くにつかみ=地に住む神々)は追いやられ、天津神が崇められるようになった。 
神社と信長
室町時代、神仏習合しており、当神社にも他同様に神宮寺があった。この辺りは、特に社僧の力が強く、神社の社掌が中絶していた。当神社にも神宮時があった遺物として、梵鐘・永享10年(1438)があり、瀬戸市の文化財に指定されている。
応仁の乱以降、京都を逃れたきた藤原家一門の公家であった守栄は、藤原系の縁を頼りに転々とし、瀬戸村に至り、天皇家に繋がる神を祀る深川天神にたどり着いた。当時、ちょうど社司が不在で、読み書きのできる人を必要としていたことから、この地に落ち着くことになった。
永禄年間(1560年代)の8代宮司・護弘の時、信長が、鷹狩の際に参拝した折、美濃の斉藤龍興の刺客に襲われそうになったが、護弘の機転で難を逃れ、その御礼に七十五石の供米を賜ったと事蹟がある。その後、慶長元年(1596)に、同じく8代・護弘のとき、天神ノ森より出火し全焼。この火災で残ったのは、狛犬の吽型と梵鐘のみであった。
江戸時代以降から近代まで
尾張誌によると、「深川神社。瀬戸村にありて、今は、八王子の社ともうす。祭神は、五男三女の神なり」と、かつては、八王子社と呼ばれていた。現在の本殿は、文政元年(1804)8月から同6年(1810)12月にかけて15代宮司・守恒のときに建設された。本殿は、諏訪の名匠立川流の立川和四郎富昌(1782〜1856)の作で、優美な彫刻が施され、瀬戸市指定文化財になっている。
また、文政7年(1824)には、陶祖・藤四郎の偉業を称えお祀りする陶彦(すえひこ)社が創建された。現在の陶彦社は、大正15年(1926)、21代宮司・武のときに遷宮が行なわれたもので、設計は、宮内庁に勤め正倉院などを手掛けてきた伊藤平二による。斬新で洗練されたデザインの貴重な建造物である。平成12年(2000)より、73年ぶりに深川神社と陶彦社社殿の修復工事を行い、平成14年(2002)10月に竣工奉祝祭を納め現在に至る。
神社と瀬戸陶業の祖
瀬戸の焼物の祖と言われる、加藤四郎左エ門景正(藤四郎)が、深川神社東隣の陶彦(すえひこ)神社に祀られている。藤四郎は、1190年代、現在の奈良近郊で、藤原元安という役人の家に生まれる。成人後は、久我大納言道親郷に仕え、五位の緒太夫であった。名は景正、別号は春慶という。深草(現・京都市伏見区)で土器類を作り、高麗(朝鮮)などの焼物を蒐集しその焼成方法を研究していた。貞応2年(1223)、道元禅師に随行し宋(中国)へ渡り、6年間焼物造りの秘法を学んだ。
帰国後は、焼物に適した良質の粘土を求め全国行脚。途中、瀬戸に立ち寄り当神社に参篭した際、「神社より巽の方角(南東)、祖母懐の地に、良土がある」という神のお告げを受け、良い木節粘土を発掘した。以後、瀬戸に窯を築き釉薬の開発に貢献するなどして瀬戸陶業の始祖となった。当神社にある国の重要文化財「狛犬」は、神のお告げに感謝した藤四郎が奉納したものとされている。

HP




深川神社

社記によると「宝亀元年(西暦771年)勧請申伝侯」とあり「延喜神名式」(西暦905-927年)に山田郡深川神社とある。
祭神には
天之忍穂耳命(あめのほしほみみのみこと)
天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
能野久須毘命(くまぬくすびのみこと)
多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)
の五男三女神(天照皇大神の八人の御子)が
お祀してあります。
摂社には
白山社(祭神菊理日売命)
八幡社(祭神誉田別天皇又の名を応神天皇)
神明社(祭神大日霊命)
恵比寿社(祭神大国主命、事代王命)
陶彦社(すえひこしゃ)は瀬戸陶業の始祖、加藤四郎左衛門景正をお祀りしてあります。b 神殿
神殿は、文化年間(江戸時代)の造営で、諏訪の名匠立川和四郎(たちかわわしろう)の手に成り、その彫刻は精巧細綴を極めてお り、その造営の年代を証する資料として、上棟の神事に用いられた在銘の木槌二箇が残っている。
主な祭事
1月1日 元旦祭
1月5日 初ゑびす祭
2月3日 節分祭
2月17日 春祭(祈年祭)
(五穀豊穣祈願)
3月第4日曜日 初午深川奥宮稲荷社例祭
4月第3日曜日 陶祖祭
5月 人形焼納祭
6月30日 大祓
(夏疾にかからぬよう祈願します)
午後7時より茅輪(ちのわ)くぐりの神事
10月第3日曜日 深川神社例大祭
11月七、五、三(子供の成長祈願)
11月23日 秋祭新嘗祭(にいなめさい)
(五穀豊穣感謝)
12月31日大祓
国宝こま犬
陶祖藤四郎作と伝えられ、大正2年(1913年)に国宝に指定、昭和25年(1950)重要文化財に指定されている。鎌倉時代の作とみなされ灰紬の狛犬で我が国における陶狛の大宗とされる逸品である。
古くは雌雄(阿吽)一対であったが、そのうち一箇が盗難にかかったといわれていて現在は、吽形だけである。その胎土は綴密で堅く焼けしまり、ヘラ(箆)の跡も鋭くたて髪は櫛目を使って美しい。全体に淡黄緑色の灰粕を施し、その姿は雄潭で精悍の気にあふれている。
残念ながら前肢を神社火災時(約二百余年前)に損傷し現在は一部木製となっている。
梵鐘(永享年銘)
当神杜につりがねの在ることは、本地垂迩説(神仏合祀)を証するものであって、この鐘が慶長八年の大火にその難を免れ、維新の廃仏毅釈(はいぶつきしゃく)政策によって、明治元年神仏分離令が出され、仏像、教典等が散逸した中にあって奇蹟的に残存し、更に第二次世界大戦中の金属供出の危をも逃れて現存していることは、幸いであったと謂える。

由緒書



深川神社

宝亀元年(771)壮健の由緒ある産土神社です。祭神は天照大神の五男三女の御子を祀り、無病息災子孫繁栄を司ります。摂社は主なものに陶祖をまつる陶彦神社、商売繁昌の深川奥宮稲荷社があります。
創建は771年で瀬戸の産土神として由緒があり、社伝によると陶祖・藤四郎が参拝した折り、御霊験により辰巳(東南)の方向に祖母懐の土を得たとされています。宝物には藤四郎作と伝えられる重要文化財の陶製狛犬や「切支丹灯籠」と呼ばれる織部灯籠などがあります。
隣接する陶彦神社には、鎌倉時代に中国に渡り陶業技法を学び瀬戸に伝えたとされる「陶祖・藤四郎」加藤四郎左衛門景正が祀られてます。
4月の第3土・日には陶祖まつりが開催されます。

社頭掲示板



深川神社

深川は布加賀波と訓べし〇祭神詳ならず○山田庄瀬戸村に在す、今八王子と称す、(集説、府志)
類社
山城国葛野郡深川神社の條見合すべし、
神位
國内神名帳云、從三位深川天神、

神社覈録



郷社 深川神社

祭神
天忍穂耳命 天菩日命 活津彦根命 田霧姫命
天津彦根命 市杵島姫命 熊野樟橡毘命 活津比売命
旧と八王子社とも称す、創立年代詳ならすといへども、社記に「宝亀2年勧請と申伝候」と見えたり、延喜式内社にして、奉唱国帳に「從三位深河天神」、集説に「從三位深川神社、天神、一本作正四位下、一川作河、瀬戸村八王子是也と、造替のことは、尾張志に「本社造替は、慶長元年5月、元和9年2月、正保4年9月、延宝2年8月、元禄元年10月、同14年9月遷宮云々」と注せり、明治5年5月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿、祭文殿を具備し、境内地2544坪(官有地第一種)あり、因みに当社所蔵の鐘の銘に云く、「娑婆世界、南謄部州大日本国尾張山田郡内瀬戸村伊勢天照大神白山権現八王子鐘也、願以此功徳、普及於一切、我等與衆生、皆共成佛道、永享10年戊午11月吉日、大檀那瑞龍集博願主敬白、」
と、又尾張名所図会は当社を賀して云く、
「むかし藤四郎当社に参籠し、陶器の創業を祈りけるに、満参の夜、是より巽の方に非類の土ありと夢の告あり、則神勅に随ひ行て見るに正しく祖母懐土なりければ悦ぶ事限りなく、終に此土を得て、皇國の陶器の魂たる物を焼出せり、是ひとへに此神の恵にして、神徳のほど人みな知る所なり。」

明治神社誌料



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