北山トンネル南に鎮座する。 景行天皇41年創祀と伝える。 東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという。 昔から武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉慶長の役に戦勝を祈願し、この社頭から軍船用の帆柱を伐り出したといわれている。 篠木荘33ヶ村の総鎮守であった。 隣接する妙見寺は、室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創され、内々神社の別当を勤め、妙見信仰の中心となり、神宮寺となつていた。 権現造りの社殿は、江戸末期・名工立川一族により造られ、廻遊式林泉型の庭園は、夢窓国師作といわれている。 |
由緒 「延喜式神明帳」(927)にその名の見える古い神社で(式内社という)、創建については日本武尊の東征と深い関係をもち、「妙見宮由緒書」(吉見幸和著・1702)によると、景行天皇41年尾張連祖、建稲種命をまつったのにはじまる。 建稲種命は熱田神宮にもまつられているが内々神社より八、九年おそい創建となっている。 いずれも国造りの始祖の神霊をまつったもので、そのご、各地にたの神社が勧請されしだいに氏子が減少していったという。 内々神社は中世までは、この地域一帯の篠木荘三十三か村の総鎮守で祭には村ごとに毎年湯立神楽が奉納されたらしく、現在も内津村、堀内村、上大富村、下大富村(大留村)・神将村(神領村・)・討手村(・)の銘がある釜がのこっている。 また、尾張、美濃両国の農民たちは、雨ごいの際には当社に祈願をかけており、この地域住民の精神生活の中心であった。 ちなみにつぎのような雨ごい歌がのこっている。 ここが内津か 妙見さまか 竜が水吐く おもしろや西右に立つ雲 乾にや夕立 やがて降り来る 村雨が。 前述の「妙見宮由緒木書」をつづけると、建稲種命は天香語山命の後裔、小豊命の子、宮簀姫のあにで、母は尾張大印岐女真敷き刀婢である。 尾張連清稲の選述した「熱田縁起」によれば、日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍建稲種命の従者久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死された、と早馬をもって報告した。 日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつられたのが内津神社で、神社の有る町を内津というようになったという。 なお、建稲種命の死因については、命が一日船をうかべておられると、羽うつくしく声おもしろい異鳥が海上に飛翔するをみて、これをとらえ日本武尊に献上しようと、おいまわすうちに突風がおこり乗船が転覆し溺死したと書かれている。 むかしから武将の崇敬があつく、慶長二年(一五九七)には、豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり、戦勝を祈願して社頭の大杉七本を伐採して帆柱とし、凱戦ご御礼に社殿を造営したという。 また、慶長18年(1613)には美濃土岐郡妻木城主妻木伝入ならびに可児兼山城主森右近が、天正年中兵火にかけたところをわびて、妻木の城主は鐘楼をたて、妻木村のなかに妙見宮を勧請し、日々崇敬して神罰をまぬがれたとある。 また、社宝として武士、信者から寄進された幾多の刀剣、鏡などがある。 中世からは妙見宮といい、妙見尊王を本地とし、建稲種命を垂迹とした、いわゆる妙見信仰を中心として隆盛をきわめた。 これと密接な関係にある神宮寺妙見寺は、密蔵院開山慈妙上人によって嘉暦年間(1326〜29)に建立されている。 ちなみに、「延喜式」に春日部郡内々神社、「尾張国神明帳」には正三位内々天神としるされている。 祭神は建稲種命・日本武尊・宮簀姫命である。 境内社には福神社(大国主神・事代主神)・三峯社(日本武尊)・天王社(素盞嗚命)・稲荷社(稲荷五柱神)・双殿社(迦具土之神・菅原道真・天照大御神・市寸岐島命・大山祇命・伊弉諾尊)がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
内々神社 景行天皇の御代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場してきます。尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命に会われて、副将軍とされ、その妹宮簾姫命と婚約され、東国の平定に出られました。 平定が終わっての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境内津峠にさしかかりました。その時大変なことが起こりました。 東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを従者の久米八腹が早馬で報せてきました。それを聞かれた尊は「あの元気な稲種が・・・」と絶句し、しばらくして「ああ現哉々々」となげかれ、その霊を祀られたのが内々神社の始めで、内々神社の前の宿場町を内津といいます。 これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祀られた場所は、ここより1km余り入った奥の院だったと思われます。 西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところ大きな岩座があります。見るからに恐ろしいような鉄梯子を登ると、洞窟の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。 社頭掲示板 |
内々神社社殿(県指定) 内々神社の創建は古く、平安時代の延喜式に記載され、祭神には建稲種命・日本武尊・宮簀姫命を祀る。 現在の社殿は、信州上諏訪の大工立川富棟、富之、富万の立川一門によって、文化年間(1804〜18)に造立された。 建築様式は本殿と拝殿を中間の幣殿で連結した、いわゆる権現造である。本殿は三間社流造。拝殿は正画に一間の向拝を構え、軒中央の唐破風と大屋根の千鳥破風の重なりが正面感を強調している。 向拝の海老虹梁に代表されるように、拝殿・本殿共に細部に多くの白木の彫刻が施されており、江戸時代後期の傾向を示す代表的な神社社殿である。 春日井市教育委員会 社頭掲示板 |
内々神社と日本武尊 景行天皇の卸代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場しています。尊は熱田の宮で。尾張の祖といわれる建稲種命に会われ、副将軍とされ、その妹宮簀媛命と婚約され、東国の平定に出られました。 平定が終っての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境内津峠にさしかかりました。その時大へんなことが起こりました。 東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを、従者の久米八腹が早馬で知らせて来ました、それを聞かれた尊は「あの元気な稲稻が・・・・」と絶句し、しばらくして「ああ現哉々々」となげかれ、その霊を祭られたのが内々神社の始めで、内々神社の前の宿場まちを内津といいます。これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祭られた場所は、ここより1Km余り入った奥の院だったと思われます。 西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところに大きな岩くらがあります。見るからにおそろしいような鉄梯子を登ると、洞窟の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。 春日井市教育委員会 社頭掲示板 |