内々神社
うつつじんじゃ


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【内々神社社殿】

県指定文化財
内々神社は延喜式神名帳にも記載された神社で、日本武尊がこの地で建稲種命の訃報を聞いて「うつつかな」と悲泣し、その霊を祀ったのが当社であるとも伝える。現在の社殿は棟札によって、本殿・幣殿が文化7年(1810)、拝殿が同10年(1813)の再建であることが知られる。大工は信州諏訪の立川富棟・富之・富方を招いて造営に当たらせている。
拝殿は桁行3間、梁間3間、入母屋造、銅板葺(もと檜皮葺)で、正面に千鳥破風(ちどりはふ)と1間の唐破風(からはふ)向拝を付ける。この向拝には象や獅子、鳳凰、波に亀、龍などの立体的な彫刻を多用して豪華に飾り、見せ所としている。特に向拝と身舎を繋ぐ昇り龍・降り龍の彫刻は見ごたえがある。主屋の柱は円柱で、四周に縁を設け、室内を前方の奥行2間と後方の奥行1間に二分し、手前の室を格天井、奥の室を鏡天井とする。
幣殿は桁行2間、梁間1間、切妻造、銅板葺(もと檜皮葺)で、前方は拝殿の背面中央に、後方は本殿の庇に取り付く。
本殿は身舎の梁行を2間とする大型の三間社流造で、現在の屋根は銅板葺とされているが、もとは檜皮葺であった。四周に縁を設け、縁の腰組を支える組物に手先が三つ前へ出る三手先斗きょう(みてさきときょう)を用いる。身舎の柱は円柱、正面庇の柱は几帳面取(きちょうめんとり)角柱とし、本殿庇にも象・獅子・植物の彫刻を用いて飾る。身舎柱上には二手先斗きょうを置き、斗きょう間には雲・波の彫刻を嵌め込み、斜め前方へ出る尾垂木も波形の彫刻(隅では龍頭の彫刻)としている。側面の妻飾(つまかざり)には二重の虹梁を渡し、この間に鶴亀と仙人や力士の彫刻を置き、周りには雲の彫刻を充たしている。
この社殿の建立に携わった信州立川流の大工は、彫り物を多用した作風によって近世中期以降次第に名声を広めていき、山梨・静岡・岐阜・滋賀・京都などにも作品を残している。内々神社の社殿は、装飾豊かで立体的な丸彫りや浮彫りの彫刻を数多く用い、立川流の作風がよく表現されており、一連の立川流の作品の中でも質の高いものであるといえる。(岩田敏也)
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【内々神社庭園】

県指定文化財
春日井市の東部、中山道沿いで岐阜県と境を接する近くの内津町に所在する内々神社本殿背後にある、夢窓国師によって作られたといういい伝えのある庭園である。夢窓国師の作庭したという確証はないが、京都・西芳寺の庭園などと同じ南北朝時代の型式をもつ回遊式林泉型のもので、神社裏山の自然の地形を巧みに取り入れて作庭されている。
まず、背後の急峻な地形から三大巨岩を取り入れていて、特に中央の天狗岩は高くそびえ、影向(えいごう)石となしている。そしてその下の平地に丸池が掘られ水を湛え、東西から出島が突き出し、中央に中島がつくられている。池の周囲の岸には種々の石組と庭樹を配し、配石の妙を見事に演出している。ただ江戸時代初期の様相をつたえるような、池の中に浮石が3か所置かれる石組もあり、一部後世の手が加わっているようである。
内々神社は延喜式に載る式内社で、日本武尊の東征にかかる伝承をもつ由緒のある神社でもある。そうした歴史的な背景もこの地に古式庭園を作り出していることと関係していよう。
指定面積・庭園:1,061m2、昭和58年、背後の保存地区を追加指定:4,255.5m2。
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社殿、庭園、すみれ塚

平成17年9月 春日井市
社殿
内々神社は、旧県社で、延喜式神名帳(法典927)に記載されており、現在の社殿は江戸時代後期の文化年間(1804〜1818)に造られました。 社殿は、本殿と拝殿が平行に並び、その間を幣殿という別棟でつなぐ「権現造り」と呼ばれる構造で、本殿は前面に庇をもつ三間社流れ造り、拝殿は正面中央に向拝をもつ入母屋造りとなっています。
庭園
庭園は南北朝時代の名僧、夢窓国師(1275〜1351)の作と伝えられ、廻遊式林泉型という形式です。社殿の裏側にあって少しの平地と急斜面を利用して作られており、神社裏山の自然の岩が巧みに取入れられその下には丸池が掘られています。
すみれ塚
庭園を右手に折れて山腹の台地に登ったところが「すみれ塚」と呼ばれ、内津の俳人・長谷川三止が建てた6基の句碑があります。その中に、芭蕉の徳をしたって「山路来て何やらゆかしすみれ草」と詠まれた句碑があります。

社頭掲示板






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