山裾、谷間に鎮座する。 尾張開拓の祖神大県大神を祀り、垂仁天皇27年本宮山頂から遷祀という。 祭神を国狭槌尊、国之常立尊、大荒田命とする説がある。 延喜式当時の祭神は、大荒田命と考えるのが最も妥当と言える。 平安時代には尾張の国の「二の宮」として「一の宮」である真清田神社につぐ社格を与えられている。 当社を石作神社 尾張国 丹羽郡鎮座に比定する説がある。 |
由緒 尾張国開拓の祖神、大縣大神を祀る。社伝によれば、垂仁天皇27年(約2000年前)尾張本宮山頂より現在地に御鎮座申し上げたと伝えられる。 延喜式内の名神大社にして、尾張二の宮として広く尊宗せられ、事業繁栄・家内安全・開運厄除・交通安全の守護神として上下の人々の崇敬篤く、四時参拝者が絶えません。 尚、御社殿は尾張藩主2代目徳川光友公御再興の建物で、御本殿は三棟造と称され他に類をみない特殊な様式を備え、国の重要文化財の指定を受けております。旧国幣中社。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大縣神社(旧國幣中社) 尾張開拓の祖神大縣大神を祀る当社は、古来より朝廷を始め衆庶の崇敬篤く、尾張の二宮様として親しまれ、事業繁栄・開運厄除の守護神として仰がれております。 当神社の御鎮座は古く、社伝によれば御祭神 大縣大神は、始め濃尾平野を見下ろす本宮山の頂に鎮座されておりましたが、垂仁天皇27年8月(紀元前3年)に現在の地に新宮を営み御遷座されたと伝えられております。延喜式神名帳には名神大社として登載され、大正7年11月28日に國幣中社に列せられました。 現在の御社殿は、尾張藩主2代目徳川光友公が寛文元年(1661年)に再興された建物で、尾張造の構造様式を正確に伝へ、特に御本殿は「三棟造」・「大縣造」と称され他に類をみない特殊な様式を構え、昭和56年6月5日国の重要文化財の指定を受けております。 公式HP |
重要文化財 本殿は各桁行三間、梁間二間、入母屋造の内陣と外陣を前後に並べ、前面に一間通りの庇を設けた、比翼入母屋造の形式になる。 組物は内陣平.三斗、外陣舟肘木(ふなひじき)、庇出三斗、軒は内陣を繁垂木、外陣・庇を疎垂(まばら)木としている。内部は内陣の床を一段高くし、内外陣境は中央に板扉を構える。 祭文殿は四脚門の形式をとり、中央に双折格子戸を建てる。柱はすべて圓柱で、組物は大斗総肘木、軒は二軒繁垂木とする。東西回廊は各桁行五間、梁間二間で、両端二間四方を旺壼して東は神饌所、西は祭器庫としてゐる。方柱で組物はなく、軒は一軒疎垂木とし、棟通りには連子窓を設ける。 この本殿は八幡造とも関連する珍しい形式をもち、質が良い。また、社殿配置には地方的特色があって、神社建築史上貴重な遺構である。 |
青塚古墳 青塚古墳は大縣神社の御祭神 大縣大神の神裔(しんえい) 大荒田命(丹羽ノ縣ノ君の祖)の墳墓であると伝えられており、「青塚」、「茶臼山」、「王塚」などさまざまな呼称があります。 当社より西方4kmの犬山市字青塚141番地外に所在し、犬山扇状地に発達した洪積段丘の端部に位置しており、古墳の西には木曽川によって作られた平野が広がっています。築造の時期は、遺構と出土遺物などから4世紀中頃の古墳と考えられております。 規模は、墳長123m、後円部径78m、後円部高さ12m、前方部長45m、前方部幅62m、前方部高さ7mの前方後円墳で、周囲には自然地形を利用したやや不定形な周濠を有し、県下では2番目の規模を誇り、その精美な形態は全国屈指のものと云われております。 青塚古墳は、大縣神社の所管として昭和41年5月に犬山市指定文化財となり、昭和54年に青塚古墳一帯がほ場整備事業の対象区域に入る事となり、古墳の原状保存の問題が提起されました。そこで県・市教育委員会と地元関係者間で協議し早急に調査が実施され、その結果歴史的、学術的にも価値の高いことが判明し、ほ場整備事業の対象区域から外し、国の史跡指定の申請を行い、昭和58年2月に認定されております。その後も平成8年度の文化庁の「史跡等活用特別事業」にも採択され、墳丘の実物大復原と周辺整備、周辺整備、ガイダンス施設の設置等の事業が行われました。特に復原に当り細心の注意がはらわれたのは、表面に葺石を貼りつめるのではなく、字名として地名にもなっている「青塚」というイメージを崩さないよう小熊笹を植栽している点です。また、墳丘には最下段に出土した壷型埴輪のレプリカを調査に基づき2m間隔で設置しております。平成12年8月5日・6日には竣工に併せ「青塚古墳まつり」が行われました。この記念式典は、次代を担う子供たちが郷土の歴史や文化を体験する事で学ぶ事が出来るよう、埴輪や竪穴式住居の建設、古代衣装の作製、古代食の試食、地元の名所旧跡を周るスタンプラリー等の行事が催され、翌6日には、、国立歴史民俗博物館副館長白石太一郎氏の講演などが行なわれております。翌年からは、中秋の名月に併せ大縣神社崇敬奉賛会が主催し、神楽等の各地の伝統芸能の紹介や、浅野温子、平野啓子による日本神話の語り舞台、山形由美、渡辺克也の演奏会等各種の奉納行事を行っております。 公式HP |
大縣神社 社伝によれば、当社ははじめ本宮呂(一名真霊山)の頂に御鎮座まししを、垂仁天皇27年8月に現在の地に新宮を営み、御遷座されたと伝えられる。(平成9年は御遷座2000年) 承和14年従五位下を授けけられ、仁寿元年官社に列し、同3年従四位下について貞観元年従四位上に進められ、同15年正四位下に叙され、延喜の制では名神大社に列せられた。古来より朝廷を始め武家武将の尊崇深く、殊に事業繁栄・開運厄除の守護神として上下の人々の信仰篤く尾張国二宮と称せられ、大正7年には国幣中社に列格せられた名社である。御社殿は、尾張藩主二代目徳川光友公御再興の建物で、尾張造の構造様式を正確に伝え、国の重要文化財に指定されている。 主なる境内神社 本宮社 本宮山頂(海抜293m)に鎮座し、大縣大神の荒魂を祀る。 姫之宮 御祭神の神裔大荒田命の御子王姫命を祀る 古来より安産・子授など女性の守護神として崇敬が篤い。 国史跡 青塚古墳 神社西方3.3Km 当神社飛び地境内地であるこの古墳は、古来王塚・茶臼山古墳とも称され、大荒田命(邇波縣の祖)の墳墓と伝えられる前方後円墳である。県下最大級の規模を有し、現存する古墳の中でも、その精美な形態は全国屈指のものとされている。 社頭掲示板 |
大県神社 おおあがたじんじや 愛知県犬山市宮山。 旧国幣中社(現、別表神社)。大県大神を祀る。大県大神は邇波県君の祖で倭建尊三世の孫の大荒田命のことという。創祀は不詳であるが、社伝によれば垂仁天皇27年尾張本宮山頂より西南麓の現社地へ奉遷したと伝える。『続日本紀』承和14年(847)無位大県天神に従五位下の授位を初見とし、『文徳実録』仁寿元年(851)官社に列せられ、同3年従四位下に叙せられ、『三代実録』貞観元年(859)従四位上に進み大江音人をして神位記財宝が奉られ、同15年には正四位下の昇叙がみえる。延喜の制名神大社に列し、尾張国二の宮として崇敬されるに至り、後に『奉唱国内神名帳』に正一位大県大明神と記載される。 武家の尊崇も顕著で、元亀年間(1570〜72)織田信重は制礼を出し、天正10年(1582)織田信雄は田畠屋敷等を安堵し、寛文元年(1661)徳川光義は社殿を造替している。本宮山頂に奥宮本宮社があり大県神の荒魂を祀る。主な祭典は、例祭10月10日のほか1月1日=田打祭、3月15日=厄除祈祷祭、4月12日=太々神楽祭、旧6月17日=鎮座祭、8月8日=八ツ八祭などである。境内社の姫の宮は、倉稲魂神。比売神(大県大神の子)を祀り安産・子授け・縁結び・子育てなどの信仰があり、3月15日の豊年祭は天下の奇祭として有名で、当目は参詣者で殷賑を極める。 神社辞典 |
大縣神社 名神大 大縣は於保加多と訓べし○祭神大荒田命、(集説)○柳庄二宮村に在す、(集説、府志)○当国二宮と称す 〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、尾張國大縣神社一座、宗廟社稷問答曰、大縣神社者、倭建尊三世孫大荒田命也、邇波縣君祖大荒田女子玉姫者、建稻種命之妻也、云々、此所以非國狭槌尊也、云々、此説元禄年中平時庸、源普甫、藤信景等、奉邦君之命撰尾張國郡志之曰、点検考索都鄙及金城文庫自他秘書而所記者如斯」集説云、社記別録之」、張州府志云、社説曰、祭神國狭槌尊也、垂仁天皇勅建宮殿、天武天皇朱鳥2年建諸属社、」又云、人物志曰、大縣宮禰宜爾波縣王子孫相継奉祀、按、暦仁元年12月本州諸社神領庁宣曰、尾張俊村假名重松、然則尾張氏庶流耳、 神位、官社 続日本後紀、承和14年11月癸酉、奉授尾張國無位大縣天神從五位下、文徳実録、仁寿元年11月辛巳、詔以尾張国大縣神、列於官社、同3年5月辛亥、尾張国无位大縣神、授從四位下、三代実録、貞観元年2月17日癸卯、授尾張國從四位下大縣神從四位上、同月19日乙巳、遣正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人、向大縣神社、奉神位記財宝、同15年8月13日乙巳、授尾張國從四位上大縣神正四位下、」國内神名帳云、正一位大縣明神、 廃神宮寺 張州府志云、別当真長寺、真言宗、属濃州兼清立寺、昔有神宮寺今廃矣、其墟在祠西北、 社領 張州府志云、社産伝云、古以樂田四百八十町爲神領、中遭乱世悉没田名、猶有注連裁田傘廻田曰名、慶長5年神祖始附社産如于、元和8年戊2月源敬公賜神領百三十六石五斗一升七合、延宝2年寅12月瑞龍公加賜六十三石三斗八升三合都領二百石、歴代賜印章 神社覈録 |
縣社 大縣神社 祭神 大荒田命 俗に二之宮大明神と称す、創立年代詳ならす、但社伝に拠れば、垂仁天皇27年の創建なりと、延喜の制名神大社に列せられ給ひしが、是より先続日本後紀に承和14年11月癸酉、奉授尾張國無位大縣天神從五位下、」と見え、次いで文徳実録に「仁壽元年11月辛巳、詔以尾張国大縣神、列於官社云々、同3年5月辛亥、尾張国无位(從五位下歟)大縣神、授從四位下、三代實録に「貞観元年2月17日癸卯、授尾張國従四位下大縣神従四位上云々、同月19日乙巳、遣正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人、向大縣神社、奉神位記財宝云々、同15年8月13日乙巳、授尾張国従四位上大縣神正四位下、」と見えたり、後ち累進遂に奉唱國帳に「正一位大縣大明神」と見ゆ、其年月詳ならずといへども、文治2年3月若しくは夫れ以前の奉授たるは明らかなり、社領は尾張名勝志に「社産二百斗(云々社家19人)」と見え、張州府志に「社産伝云、古以樂田四百八十町為神領、中遭乱世悉没、田名、猶有注連裁田傘廻田田名、慶長5年神祖始附社産若干、元和8年戌2月、源敬公賜神領百三十六石五斗一升七合、延宝2年寅12月、瑞龍公加賜六十三石三斗八升三合都領二百石、歴代賜印章」 と見えたり、社殿は天武天皇朱雀元年勅して再建し給ひ、清和天皇貞観元年御修理あり、後ち星霜を経て永正元年回禄にかゝり、鳥有となりしを、同15年織田弾正左衛門平久長再建しやゝ旧観に復したりと、現在の社殿は寛文元年藩主徳川光義の造営に係る、当社は上は御歴代より下は武門武将庶民に至るまで厚く崇敬せられ、尾張五社宮の一に数へられて、尾張二之宮と奉称せられたるが、明治元年7月2日縣社に列せらる。 社殿は本殿祭文殿、拝殿、渡殿、直会殿、社務所等を具備し、境内地3510坪(官有地第一種)あり、本宮山の麓にあり、老松巨檜枝を交し天を掩うて頗る幽邃なる神域なり、しかも荘厳なる社宇其の間に位す、誰か神威の厳なるを仰がざるものあらんや、当社祭神は、社説國狭槌尊とすといへども、近世の學者大荒田命とす、其説大日本地名辞書に最も委し、即ち同書は先づ尾張志の説に拠りて論を起せり、云く、「一宮村の大縣神社に大荒田命を祭れるならん、天孫本紀の尾張氏系譜に十二世孫建稻種命、此命邇波縣君祖、大荒田女子玉姫為妻、生二男四女とあるに明し、姓氏録に、倭建尊三世孫大荒田命云々、此大荒田命の荒田と云ふも、当郡の地名なるを負ひましし御名なるべし、其地は旧く丹羽郡なりしが、今は春日井郡に隷ける久保一色村に、荒田と云ふ地あり、又今も当郡なる羽根村の支邑にも荒田と云ふ地あり、此両処ともにこの大縣よりいとも遠からぬが、久保一色なるは、ことにまぢかくて、田縣神社の座地なり、極めて之に依たる神名なる可し、熱田社の延久記に、検校荒田真人言友といふ人見え、元亨釈書に、釈奉實、姓荒田氏、尾張國人也云々、釈賢憶。世姓荒田氏、尾州人也云々、などあるも、皆此同氏にて、即大荒田命の子孫にもやありけん、今は此祭神を國狭槌尊とそ云ふなる、是は二宮と称するより出たる後のこと也、云々と。因みに当社御神体詳ならすといへども、口碑に拠れば、縦横四尺高四尺の檜函の中に鎮座あらせられて、其の重量頗る重し、多分石棺なるべし」と。 明治神社誌料 |