真清田神社
ますみだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】真墨田神社(名神大) 尾張国 中島郡鎮座

   【現社名真清田神社
   【住所】愛知県一宮市真清田 1-2-1
       北緯35度18分27秒,東経136度48分7秒
   【祭神】天火明命
       『大日本国一宮記』大己貴命
       『真清田神社縁起』『真清探桃集』『神祇宝典』『張州府志』国常立尊
       『特選神名牒』『大日本史』『神祇志料』天照国照彦火明命

   【例祭】4月3日(桃花祭)
   【社格】一宮 国幣中社
   【由緒】神武天皇33年3月3日鎮座したとある
       承和14年(847)11月従五位下『続日本後紀』
       仁寿元年(851)11月官社『文徳実録』
       同3年(853)5月従四位下『文徳実録』
       貞観7(865)年7月16日正四位上『三代実録』
       鎌倉時代には順徳天皇が当社を参拝している。
       天正12年(1584)大地震で社殿が崩壊
       寛永4年(1627)藩主徳川義直から105石余の寄進を受け、336石6斗余の社領
       寛文5年(1665)4代将軍徳川家綱から朱印状
       明治18年国幣小社
       大正3年に国幣中社

   【関係氏族】尾張氏
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「一の宮」と称していた
   【公式HP】 真清田神社
   【社殿】本殿流造
       楼門・拝殿・祭文殿・渡殿

   【境内社】服織神社・三八稲荷社・厳島社・八龍神社・秋葉社
        愛宕社・大門稲荷社・神明社・須佐之男命社

   【境内図】 境内図

尾張一宮駅の北東500mほど。市の中心部に鎮座する。
当神社が鎮座する一宮市は、古くから神社を中心にして木曽川の流域に沿って発展し、地域文化の形成に大きな役割を果たしてきた。 もともと一宮市は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水を使い水田を形成していたため、真澄田(ますみだ)の名が生まれた。
当社の鎮座は社伝によれば神武天皇33年というが崇神天皇期ともいわれ詳細は不明。
平安期以降一の宮と称され、阿仏尼の『十六夜日記』に、「一の宮といふ社を過ぐる」とある。
中世末期から江戸時代にかけて祭神は国常立尊であり、明治以降、天火明命にかわったと云えている。それ以前大己貴命を祭神とした時代があったと思われる。
本来の祭神は、未詳と考えられるが、尾張氏の祖先神または奉齋神であったのではないか。
真清田神社と大県神社は仁寿3年まで両社の神階は全く同等、貞観元年に大県社が一階上となり、貞観7年から逆に真清田社の方が上となった。
神職は初め大三輪氏系の真神田氏であったが、のちに佐分・関・魚松・伴野四家が神主となり、その下に神官・行宮司・権官などがあった。
近世、真清田神社の神職を務めた佐分氏は、桓武平氏高棟流を称している。


由緒

当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばされた貴い神様であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




真清田神社

天 火 明 命 (御本社)
三 明 神 社 (別宮)
愛知県一宮市真清田1丁目2番1号
御本社 4月3日(桃花祭)
別 宮 3月24日(御本社荒魂奉齋)
 境内は一宮市の中心、本通りの正面目抜きにあり、一宮市が、神社を中心として発達した町であることが分かります。  面積は約30,090平米(約9,119坪)あり。その周囲には古来、土塀をめぐらしていました。その辺りを馬道具の飾立場とすると共に出店を設け、門前市も盛大に開かれていました。
 古い御社殿は特有の尾張造りの形式を備えた神社でしたが、昭和20年戦災で焼失。その後、昭和32年に本殿以下諸社殿、同36年に楼門が再興されました。現在は、正面参道の楼門を入って正面に拝殿(切妻造)、祭文殿(切妻造)、渡殿(切妻造)、本殿(流造)を、連接した新しい真清田造りの華麗雄大な御社殿です。
 昭和40年、御本殿向かって右に摂社として、服織神社が造営され、真清田の御神徳を象徴しています。又末社としては、境内に神明社、天神社、犬飼社、愛鷹社、愛宕社、厳島社、八龍神社、秋葉社、須佐之男社、稲荷社、三八稲荷社、神水舎井館(彌都波能賣大神齋)等があります。
 御本殿の向かって左には社務所、その北には昭和43年秋に竣功した神楽殿並斎館があり、諸祭事、諸儀式が行われています。
 平成5年には境内裏山に別宮三明神社を御造営し、荒魂を御奉齋しています。
 当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。
 当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。古代悠遠の当国の開拓と日を同じくするものと伝わっています。文化は古来、大河の流域に発達するといいますが、尾張国一宮の文化も、木曽川の流域とその開拓によって開けたものです。
 当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
 江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
 尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市だけです。
▲ 宝物館 当社に古来、神宝として保存されている文化財の数は、数百点の多きに達し、幸いにも先の戦災に難を免れ、貴重な史料として神社の歴史を物語っています。その代表的なものを次に掲げます。
色付の文字の行事はクリックすると詳しい内容がご覧になれます。
指定別 名称 個数 種別 内訳
国重文 舞楽面 12面 彫刻 陵王1、納曽利1、崑崙八仙3、抜頭1、二ノ舞2、遷城楽1、童舞2、貴徳1
承元5年(1211)の調進、その内2面(崑崙八仙)は、延文5年(1360)の調進にかかるものです。いずれも鎌倉時代及び南北朝時代の優秀なものです。
御膳台盤 20枚 工芸 朱漆切角盤8枚、朱漆入角盤、根来(ねごろ)塗 長禄元年(1457)調進。
銅碗・銅皿 22枚 工芸 天正2年(1574)調進。
朱漆フ子 5枚 工芸 長禄元年(1457)調進。
県文 獅子頭 1面 工芸 文明3年(1471)調進。
舞楽面 7面 彫刻 納曽利3、散手2、崑崙八仙1、抜頭1
市文 金銀釣灯龍 2基 工芸 永正15年(1518)作。
能面 3面 彫刻 翁1、尉2
宗教面 3面 彫刻 鬼1、女神1、鬼神1
真清探桃集 8巻6冊 書跡 享保18年(1733)佐分清円作。
銅鈴 1口 工芸 建暦元年(1211)調進。
神頭矢 1手 民俗資料 永正7年(1510)銘。
真清田神社
本殿出土鎮物 1括 考古資料 平安時代及び室町時代の作。
紙本著色
真清田神社古絵図 1幅 絵図 承応2年(1653)修補銘。
  聖武天皇勅額 1面 額 [真清田大神]の5字。
菊紋散双鶴鏡 1面 工芸 享禄2年(1529)銘。
享徳勧進牒     享徳4年(1455)勧進聖「増真」著
八稜素紋鏡 1面 工芸 文明12年(1480)銘。
狛犬 1体 工芸 建長6年(1254)銘。
古縁起 2巻 書跡 応永年中正徹作と伝える。
制礼 4枚   永正13年(1516) 足利義植
慶長16年(1611) 法慶
寛永8年(1631) 徳川義直
承応2年(1653) 徳川光友

HPより



真清田神社

社名・祭神・歴史
真清田(ますみだ)という社名は太古の御世、当地において木曽川の清く澄んだ水による水田地帯が形成されていたことに由来しています。
祭神は伊勢の神宮におまつりされている天照大御神の御孫である天火明命(アメノホアカリノミコト)。摂社・服織神社の祭神・萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)は天火明命の御母神で伊勢の内宮御正宮に相殿の神としておまつりされています。天火明命は尾張地方の開拓に力を尽くされた尾張氏の祖先神として、その御神徳は木曽の水流のごとく清らかにあまねく澄みわたり、当地の今日の隆昌を招かれた貴い神様であります。
当社は平安時代に国から大社と認められ、尾張国随一の鎮守様として地域住民から厚い崇敬を集め、尾張国一宮としてゆるぎない社格を誇るようになりました。
初代尾張藩主・徳川義直は寛永8(1631)年に社殿の大修復を行い、4代藩主・吉通は元禄15年(1702)に本殿を修造、宝永4(1707)年に楼門を再建。延享4(1747)年に8代・宗勝が、また寛政4(1792)年に9代・宗睦がそれぞれ本殿の修造を行うなど、時の為政者が当社に寄せた並々ならぬ信心がうかがえます。
昭和7年(1932)に大規模な社殿修理、境内整備が施されたもののl昭和20年(1945)7月28日夜の空襲によってごくわずかな建物を除いて焼失してしまいました。
戦後、昭和26年に造営奉賛会が結成され、6ヵ年の歳月を要して約300坪の本殿以下拝殿と145坪の社務所が完成。昭和32年11月1日に本殿遷座が斎行され、昭和36年11月に楼門、東神門、東手水舎、鳥居が、昭和43年には神楽殿、斎館、昭和59年には参集殿、平成元年には宝物館が竣工し、今日に至っております。
これらの復興造営事業はすべて巨額の浄財によって賄われました。
「一宮市」の名称は当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は一市六町に及びますが市制が施行されているのは当社が鎮座する一宮市のみであります。

由緒書




吐水龍の記

尾張国一之宮に鎮り座す真清国の大神は、濃尾平野開拓の祖神であり、庶民産衆の守護神であります。
古来旱天、驟雨には、毎時熱烈なる祈雨祈晴の祈願が籠められ霊験あらたかな宮として諸人渇仰の的であった。「臥雲日件録」によれば、畏くも醍醐天皇は、その御宇大旱に際し、弘法大師をして雨乞の祈祷をなさしめられ、大師は龍神に祈って大雨を得たが、この龍神は真清田神社の森林中に鎮つたと伝え「塩尻」には大龍命、姫龍命を配祀すると記し、「真清深桃集」には尊神鎖座のとき八頭八尾の大龍に乗りたまふと見え、「一宮伝記」には下馬橋辺に於て夜毎龍灯が顕れたことを記された等、当社の境内に龍神がましますという信仰は、古くから広く民衆の間に語り継がれている。寛永8年(1631)尾張藩祖徳川義直社殿(源敬公)は、当社の社殿を悉く修造せられ、祈雨祈晴の龍神の象徴として、古代の名作青銅の吐水龍を奉納し、永く五毅豊穣、天下泰平を祈祷せられた。
以来歴代の藩主は、当社を尊信すること厚く屡々晴雨の祈祷を籠められた。藩祖奉納の吐水龍は、現に手水舎□□の上に厳めしい顔を掲げ、日夜滾々として清冽の麗水を吐いて賽□の身魂を清めている。

社頭掲示板




神水拝受のお奨め

この度江戸時代に編纂された「尾張名所図会」にも図示されている由緒ある井戸が復興されました。
この井戸にまつわる伝承は数多く遠くは白河帝がご病気の折宮中より使いが派遣されこの神水を召されて御病を癒されたことや、近くは明冶天皇が当地に行幸になった折この井戸を以って、お茶を献ったと記録に残って居ります。
今に伝えるこの神水を新春の若水に日々の炊飯に薬用の際に、又書道錬磨の清水としてご利用下さいますようお奨め致します。
井戸には古来よりお子様の健やかや成長を祈る井戸のぞき、子預け神事の信仰があります。

社頭掲示板




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