当初、彌都波乃売命一柱を祀っていたが、天平13年、阿波国より波爾山比売命を勧請し、二柱の神を祀る社となった。 本殿の向つて右方に尓岐志神社、左方に式内熊野神社が建つている。 |
由緒 由緒 創立は奈良時代である。当社の縁起書によると、初め水神彌都波乃売命を勧請したとある。 延喜式記載の式内社であり、旧饗庭村全域と旧新儀村の安養寺・新町・井ノ口が氏子である。 かつては土生(はぶ)大明神(俗称”土生さん”)と称していた。これは、神社の所在地が土生谷であるのでこの名がついたと思われる。いずれにしても、この地の山や水を神として祀ったものである。 聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平13年3月神輿一基、神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。寛治2年(1088)5月には、奥羽征討使鎮守将軍源義家が当社に祈願し、弓一張、箭二筋を奉納した。しかし、その後、天下の擾乱によって神領を掠奪され、二百余年間修理することもなく社殿は荒廃した。 明応5年(1496年)四月、後土御門天皇の聖旨をもって社殿は再建され神領も復古した。元亀天正の兵乱により神領は再び没収されたが、元和10年(1624年)再建された。正保3年(1646年)領主酒井忠勝が修理を加えた。この社殿は江戸時代前期のものであり、新旭町に現存する建物としては最古のものである。明治9年郷社に列せられた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
波爾布神社 祭神は埴山姫命、罔象女神で式内社である。かっては対岸の坂田郡都久麻神社より筑摩御饌が供せられ、木津の丑祭と称し、庄内の新婚者により内湖内の御輿渡御が行なわれた。本殿は江戸時代前期の町内最古の建物である。境内には古墳があり、境内からは水の祭礼に使われた土馬が出土し、湖東流紋岩を産出することでも有名である。 社頭掲示板 |
猪垣 猪垣(ししがき)(イノシシよけ)跡 (木津) 今から二百年余り前木津村ではイノシシが裏山から出てきて田や畑をひどく荒らしました。村ではイノシシの侵入を防ぐために村境に猪垣(ししがき)をめぐらすことになりました。「安永年中(1772〜80)惣猪垣割」の絵図によると垣の総間数は1286間(2338m)で、南は今川の人家近くから西は土生社(波爾布神社)の社前を通り北は江海に達しています。これに要した杭は25720本で約9cm(三寸)ごとに一本ということになります。また垣の所々に18か所の出入口と、22か所に落とし穴を掘っています。猪垣工事は村を挙げての大事業でした。今も波爾布神社前から北の十丁坂をこえる付近まで貴重な遺構が確認されています。 社頭掲示板 |
波爾布神社 古老の傳説によれば、往古より当社は水神彌都波乃売命を祀り給へるに、天平13年に至り波爾山比売命を阿波國より勧請し、二神を祭り現在に至る。聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公當社を尊崇され、天平13年3月神輿壱基及神供田武町歩(今に御厨田の小字を存す)を寄進せらる。醍醐天皇延喜の制に二座に列す。後醍醐天皇の元弘年間に至るまで、當郡北部の大社にして、社頭の壮観他社に卓越し、祭典・儀式等頗る嚴重であつた。その後國内の擾乱に際し、神田を掠取され、二百余年間修理するものなく、社殿、建物腐朽し、社頭は衰微する。元和10年3月社殿の改築あつて現在に至る。明和3年5月15日神庫、神輿庫雷火に罹り、古文書等焼失する。明治26年内務省より古社保存資金一百円御下附あり。明治41年4月29日神饌幣帛供進に指定さる。皇室との関係を調するに、寛弘5年8月5日後一條天皇御降誕御祈願の爲、中宮藤原氏より内使紫式部を奉幣使として御参拝あり。此の時神衣一重、長歌一首を奉納せらる。後土御門天皇明応5年4月聖旨を以て社殿御再建了せられ、同年11月10日奉幣使参向、神領地も旧に復す。 武將との関係については、堀河天皇寛治2年5月奥羽征討使鎭守府將軍源義家當社に祈願し、弓一張、箭二筋奉納せらる。正親町天皇元亀3年3月16日本郡大溝城主織田七兵衛尉信澄家臣森半兵衛爲村に令して當社を焼佛はんとせしに神崇りて落馬する。(今に社頭(カ)に奇石あり。落馬石と云傳う)爲村神威を畏れ、帯せる太刀一振及武器三種を奉納して帰る。正保3年領主若狭守忠勝社殿及付属建物に大修理を加えらる。 神社明細書 |
波爾布神社 明細書に創祀年代不詳であるが、口碑によると往古より弥都波乃売命を祀っていたが、天平13年に阿波国勝浦郡建島女祖命神社より波爾山比売命を勧請したと伝えられ、饗庭の庄の総社であり、延喜式内波爾布神社これなりとされる。聖武天皇の御宇井出左大臣橘諸兄の官田であった時、天平13年神輿1基、神供田2町歩(今に御厨田の小字を残す)を寄附され、後醍醐天王の元弘年度に至るまで当郡北部の大社として隆盛を極めた。しかし、元亀天正の兵乱により神田を掠略され、200余年間修理する者無く、社殿等は腐朽し、社頭は衰微した。元和10年後土御門天皇の聖旨をもって社殿が再建された。明治9年郷社に列せられた。同26年内務省より保存資金を下附され、同41年神饌幣帛料供進神社に指定された。 滋賀県神社庁 |
本殿 波尓布神社 (木津) 本殿一棟 この神社は式内社で旧饗庭村と旧新儀村の一部を合わせた十七地区の郷社です。古来高島郡の大社の一つでした本殿は三間社流造向拝一間銅板葺で建立年代は神社に残る棟札から元和10年(1624)であることがわかりました。 近世初期に遡る新旭町最古の建築であり神社本殿として規模が大きく全体に建立当初の姿をよく保っています装飾細部に近世初期の様式を示しながら中世の風を伝えた堅実な造りで中世から続く確かな建築技術で建立された貴重な建物といえます。 平成12年新旭町指定文化財 新旭町教育委員会 社頭掲示板 |
みたらしの池 この池の水は伏流水で、年中澗れることがない。 寛弘5年(1008)8月5日、後一条天皇御降誕祈願のため、中宮藤原氏が内使紫式部を遣わされた。 この時、「はぶのみたらし水わきて・・」の長歌一首と神衣一重を奉納された。この長歌は、当社の祈雨祭で詠われ舞われた。 みたらしの水は神水として尊ばれ、末期の水などにも使われた。 社頭掲示板 |
森為村落馬石 元亀3年(1572)3月16日、後に大溝城主になった織田信澄の家臣森半兵衛為村が当社を焼き払おうとしたが、急に馬が仁王立ちになり落馬した。 神威を恐れた為村は、太刀一振りと武具三種を奉納した。 この太刀は備前国『長船景光』の二尺五寸のものだったが、戦後盗難に遭い、現存しない。 この時の蹄の跡であるといわれている。 社頭掲示板 |
波爾布神社 波爾布は假字也〇祭神在所等詳ならず(光陶云、木津村土生社也、) 神社覈録 |
郷社 波璽布神社 祭神 波原山比売神 相殿 彌都波能売神 創建年代詳ならず、此地聖武天皇御宇橘諸兄公の官田にして、天平16年3月神供田に寄附せられしと云ひ傅ふるを以て観れば、其頃よりの古杜なるべし、延喜の制名神小杜に列せられ、圓融天皇天元2年、中納言藤原敦忠の三男守忠此の地に移住し、本社を産土神と崇敬す、子孫神主に補し、和伝へて今に絶えす奉仕せり、寛弘5年8月5日、後一條天皇御降誕御祈願の為め、中宮より内使として紫式部を以て奉幣せられ、式部乃ち神衣一襲長歌一首を奉納せりといふ、堀河天皇寛治2年5月、源義家当社に祈顧し弓箭を献納せり、蓋後三年役の戦勝を祈りしなり、本杜は古来高島郡に於ける大社の一にして、社頭の壮観他に卓越し、祭典儀式頗る嚴重なりしが、足利氏時代に至り戦乱相次ぎ、神領を失ひ社頭衰頽せしを、後土御門天皇明応5年3月、勅旨を以て社殿を再建せられ、同年11月10日奉幣使参向ありて。神領旧に復せり、後光明天皇正保3年、領主酒井若狭守社殿を修理し既観旧に倍せり、明治3年5月15日神庫雷火に罹り、宝物古文書等悉く焼失せしは遺憾とする所なり、同9年10月郷社に列し、同26年4月内務省より保存資金一百円下附せる、社殿は本殿、拝殿、神輿庫等にて、境内地凡2005坪(民宿地第二種)なり。 明治神社誌料 |