熊野神社(波尓布神社境内社)
くまのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】熊野神社 近江国 高島郡鎮座
          (本社)波尓布神社

   【現社名】熊野神社(波尓布神社境内社)
   【住所】滋賀県高島市新旭町饗庭3363
       北緯35度23分6秒,東経136度1分16秒
   【祭神】熊野久須比命
   【例祭】
   【社格】旧郷社
   【由緒】、天平13年3月橘諸兄寄進
       寛治2年(1088)5月源義家祈願
       明応5年(1496年)4月後土御門天皇神領復古
       元亀天正の兵乱により神領は再び没収
       元和10年(1624年)再建
       正保三年(1646年)領主酒井忠勝が修理
       明治9年郷社

   【関係氏族】熊野連
   【鎮座地】当初字熊野に鎭
        その後波爾布神社境内に遷

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       

   【境内社】

もとは熊野山の地主神として同山字熊野に鎭座。
熊野の小字は現在の新旭町熊野本の西方饗庭野台地の中にあり、現自衛隊ナイキ基地のあたりで、從つて古くは饗庭野台地の中心的な位置であつたと思われる。
その後波爾布神社境内に遷し祀れる。
本殿の向つて左方に小祠がある。
旧社地は神輿平という地名が残っているが、現在は自衛隊演習場になっているため、立ち入ることができない。
wikipediaによると「式内社熊野神社は、元々明月街道沿いの熊野山字能勢という地に鎮座していた。元亀3年3月16日、森半兵衛為村により焼き払われたが、住民が神璽を波爾布神社境内に遷した」「旧社地は神輿平という地名が残っているが、現在は自衛隊演習場になっている」


由緒

創立は奈良時代である。当社の縁起書によると、初め水神彌都波乃売命を勧請したとある。
延喜式記載の式内社であり、旧饗庭村全域と旧新儀村の安養寺・新町・井ノ口が氏子である。
かつては土生(はぶ)大明神(俗称”土生さん”)と称していた。これは、神社の所在地が土生谷であるのでこの名がついたと思われる。いずれにしても、この地の山や水を神として祀ったものである。
聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平13年3月神輿一基、神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。寛治2年(1088)5月には、奥羽征討使鎮守将軍源義家が当社に祈願し、弓一張、箭二筋を奉納した。しかし、その後、天下の擾乱によって神領を掠奪され、二百余年間修理することもなく社殿は荒廃した。
明応5年(1496年)4月、後土御門天皇の聖旨をもって社殿は再建され神領も復古した。元亀天正の兵乱により神領は再び没収されたが、元和10年(1624年)再建された。正保三年(1646年)領主酒井忠勝が修理を加えた。この社殿は江戸時代前期のものであり、新旭町に現存する建物としては最古のものである。明治9年郷社に列せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




熊野神社

熊野神社は祭神熊野久須比命、熊野山の地主神として同山字熊野に鎭座あり、同地を供料として所領に宛て式内の社なりしが、廃止に及びしかば、村民波爾布神社境内に遷し祀れるなり。其趾今に社跡又は神輿平と云ふ名を存せり。明治初年まで祭禮は波爾布神社の拝殿にて熊野祭と称して六月六日能樂を挙行したりしが、維新後廃絶せり。

『高島郡誌』神祇誌



熊野神社

祭神 須佐男命
元は熊野山(現在は饗庭野)の地主神として同山の能瀬に鎮座していた千年以上の歴史を持つ式内社とされている
毛亀3年(1572)3月16日、大溝城主の命で焼き払いにあった時、猛火の中を当社境内に移し祀ったといわれている。
毎年8月5日に能楽を奉納する熊野祭が行われていたが明治になって廃止された。

社頭掲示板



熊野神社

祭神須佐之男命、廷喜式内の名神小社にして、桓武天皇延暦年間の創建なり、其時山門の一院堂立山慈恩寺を、当地の西なる熊野山に建立して、当社を鎮守の神とせしなり、正親町天皇元亀3年3月。織田信長慈恩寺を焼払ひたる節、社殿も亦兵焚に罹りたるを、里人煙中より神体を奉じて本社に奉齋し、後別宮に奉祀せるなり。

明治神社誌資料



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