津野神社
つのうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】津野神社 近江国 高島郡鎮座
          (境内社)田部神社

   【現社名】津野神社
   【住所】滋賀県高島市今津町北仰316-1
       北緯35度25分21秒,東経136度1分51秒
   【祭神】紀角宿祢・武内宿根
   【例祭】 4月18日
   【社格】旧郷社
   【由緒】元亀3年(1572)織田信澄の兵火
       寛永元年(1704)再建
       嘉永7年(1854)造営
       明治14年郷社

   【関係氏族】角氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       社務所・神輿庫・拝殿

   【境内社】厳島社・田部神社・稲荷社・北野社

この地は角氏の本貫の地。豪族角氏ゆかりの神社で、角氏により、角氏の祖が祀られたもの。
角宿禰命三世の孫島根宿禰(角国造)末子宿禰(角山君)兄弟二人(明細帳には角宿禰六世の孫)の勧請という。


津野神社

一、社格と所在
当社は今津町大字北仰字須美森に鎮座せる延喜式神名帳(908)記載の国幣神社にして、旧川上庄二十二ヶ村の氏神なり。往古角氏領有の角郷総社にて、のちに分地され、都農川上の二郷となり、更に治暦年間(1065)善積郷を加えて三郷を川上郷平等院の庄園となせしより現今当社を川上庄の総社と云ふ。明治4年、旧川越県の時郷社となり。犬上県となりて村社に変更。明治14年上格出願により再び郷社に加列せらる。
一、祭神
始め紀角宿祢命を奉斉せしが斉衡年中(854)その父武内宿祢を配祀して、旧角大明神と称す。
その後紀角氏の遠御祖第八代孝元天皇を配祀し、三神を相殿とす。
神社名鑑(1978)に所載す。
一、例祭 4月18日
当社の例祭起源は、古く神功皇后三韓征討の故事に始まり、紀兜を着用し競馬を営むと伝ふ。毎年4月上の申日を祭礼とせしが、逐次変遷し、大正2年の氏子紛争以来日置津野両社二日の祭礼を一日とし、現行の隔年神輿一基の渡御式を行ふこととなせり。
一、社伝由緒
景行天皇志賀の高穴穂宮に坐す時志賀の仰木に在りし武内大臣、西淡海の屯田を賜はり其子紀角宿祢に所管せしめ、この地を角郷と云ふ。宿祢この地に死し遺骸を角山に葬る。一説に武内大臣命を奉じて越国角鹿に向ふ途中病を得しが天地神祇に祈りてこれを拂へり。その子角宿祢を周防国都乃郡より呼び、この地を所管せしむ。その途次志賀の仰木より従者となりて来る者、この地を北仰木と云へり因りて今にその名ありと。
角宿祢の孫田鳥宿祢また周防国の国造たりしが、その曾孫角臣子高見、族小鹿火宿祢と共に此の地に神殿を創建す。これ当社の始なり。神殿は元亀3年8月織田信純に焼かれ、神主は神体を奉じて宮谷に迯る。この時総ての宝物記録を焼失す。元禄11年(1698)この地が堅田藩領となり堀田摂津守の崇敬を得て、毎年献供を受く。
社殿は宝永元年(1704)と嘉永6年(1853)の再建なり。拝殿は元禄2年と文政7年(1824)の再建なり。
一、境内社四社あり
厳島社。祭神 市杵嶋姫命 田心比賣命を相殿。竹生島より神霊を遷し祀りて辨財天と称し北仰一村の産土神なり。年記不詳。天正年間(1573)とも云ふ。享和3年(1803)再建す。
田部神社。祭神。大国主大神。年記不詳。石神なり。田の神と称し大将軍とも称す。應仁乱後平ヶ崎田上森より遷座す。
稲荷社。祭神 倉稲魂命。大田命 大宮姫命の相殿。年記不詳。正徳年間(1711)彦根藩家臣宅より遷座せりとも云ふ。
北野社。祭神。菅原道真公。神主荻野正恵寛永年中勧請す。

社頭掲示板



津野神社

角宿福六世ノ孫角臣來子宿禰勧請スル所ニシテ、則チ延喜式内國幣小社ナリ。且和名抄ニ載スル所ノ都農及川上両郷ノ総社ナリ。傳曰武内大臣越國角鹿へ趣キ給フ時、今ノ西近江路ヲ通行アリテ天神地祇ヲ祭ラルゝハ由アリシコトナラン。其後第五子角宿禰ヲ角氏ノ本居角國(今ノ周防国)都農郡ヨリ淡海高島郡ニ遣ハシ祭祀ヲ修メシメントス。於是角宿禰当國滋賀郡仰村ノ地ニ至ルニ土人從來ラント請フ。即チ若干人ヲ卒ヒ、高島郡ニ來リテ祭祀シ留リ住ス。從者の居所ハ今尚北仰村ト称ス。続日本紀云「以下略ス」立塩焼王爲今席云々。古書ニ角好文、角武廉、角重名トアルハ當郷ノ人ナリ。旧領主堀田摂津守殿、紀朝臣ノ租神タルヲ以テ崇敬厚ク、元禄以來毎年献供シ信仰アリ。

神社明細書



津野神社

鎮座年月不詳であるが紀角宿彌6世の孫角臣来子宿彌が勧請した社で、式内社であり且和名抄に載する所の都農及川上両郷の総社である。社伝に「式内大臣越国角鹿へ趣き給ふ時今の西近江路を通行ありて天神地祇を祭らるるは由ありしことならん。其後第五子角宿彌を角氏の本居角国都農郡より淡海高島郡に遣はし祭祀を修せんしめんとす。於是角宿彌当国滋賀郡仰村の地に至るに土人従来らんと請ふ。即ち若干人を率ひ、高島郡に来りて祭祀し留り住す。従者の居所は今尚北仰村と称す。」とある。明治14年郷社に加列。今津町角川の津野神社と式内社の論社である。

滋賀県神社庁



津野神社

津野は仮字也、和名抄、(郷名部)角野、(都乃)○祭神紀角宿禰命(社説)○川上荘北仰村に在す
姓氏録、(左京皇別上)角朝臣、紀朝臣同祖、紀角宿禰之後也、』光陶云、川上郷廿余ク村産神也、』続日本紀、天平宝字8年9月壬子、軍士石村村主石楯、斬押勝伝首京師、押勝者、近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫、平城朝贈太政大臣武智麻呂第二子也、云々、道鏡常侍禁液、甚被寵愛、押勝患之、懐不自安、乃楓高野天皇、為都督使、掌兵自衛、云々、大外記高丘比良麻呂、懼禍及己、密奏其事、云々、押勝見之失色、即便走高島郡、而宿前少領角象足之宅、とある家足の裔、今に当社の社職たり

神社覈録



郷社 津野神社

祭神 孝元天皇 紀角宿禰命 武内大臣
一説木角宿禰一座を紀る(神社覈録、神名帳考証、神祇志料)、一書に曰く、当社は実は紀角宿禰一座なりしを、斎衡中に至りて武内宿称を相殿に祀れるなり」と、創祀年代詳ならず、されど角宿禰六世孫角臣來子宿禰の勧請する所なりといふ(社記)なほ社記に其鎮座の経路を記したり、曰く「昔者武内大臣越國角鹿(今の敦賀)に赴く事ありしに、妖気忽然として顕る、大臣之を憂へて天神地祇を祈るに妖氣忽ち失す、大臣乃ち角宿禰を高島郡に遺はして祭祀を行はしむ、宿禰旨を受けて滋賀郡を過ぐ、土民之に從はん事を請ふ、是に於て若干人を卒い、高島郡に至りて祭祀をなし一郷を管す、都農郷即ち是なり」と、角氏の人が当郡に住みし事は続日本紀にも見えたり、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)都農川上両郷十八ヶ村の主社なり、後冷泉天皇治暦年間都農川上善積三郷を川上郷中等院の領園に宛つ、平等院依つて都農善積両郷を川上郷と称せしむ、今当社を川上庄十八ヶ村総社といふは之に依りてなり、明治の初年村杜に列し、同13年郷社に昇格す、境内1264坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、其他玉垣、鳥居、手洗舎、社務所等あり 

明治神社誌料



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