海津天神社
かいづてんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大田神社 近江国 高島郡鎮座
          (境内社)小野神社
          (境内社)大鍬神社
          (遙拝所)大前神社

   【現社名】海津天神社
   【住所】滋賀県高島市マキノ町海津1253-2
       北緯35度27分57秒、東経136度4分12秒
   【祭神】菅原道真
   【例祭】4月21日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       建久2年(1191)菅原道真を勧請
       元亀2年(1571)織田信長の兵火にあう
       天正4年(1576)磯野員昌本殿寄進
       天正13年(1585)豊臣秀吉社領寄進
       慶安元年(1648)徳川家光社領寄進
       明治14年郷社
       同24年3月内務省より古社保存資金を下附
       大正4年4月神饌幣帛供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初この地に太田神社が鎮座
        建久2年(1191)菅原道真を勧請

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「海津天神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】金比羅社・貴船社・小野社・大鍬社
        恵比須社・愛宕社・白山社・八坂社・稲荷社
        靖国社・国狭槌社・大前神社

   【境内図】 境内図

現在小野神社は天神社境内社となつているが、小野神社の旧地が別にあることは考えられず、こゝが本来小野神社の地であつた。
現在域は小野社の社域であったが、後に天満宮を勧請して却て本宮となった。
あるいはこの地は太田神社が鎮座していたともいう。
海津神社は以下の式内社との関連があるとされている。
式内社 近江国高島郡 小野神社  境内社として小野神社あり。
式内社 近江国高島郡 大前神社  本殿に合祀といわれ、境内に大前神社遙拝所がある。
式内社 近江国高島郡 太田神社  論社とされている。


由緒

海津天神社は学問の神様である天神様を御本社としてお祀りし古くより此の地方一帯の守護神として皇室を始め将軍家や諸大名や又其他広く一般の人々から深く信仰され往古は社領百三十石の勅願所でありましたが織田信長の兵火に逢い社殿棲門等焼失し社領は没収せられました。
其の後朝廷より毎年正月五月九月の三季に国家安全の御祈祷を仰せつけられ其の都度大麻を献上して大典侍御局より御初穂金弐両づつ計六両毎年奉納せられましたが明治維新に至り宮内省御取次となり明治5年廃止となりました。
豊臣秀吉公より天正13年11月に七石翌14年1月16日に五石計十二石御寄進があり又徳川三代将軍家光公より慶安元年2月24日に御朱印十石を賜り境内山林竹木諸役を免除せられ以後歴代御朱印を賜りその御朱印状は現在も残っています。四代将軍家綱公が江戸西丸に御移徒の際安藤右京進松平出雲守御取次で国家安全の御祈祷仰せつけられ大麻を献上して翌年御自服を拝領しています。
旧領主柳沢甲斐守より領分高島浅井両郡安全の御祈祷を又前田加賀守よりも武運長久子孫繁栄の御祈祷を命ぜられそれぞれ毎年大麻を収めています。
天保5年7月柳沢侯より武運長久五殻成就の御祈祷を乞い御初穂金子五両を奉納されました前田侯は此地通行の際は必ず当神社に参詣し其の都度白銀五枚を奉納し元治元年7月前田慶寧病気の際は其の全快を祈らしめ御初穂白銀五枚を奉納されました。
天正4年4月高島郡司磯野丹波守が本殿を寄進し慶長19年3月代官白崎良純が拝殿を寄進されましたが現在の拝殿は昭和43年改築しています。
宝永3年大鳥居を建立し分政10年社壇を再建しました。
当地海津は北陸より京阪に通ずる水陸交通の要処であり通行の諸大名や各地の船仲間等が旅行の安全を祈願する者多く明治14年郷社に列し同24年3月内務省より古社保存資金を下附せられ大正4年4月神饌幣帛供進社に指定せられました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




海津天神社

大鍬神社、小野神社の創祀は三世紀頃と伝えられている。現在の主最祭神は菅原道真公で、建久2年(1191)の勧請であり、以来、学問の神様として広く崇められてきた。
 天神社のほか、恵比寿神社、貴船神社、国狭槌神社など大小十棟の社が鎮まり、荘重なたたずまいを見せている。
 昔から勅願所で社領一三〇石をうけていた。元亀2年(1571)織田信長の兵火にあう。天正4年(1576)高島郡司磯野員昌が本殿を寄進し、天正13年(1585)豊臣秀吉が社領を寄進している。慶安元年(1648)には徳川家光が社領一〇石を寄進し、以後代々の将軍から朱印状が与えられている。
 当社には、平安末期の紙本墨書法華経一〇巻(重要文化財)や狩野山楽筆板絵著色絵馬(県指定文化財)、長谷川左近筆の板絵著色三十六歌仙扁額などのすぐれた神宝が多い。

社頭掲示板



海津天神社

重要文化財 紙本墨書法華経 海津天神社
この法垂経は、開結経すなわち無量義経・勧普賢経をあわせて十巻一具とするもので、法華経としては完備したかたちで伝来している。表紙は茶地金欄で外題はなく、また見返には、経意を描いた見返絵はないが、金泥地に銀泥にて月模様を描き秋草をあしらつている。
軸頭は八角の水晶をつける。本経は所謂合筆経と呼ばれるもので、おおよそ五〜六人の人が書写している、奈良時代の官立写経所の写経事業とは異なり、平安時代以降、数人の人々が結縁して写経する風が盛行を極め、多くの合筆経がつくられた。これは法華経書写の功徳に結縁し、往生をとげんと願つたのである。本経もその内の一つである。当時は、経典を美しく装飾することで功徳が増すと信じられた時代であり、本経のような装飾経が非常に多く書写されたのである。料紙の装飾技法や書風から見て、平安末期から鎌倉初期の写経であろう。
なお、各巻々首の内題下ならびに巻末にはおおよそ次のような施人記がある。
奉施入 海津東浜天満天神社御宝
正中二年乙丑三月十八日 願主相阿
(巻第四巻末)
この墨書によれば、正中2年(1325)相阿が、本社に法華経開結共十巻を施入したことが知られ、それ以来、,本経は社宝として所蔵されてきたものである。該当期神仏習合の風潮が浸透した社会では、神社に仏典を収めるということはしばしば見られることである。願主の相阿という入は、いかなる人であったかは不明であるが、巻第六巻末に相阿と並んで、「生母秦氏女」という墨書があり、願主相阿の出自を考える上で参考となるものである。
ちなみに、本社にはこの装飾法華経とどもに、紺紙金字法華経開結共十巻・紺紙金字心経ならびに阿弥陀経一巻が所蔵されており、その書風から前者は平安末、後者は鎌倉前期の写経と考えられている。
重要文化財 板絵着色絵馬一対 海津天神社
海津天神社が所蔵している板絵著色絵馬一対は、桃山時代から江戸時代にかけて京都を中心に活躍した狩野山楽(1559〜1635)の筆になるものとして著名な作品である。
いずれも板地に金箔を押し、その上から彩色をして連銭葦毛と鹿毛の一頭ずつの馬を描いている。画面の中に書かれた銘文から、寛永2年(1625)2月に福冨藤衛門なる人物によって奉納されたことがわかる。美しい姿態をみせる躍動感にみちた馬体の表現に、山楽の並々ならぬ力量を知ることができる。しかも絵馬という条件にもかかわらず保存状態の良好なことは貴重というべきで、いかに大切にされてきたかがよく伺える。筆者の狩野山楽は、狩野永徳と並び称される画人である。山楽は、近江国小谷城主浅井長政に仕えた木村永光を父として生まれた。父永光はその後、羽柴筑前守秀吉に仕え、山楽もまた秀吉の小姓となつた。狩野永徳は始め織田信長の御用絵師をつとめ、その死後秀吉に仕えたが、山楽はその桃山時代絵画の巨匠である永徳に直接師事することができたわけである。山楽は永徳と父子の義を約し、狩野の姓を授けられる。永徳亡きあとの桃山画壇の後継者となつたのは、永徳の実子の光信ではなく、実際には山楽その人であつたことを疑う人はいない。山楽の数え年67歳の時に製作された当神社の絵馬には、桃山的重厚さよりも一種の軽快さがより強く感じられる。江戸時代的なセンスが無意識にしろ発揮されているとみるべきであろう。
ここに、桃山時代と江戸時代絵画との橋渡しをした山楽の美術的意義を続みとることが可能であり、その意味でもこの絵馬一対は重要な作品と言われている。

社頭掲示板



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