|
現在小野神社は天神社境内社となつているが、小野神社の旧地が別にあることは考えられず、こゝが本来小野神社の地であつた。 現在域は小野社の社域であったが、後に天満宮を勧請して却て本宮となった。 海津神社は以下の式内社との関連があるとされている。 式内社 近江国高島郡 小野神社 境内社として小野神社あり。 式内社 近江国高島郡 大前神社 本殿に合祀といわれ、境内に大前神社遙拝所がある。 式内社 近江国高島郡 太田神社 論社とされている。 |
|
由緒 海津天神社は学問の神様である天神様を御本社としてお祀りし古くより此の地方一帯の守護神として皇室を始め将軍家や諸大名や又其他広く一般の人々から深く信仰され往古は社領百三十石の勅願所でありましたが織田信長の兵火に逢い社殿棲門等焼失し社領は没収せられました。 其の後朝廷より毎年正月5月9月の三季に国家安全の御祈祷を仰せつけられ其の都度大麻を献上して大典侍御局より御初穂金弐両づつ計六両毎年奉納せられましたが明治維新に至り宮内省御取次となり明治5年廃止となりました。 豊臣秀吉公より天正13年11月に七石翌14年1月16日に五石計十二石御寄進があり又徳川三代将軍家光公より慶安元年3月24日に御朱印十石を賜り境内山林竹木諸役を免除せられ以後歴代御朱印を賜りその御朱印状は現在も残っています。四代将軍家綱公が江戸西丸に御移徒の際安藤右京進松平出雲守御取次で国家安全の御祈祷仰せつけられ大麻を献上して翌年御自服を拝領しています。 旧領主柳沢甲斐守より領分高島浅井両郡安全の御祈祷を又前田加賀守よりも武運長久子孫繁栄の御祈祷を命ぜられそれぞれ毎年大麻を収めています。 天保5年7月柳沢侯より武運長久五殻成就の御祈祷を乞い御初穂金子五両を奉納されました前田侯は此地通行の際は必ず当神社に参詣し其の都度白銀五枚を奉納し元治元年七月前田慶寧病気の際は其の全快を祈らしめ御初穂白銀五枚を奉納されました。 天正4年4月高島郡司磯野丹波守が本殿を寄進し慶長19年3月代官白崎良純が拝殿を寄進されましたが現在の拝殿は昭和43年改築しています。 宝永3年大鳥居を建立し文政10年社壇を再建しました。 当地海津は北陸より京阪に通ずる水陸交通の要処であり通行の諸大名や各地の船仲間等が旅行の安全を祈願する者多く明治14年郷社に列し同24年3月内務省より古社保存資金を下附せられ大正4年4月神饌幣帛供進社に指定せられました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
|
海津天神社 大鍬神社、小野神社の創祀は三世紀頃と伝えられている。現在の主最祭神は菅原道真公で、建久2年(1191)の勧請であり、以来、学問の神様として広く崇められてきた。 天神社のほか、恵比寿神社、貴船神社、国狭槌神社など大小十棟の社が鎮まり、荘重なたたずまいを見せている。 昔から勅願所で社領一三〇石をうけていた。元亀2年(1571)織田信長の兵火にあう。天正4年(1576)高島郡司磯野員昌が本殿を寄進し、天正13年(1585)豊臣秀吉が社領を寄進している。慶安元年(1648)には徳川家光が社領一〇石を寄進し、以後代々の将軍から朱印状が与えられている。 当社には、平安末期の紙本墨書法華経一〇巻(重要文化財)や狩野山楽筆板絵著色絵馬(県指定文化財)、長谷川左近筆の板絵著色三十六歌仙扁額などのすぐれた神宝が多い。 社頭掲示板 |
|
海津天神社 重要文化財 紙本墨書法華経 海津天神社 この法垂経は、開結経すなわち無量義経・勧普賢経をあわせて十巻一具とするもので、法華経としては完備したかたちで伝来している。表紙は茶地金欄で外題はなく、また見返には、経意を描いた見返絵はないが、金泥地に銀泥にて月模様を描き秋草をあしらつている。 軸頭は八角の水晶をつける。本経は所謂合筆経と呼ばれるもので、おおよそ五〜六人の人が書写している、奈良時代の官立写経所の写経事業とは異なり、平安時代以降、数人の人々が結縁して写経する風が盛行を極め、多くの合筆経がつくられた。これは法華経書写の功徳に結縁し、往生をとげんと願つたのである。本経もその内の一つである。当時は、経典を美しく装飾することで功徳が増すと信じられた時代であり、本経のような装飾経が非常に多く書写されたのである。料紙の装飾技法や書風から見て、平安末期から鎌倉初期の写経であろう。 なお、各巻々首の内題下ならびに巻末にはおおよそ次のような施人記がある。 奉施入 海津東浜天満天神社御宝 正中二年乙丑三月十八日 願主相阿 (巻第四巻末) この墨書によれば、正中2年(1325)相阿が、本社に法華経開結共十巻を施入したことが知られ、それ以来、,本経は社宝として所蔵されてきたものである。該当期神仏習合の風潮が浸透した社会では、神社に仏典を収めるということはしばしば見られることである。願主の相阿という入は、いかなる人であったかは不明であるが、巻第六巻末に相阿と並んで、「生母秦氏女」という墨書があり、願主相阿の出自を考える上で参考となるものである。 ちなみに、本社にはこの装飾法華経とどもに、紺紙金字法華経開結共十巻・紺紙金字心経ならびに阿弥陀経一巻が所蔵されており、その書風から前者は平安末、後者は鎌倉前期の写経と考えられている。 重要文化財 板絵着色絵馬一対 海津天神社 海津天神社が所蔵している板絵著色絵馬一対は、桃山時代から江戸時代にかけて京都を中心に活躍した狩野山楽(1559〜1635)の筆になるものとして著名な作品である。 いずれも板地に金箔を押し、その上から彩色をして連銭葦毛と鹿毛の一頭ずつの馬を描いている。画面の中に書かれた銘文から、寛永2年(1625)2月に福冨藤衛門なる人物によって奉納されたことがわかる。美しい姿態をみせる躍動感にみちた馬体の表現に、山楽の並々ならぬ力量を知ることができる。しかも絵馬という条件にもかかわらず保存状態の良好なことは貴重というべきで、いかに大切にされてきたかがよく伺える。筆者の狩野山楽は、狩野永徳と並び称される画人である。山楽は、近江国小谷城主浅井長政に仕えた木村永光を父として生まれた。父永光はその後、羽柴筑前守秀吉に仕え、山楽もまた秀吉の小姓となつた。狩野永徳は始め織田信長の御用絵師をつとめ、その死後秀吉に仕えたが、山楽はその桃山時代絵画の巨匠である永徳に直接師事することができたわけである。山楽は永徳と父子の義を約し、狩野の姓を授けられる。永徳亡きあとの桃山画壇の後継者となつたのは、永徳の実子の光信ではなく、実際には山楽その人であつたことを疑う人はいない。山楽の数え年67歳の時に製作された当神社の絵馬には、桃山的重厚さよりも一種の軽快さがより強く感じられる。江戸時代的なセンスが無意識にしろ発揮されているとみるべきであろう。 ここに、桃山時代と江戸時代絵画との橋渡しをした山楽の美術的意義を続みとることが可能であり、その意味でもこの絵馬一対は重要な作品と言われている。 社頭掲示板 |
|
海津天神社 往古は社領百三十石の勅願所であったが織田信長の兵火に逢い社殿楼門等焼失し社領は没収せられた。其の後朝廷より毎年正月5月9月の三季に国家安全の祈祷を仰せつけられ、その都度大麻を献上し大典待御局より初穂金弐両づゝ計六両毎年奉納せられ、明治維新に至り宮内省取次となり明治5年廃止となる。豊臣秀吉より天正13年11月に七石、翌14年1月16日に五石、計十二石寄進あり、又三代将軍家光公より朱印十石を賜り、境内山林竹木諸役を免除せられ、以後歴代御朱印を賜る。五代将軍家綱が江戸西丸に御移徒の際、安藤右京進松平出雲守取次で国家安全の祈祷仰せつけられ大麻を献上し、翌年自服を拝領する。旧領主柳沢甲斐守より領分高島浅井両群安全の祈祷を命ぜられ、それぞれ毎年大麻を収めた。天保5年7月柳沢侯より武運長久五穀成就の祈祷を乞い、初穂金五両を奉納される。前田侯は此地通行の際は必ず当神社に参詣し其の都度白銀5枚を奉納し天治元年7月前田慶寧病気の際は其の全快を祈らしめ初穂白銀5枚を奉納された。天正4年4月高島郡司磯野丹波守が本殿を寄進し、慶長19年3月代官白崎良純が拝殿を寄進し、宝永3年大鳥居を建立し、文政10年社段を再建する。明治14年郷社に列し同24年3月内務省より古社保存資金を下附せられ大正4年4月神饌幣帛供進社に指定せられる。(贈大政大臣正一位 滋賀県神社庁 |
|
海津天神社 主祭神に、学問の神様、菅原道真公(天神さま)をお祀りする当神社は、延暦二十三(804)年、宮古山に遠祖第九代長教が大野神社(現大鍬神社、式内論社)を創建、その後神託を受け大谷山(444m)南麓の当地を開墾し遷座、此の地方一帯の守護神として深く信仰される。 更に、父子相承の累代祀職の由縁に因り、天暦年間(950頃)、小野神社(式内社、海津大明神)を創祀、建久二(1191)年、贈太政大臣菅原道真公を勧請する。 当地海津は北陸より京阪に通じる西近江路の要衝の為、朝廷、将軍家、通行の諸大名や各地の舟仲間等、旅行の安全を祈願する人も多く、明治十四(1881)年郷社に列した。 近年は、学問の神様として広く崇敬され、入試合格、厄除け、家内安全等、諸願成就を願う人々で、年間を通じ、参詣者が絶えない 公式HP |
|
小野神社 小野は乎乃と訓べし〇祭神小野氏祖神歟○在所詳ならず 姓氏録、(左京皇別下)小野朝臣、大春日朝臣同祖彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也、大徳小野臣妹子、家于近江國滋野郡小野村因以爲氏、 類社 当國滋賀郡小野神社(名神大)山城國愛宕郡小野神社二座、(鍬靭)相摸國愛甲郡、武蔵国多磨郡、但馬国出石郡、土佐國長岡郡小野神社、(斯一座) 神社覈録 |
|
郷杜 天神社 祭神 菅原道眞 本社は正親町天皇の元亀年間兵焚に羅り、旧記など悉く焼失せしかば、創建年代詳らかならずと雖も、其れ以前既に社領百三十石を有せし由なれば、曾ては社運隆昌なりしこと想見すべし、次いで天正13年豊臣秀吉より社領を附せられ、徳川氏に及びても、三代將軍家光の慶安元年2月14日以来、十四代家茂の萬延元年9月11日に至るまで、朱印を賜はること都て九回、特に十代家治の時には社領十石を加附せられ、併せて山林、竹林、及其他の諸賦役を免ぜられしことあり、明治9年10月村社に列し、同13年郷社に昇格せり、境内3035坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、神輿庫、神庫(二〕などあり、 因に記す、本社に關して與地志略に説あり、曰く「按するに此地延喜式神名帳に栽せたまふ所の太田の神社の地なり、物かはり星移り、式内社もおほくはその名を失ふ、当社も古への太田社の地に天満天神を勧請せしものならん云々」と、附記して参考とす。 明治神社誌料 |