当社に伝わる記録によると、推古元年(592年)2月の申の日に、横山五智様子の滝のほとりの杉の巨樹に神霊の降臨あり、郷人その霊夢による神告に随い、翌年(593年)その杉樹を以って神像を彫刻し、経の滝上に社殿を建立奉祀して、本宮横山大名神とあがめまつられたのである。 |
由緒 悠遠なる上代に於て、私達の民族信仰として、雄大且秀麗なる横山岳の雄峰を神聖視して、神霊の憑るところのものとして崇敬したものと考えられる。 この雄大なる山岳は、標高1132mにして遠く東浅井郡等の各地より遥かに望見され、而かもその方向より来たる水流の灌漑によって農耕の業を創め、生命を保つを憶った素朴な農民等がこの山獄を以って神霊的存在として崇拝した事は今も他町の地に拝所というを伝えその行事によっても想見されるところである。 当社に伝わる記録によると、推古元年(592年)2月の申の日に、横山五智様子の滝のほとりの杉の巨樹に神霊の降臨あり、郷人その霊夢による神告に随い、翌年(593年)その杉樹を以って神像を彫刻し、経の滝上に社殿を建立奉祀して、本宮横山大名神とあがめまつられたのである。 この様にして横山岳の中央の上部に鎮座されて伊香、東浅井両郡の農地を一望にし、且つ五智様子の飛瀑の懸れる景勝の地に鎮まつられたのも偶然ならずと思考されるのである。 かくて後仏教隆昌の世となり、白谷の馬頭観世音は本地仏として供に崇拝された。 延喜18年(918年)4月17日神階従四位下に陞され(類聚符宣抄)延長5年(927年)藤原忠平等の勅撰せる延喜式神明帳、伊香郡四十六座のうち横山神社として登載された。 この地はまた奥美濃に通じる要所である為地頭職が置かれその要所に伊香厚行が任ぜられ、その守護神としてその祖伊香津臣命を奉祀されたのである。 古今集第八に「いかこのあつゆき」とあるはこの厚行で雅樂頭神祀大副たりしと伝える。天徳元年(957年)2月中申の日、時の神主横山将監、本地仏馬頭観世音を本郡の横山村に遷座する。かくして本宮横山神社出は、山岳の地に鎮座の為、参拝に難渋するので神慮を伺い、永亨11年(1439年)神主横山五左衛門が本宮を始め緒神を今の宮の内に遷座したと伝え、又別に伝える処では応永年間(1394〜1427年)の遷御なりともいう。 鎌倉時代当国を領した佐々木氏の重臣で、伊香の四家と云われた千田、布施磯野、赤尾の各氏が子孫の元服式を当社社前に於て行なわれたが、寛政年間に至って絶えたとつたえられる。 明治9年村社に列せされ、明治41年神饌幣帛料供進の神社と指定された。境内神社、二之宮(旧社号山王社)三之宮(旧社号蛭子社)は、永亨十一年本宮横山神社が現今の社地に遷座ありし際、倶に遷座されたのである。 四の宮については当杉野は従来上組、中組、向組の三組に別れ、それぞれが守護の社を有し、上組は八幡神社と称し、譽田別尊を祀り、中組は又八幡神社と称し、応神天皇を祀り、向組は白山神社と称し、伊邪那岐命を祀り来たが、明治43年(1909年)2月26日、本社境内神社としてその三殿の祭神を一般に合せて奉祀、四之宮自づと生ずるに至った。この三つの組には古来より「おこない神事」があって元の鎮座の食堂にて行われて来た。合併遷座後も元鎮座地に遺る殿舎に御分霊を鎮め奉り、それぞれ古式による厳粛な「おこない神事」が行われている。 その期日は上組は2月13日、中組2月8日、向組は2月15日である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
横山神社 創立は、推古天皇元年、横山岳字白谷五銚子の滝上にある杉の巨樹に祭神天降りせられたりと伝えられ、旧社地と称するもの、横山岳の中央にあれば、神明降臨の霊木はその附近であろうと云われて居る。後に至りて字経の滝の上に社殿を奉遷した。他に公文所、地頭職屋敷、名主屋敷、神宮寺等が有ったと伝へられている。永享11年に至り神主小野、姓は横山御左衛門、本殿をはじめ其の他の社殿祭神を1社に合祀し現在の地、小字宮内に遷したといわれている。磯野氏の系図に曰く「抑も磯野氏初冠は横山大明神、推古天皇元年衆生済度を盟い給い、白馬に乗りて虚空を飛行し杉野村横山獄の中復に天降りまし、翌年の春2月申の日に跡を垂れ給い、仍て横山の名を得たり云々」。明治9年指定村社となり同42年神饌幣帛料供進指定さる。延喜式内論社。 滋賀県神社庁 |
横山神社 横山は與古夜麻と訓べし○祭神詳ならず○横山村に在す 類社 (欠く) 神社覈録 |