崇神天皇の時代に創祀されたと伝わる。 集落の奥。山腹の神社。 相殿に乃彌神社を寛延2年(1749)より合祀している。 乎彌神社の氏子を北組といい、乃彌神社の氏子を南組と呼んだが、寛延2年、積雪のため社殿が破損したため両組が相談し、乎彌神社に合祀された。 合祀の理由は、積雪ではなく、賤ケ岳合戦の兵火によるとも言われている。 |
乎彌神社 当社の創祀は伝えるところによれば、人皇第10代の御代に、余呉湖辺一帯を開拓し文武両道にすぐれ、住民に農耕の業を奨めし、天之児屋根の命第10世の孫巨知人命の後裔が、同命を祖神として祀り、後又巨知人命の御子梨津臣命が威徳優れ、この地の開発に努められた恵沢を憶って別殿に奉祀した。これ当社の始めである。又承応3年余呉湖引水堀割工事を起し、当社前に川を通し下流の灌漑に供したり、依而海津見命を勧請し奉れりという。是れ余呉湖に縁故を有する所以である。明治の末年迄当社鎮座の地域内に別に村草神社、大名持神社、塞神社、八幡神社がそれぞれ鎮座されてあったが時の政府の指示によって当社に合祀されるに至った。斯く街道通行の守護神が祀られるにいたったのは北越に至る要地であると共に、権現坂を経て西近江に到る分岐の路の基点でもあったのでこれらの神々が祀られるに至ったものと考えられる。延喜式内社。 滋賀県神社庁 |
乎彌神社由緒概略 御祭神 臣知人命 梨津臣命 海津見命 由緒 当社の創建は悠久の上代で、その年代詳らかならずと雖も、往昔この地に繁栄えし天之児屋根命一世の孫臣知人命の後裔が、同命を祖神として祀り、後又臣知人命の御子、梨津臣命が威徳優れ、この地の開発に努められた。恵澤を憶ってこれを別殿に奉祀した。これ当社の始めである。 臣知人命を奉祀せし社を「乎彌神社」と奉称し、梨津臣命を奉祀せし社を「乃彌神社」と奉称し、両社とも延喜の制による式内神社である。 而して中古、下余呉の郷は、北組南組の二組に別れ、北組は乎彌神社を、南組は乃彌神社を奉斉して来たが、賤ヶ岳合戦の兵火の為め両社の社殿悉く焼失したるが故に仮の一社殿を築造して両祭神を合祀し奉斉したが、降って寛延2年(1749)1月、両組相議って、更に規模広大なる一社殿を再築し、両祭神を合祀し父神を祀り来た乎彌神社を以て社名となし、両組ともその氏子として相和して今日に至っている。 当社は余呉湖尻の水の流れる要所たる故にか、承応年間(17世紀)に海神、海津見命をも合祀したのである。 「村草神社」(祭神・天照皇大神)は江土区の守護神であり、「八幡神社」(祭神・誉田別尊)は、北組の守護神であった。「大名持神社」(祭神・大名持命、少彦名命)は、当社の近傍に鎮座ありしと謂われ、「塞神社」(祭神・八衢比古神、八衢比女神、久那土神)は本郷区の中央の広場、「みちのした」と称する地に鎮座されたのである。 以上四社の合併祭も、当社に於ける恒例1月8日の合併記念祭に神名を称えて祭祀されるのである。 平成25年1月 昭和丁丑の会 社頭掲示板 |
乎彌神社 乎彌は假字也○祭神在所等詳ならず 神社覈録 |