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阿直岐氏の子孫が、安食郷安食に住み、阿直岐の祖をまつたものと考えられ、社名の起源と考えられる。 この神社の特色として、神苑があることである。神苑は洋池形式の多島式神苑である。 阿自岐神社の神苑は、昭和35年1月29日に滋賀県 指定名勝とされており、上古の庭園として注目されている。 この地は阿直岐氏の邸宅の跡であろう。 |
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由緒 当社は延喜式神名帳に記されている古社で「阿自岐神社」の社名は祭神「味耜高彦根神」の「味耜」の約音であるといわれている。 明治十四年に郷社、同四十四年に県社に昇格。 当社の境内は全体が庭園になっており、社殿を中心に東西に池があり、池には多数の島を配しており、池泉多島式庭園のようすをそなえている。 庭園の規模は大きく、池中の中島には数百年の老杉が育成している。 作庭年代は上古時代のものと推定され、原形をとどめているのは当社のみとされている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
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阿自岐神社 主祭神 味耜高彦根神・道主貴神 相殿神 天児屋根命 保食神 須佐之男命 合祀祭神 天照大神 大物主神 応神天皇 宇迦之御魂神 大己貴命 猿田彦神 埴山姫神 由緒 式内とは、醍醐天皇延長5年12月に撰選せられた延喜式神名帳所載の神社の意。古より朝廷の尊崇殊の外に篤く官幣に預かった社である。その数全国で2861社、近江国で155社、犬上郡内で5社、当社はその一である。 この地安食の名は当社名阿自岐に由来するもので食物豊富にて安住できる地の意である。境内より湧出する清水は深遠優雅なる園地を形成して古代庭園の様相を伝えるものであるが、湧水は干魃甚だしき時もこんこんとして尽きることなく常にこの地を潅漑して年穀豊かに稔り、文字通り安食の里となした。 氏神恩恵に報いる敬神の花は自ら咲き出て天朝に達し官幣に達したのはその結実である。 当庭園は昭和33年滋賀県文化財に指定された。 社頭石碑 |
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阿自岐神社 滋賀県指定名勝 阿自岐神社庭園 昭和35年1月20日指定 珂自岐神社庭園は、阿自岐神社境内に広がる大きい池と大小の島からなる神苑である。神社境内地のほか周辺部も含め14筆□□□□面積16.162uが指定範囲となっている。 近くには安食西古墳があり、延喜式神名帳の阿自岐神社二座とみなされることから、渡来系の氏族である阿直史との関係がとりざたされたが、庭園の成立事情などは未詳である。池中にショウズとよばれる湧水があり、これが農業用水池として大いに利用されてきた。 神社本殿の地は、池が四周をめぐる島であったといい、東西の道路ができた際に社前も改修し池が東西に分かれた。そして6年にわたる庭園整備事業(昭和56年完了)により現況のようになつた。 平成6年3月 滋賀県教育委員会 社頭掲示板 |
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阿自岐神社 県指定有形文化財 阿自岐神社本殿 三間社流造、向拝一間、檜皮葺 平成3年3月30日指定 当社には、現在の本殿造営時の見積入用帳を所蔵し、棟札や妻壁板の墨書から・文政2年(1819)に建立され、棟梁は安食西村田中嘉助と今在家村本澤甚六であったことが分かる。 三間社流造の本殿形式は、全国的に分布して遺構も多い中で、この本殿は小規模で県下の中世に多い正面一間通りに前室を設けている。柱上には台輪を廻し、本殿の中で数少ない尾垂木二手先組物を置いて派手に飾り、蟇股には輪郭が隠れるほど彫刻を施し、尾垂木先端を挙鼻風とした派手な意匠を採用している。 造営の史料もそろい、意匠や技法に江戸後期の特徴をよく伝えている。 平成4年3月 滋賀県教育委員会 社頭掲示板 |
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阿自岐神社 当社は延喜式神名帳に記されている古社で「阿自岐神社」の社名は祭神「味耜高彦根神」の「味耜」の約音であるといわれている。明治14年に郷社、同14年に県社に昇格。当社の境内は全体が庭園になっており、社殿を中心に東西に池があり、池には多数の島を配しており、池泉多頭式庭園のようすをそなえている。庭園の規模は大きく、池中の中島には数百年の老杉が育成している。作庭年代は上古時代のものと推定され、原型をとどめているのは当社のみとされている。 滋賀県神社庁 |
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阿自岐神社庭園 阿自岐神社は百済系渡来人アジキ氏が祖先を祀った神社とされ、社殿は、池泉多島式と呼ばれる古式庭園の中に鎮座する。この庭園は周辺の田畑を潅漑する用水池を原型とし、これを荘厳したしたものと考えられる。人の営みに欠くことのできない水が生まれる水源、ここには神が宿り、神に豊かな水の恵みを祈念する。人間の水に対する自然な心象がこの庭園を生み出した。 阿自岐神社 阿自岐神社は、応神天皇のころ、百済からの渡来人であるアジキ氏が住んだところに建立された、氏族の相先神を祀った神社と伝えられている。式内社の一つで、農耕の神「味耜高彦根神」と道路を守護する「道主貴神」他3社の神々を祀る。現在の本殿は江戸時代初期の建物で、比較的小親模ではあるが、豪華な彫刻で飾られ、時代の特色を良く表す社殿である。 庭園の起源と阿自岐神社庭園 近江には多数の優れた古庭園が伝えられている。庭園を構成する要素として不可欠なものに水がある。それが枯山水の庭園であっても、これは、視覚的な水を排除することにより、心象的な水の姿を強調する技法である。庭園の起源を見たとき、多くが水源を荘厳したものであることに気付かされる。水源を水の命が生まれる神聖な場所であると意識したとき、ぞこを俗界と区別しようとする。その最も簡単な方法が水源を注連縄で結界する方法であり、やがて、水源の水を引き入れた池を堀り、岩を組み植栽して回りを荘厳するようになる、まさに庭園である。この心象は神社に遺された庭園において顕著であり、その代表的な庭園が阿自岐神社庭園である。 水源の庭園 阿自岐神社庭園は、広大な池に浮かぶ小島の数々、そして島を結ぶ石橋により構成される池泉多島式と呼ばれる庭園である、現在の社殿も、かつては、池に浮かぶ島の上に建っていたと考えられている。 この池の水源は池の西南にあり、元々は、周辺の水田を潅漑する用水の湧水地であったと考えられる。この水を使い田畑を拓き繁栄した人々は、やがて、水源地そのものを荘厳し、神を和ませ、また見る人も水を愛でた。そして、この中に、地域の開発を主導した祖先を神として祀る社殿を建立した。これが阿自岐神社であり、阿自岐神社庭園だったのだろう。「干町田を養う神の清水かな」と刻まれた小島に建つ石碑は如実にこの経緯を示している。 この庭園の心象的な起源は遠く古代まで遡るであろうが、造形的な起源に関しては発掘調査等が行われていないため不明であるが、那須与一伝説が伝わることから、平安時代まで遡る可能性もある。 何れにしても、阿自岐神社庭園は、水の確保を必須の要件とする水稲栽培を生業とし、命を継いできた、近江の祖先達の、水の神に対する敬虔な祈りが生んだ造形である。 滋賀県教育委員会 |
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阿自岐の郷について 安食西は古くから伝えられているように、応神天皇15年(西暦285年)、渡来人阿自岐氏によって拓かれた由緒ある土地である。 この地名については、時代の推移によって大きく変わり「郷」については大化の改新後、大宝律令によって郷制が布かれ「安食郷」と称されたが、平安・鎌倉期以降は「安食荘」ともいわれていたことが醍醐寺主座の雑日記、久安5年の条に、また文永6年10月7日の六波羅下知状によって明らかにされている。 なお、「阿自岐の郷」については区内でも広く知られている醍醐天皇延長5年に編纂され延喜式神名帳に所載されている安食郷内の産土神を祇る阿自岐神社に由来する呼称と考えられ、前にも記した「安食郷」「安食荘」等、何れも永い歴史の変遷を経た同義語と推考するのが適切である。 平成9年3月 社頭掲示板 |