大社。この地の有力社。東西2本殿有り。東本殿は森の中。西本殿はひらけていて明るい。 祖霊信仰に始まる神社とされる。地名の那牟羅と同音の長寸(長は最高位、寸は村の古字)と呼ばれる。(東本殿) 安和2年(969)3月28日、大和国芳野金峯山の国狭槌命が、神域の西方に遷座。(西本殿) |
由緒 この御社は、延喜の御代長寸(なむら)神社として神名帳に列座された、格式の高き式内社であります。 その創祀の年代は詳らかではありませんが、遠く上古のことであります。即ち当社域内に現存する古墳或は域内外より出土する陶物(すえもの)は、何れも古墳時代の遺跡或は遺品で、これ等は当時既に祖先の遺業に励んだ部民(べみん)の豹住を物語るもので、当神域の東の方にお祀りしたのに創ると推定され、地名である那牟羅と同音になる長寸(長は最高位寸は村の古字)の字に替え長寸神社と申し上げました。尚この御社を后の世になつて東本殿と申すようになりました。 安和二年(969年)3月28日、大和國芳野金峯山に鎭まり給うた國狭槌尊(くにのさつちのみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座の次第となりました。この御社を前述の東本殿に対して西本殿と御呼びします。 現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁記3年3月新羅王子天日槍(しらぎのこきしのこあまのひほこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅に改まり更に長寸に替えられ、次いで寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、御一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村の称号を賜り、以后苗村と呼ぶ、と記されています。 天文五年(1536年)3月22日、御奈良天皇は、当社に「正一位」の神位を奉授し給い、同4月19日勅使中御門宗藤・山科言継を御差遣になり、神位記を奉納され、續いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め三十人の公卿は、京都において法樂歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主はこれを、神前に奉納されたと伝えています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
苗村神社 当社の創祀は上古に属し、延喜式内社の長寸神社にて東西に両本殿有り。主神は当地の御祖那牟羅彦神・那牟姫神を祀り、人皇代63代冷泉天皇安和2年3月28日大和国芳野金峯山国狭槌尊当社に御鎮座の時より子守の宮と称し幼児の守神招福縁結、疾病除け、雷除け、五穀豊穣の守護神として近郷三十余郷の総氏神と住民の信仰篤く古来より格式高き大社として崇敬されてきた。 長寸神社に苗の字を用いたのは寛仁年間後一条天皇より苗村の称を賜り現在に至る。 当社殿再建棟札銘文に曰く当社修造は遠所まで沙汰して造立す。建保5年修造には有勢の■■が神事を掌ったという。 天文5年後奈良天皇は当社に正一位の神階を賜り勅使で向神主任官神号宸筆勅額法楽和歌の寄書等皇室及公卿と当社との関係頗る親密にて深く尊崇された。 天正年間織田信長が当社に馬鞍一基と大刀七振を献上する等由緒顕著である。 当社の例祭は毎年4月20日にこれを執行し亦33年毎に式年大祭を執行現今にいたる。 当社境内には国宝西本殿を始め他五棟の建物及木造不動明王尊立像一基(いづれも国の重要文化財指定)が保存され悠遠なる当社の歴史を物語っているのである。 昭和52年 社頭石碑 |
苗村神社 重要文化財 大正13年4月15日指定 東本殿 苗村神社 建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享4年(1432)在銘の石灯籠は本殿の建立と関係があると考えられる。 また、正徳4年(1714)には、大半の部材を取替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和33年の解体修理で、資料にもとづいて復元整備された。 正面は、格子戸であるが、少し入ったところに幣軸を廻らして板扉を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木を通し材とし、妻飾の□首組頂に花肘木を組いれるなど、西本殿傍の八幡社本殿と共通する点が多い。なお、内外陣境の腰嵌板の彫刻格狭間は県下に類例が多いが当時の装飾手法として見るべきものがある。 平成4年1月 竜王町教育委員会 社頭掲示板 |
苗村神社 重要文化財 明治37年2月18日指定 楼門 苗村神社 建立年代は、明らかでないが、蟇股の輪郭部や斗拱の形式などの技法から、応永(1394−1427)ごろの造営と考えられる。 構造は、三間社一戸楼門入母屋造の茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構である。 また、上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木の先端を斜に造り、強い反りをつけているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は、縦横に貫で組まれるほか、斗拱間の小壁に至るまで開放されており、中央に扇もない形式は珍らしい様相といえよう。 平成4年1月 竜王町教育委員会 社頭掲示板 |
苗村神社 重要文化財 昭和46年6月22日指定 神輿庫 苗村神社 桁行四間、梁間二間、切妻造りの軽快な建物で、正面及び北側面に各一ヶ所の出入口があるほかは柱間のすべてを板壁とした簡素な外観である。建立は社蔵文書によると天文5年(1536)に正一位の神位を受けたとき、勅使の装束召替仮殿として建て、のぢに神輿庫に用いたとある。 装束召替仮殿としての用途は限られた期間てあリ、また平面か出入口のほかに開口部のないことは、当初から神輿あるいは御供所などの倉庫的な再利用を企図して建てられたものと考えられる。 全国的に頬例の少ない遺構としても貴重である。 平成4年1月 竜王町教育委員会 社頭掲示板 |
苗村神社 国宝 明治35年4月17日指定 西本殿 苗村神社 この本殿は、社蔵される棟札から徳治3年(1308)に再建されたと考えられる。 構造は、三間社流造で、前面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り更に一間の向拝を出し、屋根は檜皮葺とした形式は総体的に鎌倉時代後期の特質を現わしている。殊に、左右相称の透彫を施した正面二個の蟇股は美しい。また、殿内の厨子は小規模で簡素であるが手法は優れ、本殿と同時代の作と見られ、共に国宝文化財となっている。 なお、社蔵される棟札は近在に見られない古物品て、当時における修造の様子、活動人士、神事の有力な担当者等が明記され、当社歴を知る貴重な資料である。 平成4年1月 竜王町教育委員会 社頭掲示板 |
苗村神社 重要文化財 昭和46年6月22日指定 境内社十禅師社本殿 苗村神社 この本殿は、社名が示すように、山王二十一社のうち上七社の一社十禅師の分霊社であって、天台宗護法神の一社であるから、台密勢力のもとに苗村神社社域に勧請された社である。 構造は、一間社流造で、屋根は檜皮葺である。また、蟇股など装飾を施さない古式をとどめた社殿で、母屋の内部は一室とし、正面に幣軸板扉を設け、他の三面を板壁とする。 建立年代は、明らかでないが、室町時代(1430年)に建てられたと考えられる。 平成4年1月 竜王町教育委員会 社頭掲示板 |
苗村神社 重要文化財 明治37年2月18日指定 境内社 八幡社本殿 苗村神社 建立年代は、明らかでないが、東本殿・楼門などと同時代に、境内整備に伴なって建てられたと考えられることや、その様式から見て、室町時代(1430年頃)の建立と考えられる。 構造は、一間社流造で、屋根は檜皮葺である、この社殿の特色は、側面に幣軸板扉の出入口を設けていることで、このような形式は一間社流造の本殿では、我が国でも数が少ない。母屋の三面・向拝には美しい蟇股を飾りつけている。 平成4年1月 竜王町教育委員会 社頭掲示板 |