苗村神社
なむらじんじゃ


戻るボタン





【由緒】

当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)に列座された長寸(なむら)神社にして、格式の高い式内社であります。社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖をお祀りしたのが創祀とされます。
即ち当社神域に現存する古墳或いは域内外より出土する陶物は、何れも古墳時代の遺跡或いは遺品であり当時既に祖先の遺業に励んだ部民の聚住を物語っています。これ等の先人達は、先祖に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の方にお祀りしたのに創り、この祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅(なむら)と同音になる長寸(なむら)(長は最高位 寸は村の古字)の字に替えて長寸神社と申し上げました。この御社を后の世になって東本殿と申すようになりました。
 その后、時代の経過と共に稲作農耕が愈々盛んとなってきました平安時代の安和2年(969)三月二十八日、大和國芳野金峯山に鎮まり給うた國狹槌尊(くにのさつちみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座になりました。この御社を東本殿に対して西本殿と御呼びします。
 現在の西本殿は、社蔵されている当地方最古と言われる徳治3年(1308)の棟札によりますと、建保5年(1217)に修造され、更に徳治三年に再建されたこと、及び当時の修造には遠隔の地まで沙汰せられ、有力な豪族が神事を司ったことが明記されています。しかもその当時の建築様式(鎌倉時代)は、その后度々の修造もありましたが、当時の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されています。
 現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁紀3年3月新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅(なむら)に改まり、更に長寸(なむら)に替えられました。次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村神社と呼ぶ、と記されています。
 斯くて、創祀以来社運年毎に栄えて来ましたが、何時の時代も苗村郷三十三ヶ村の総社と、人々の信仰の中心となってきた大宮であります。
取り分け天文5年(1536)朝廷の当社に寄せられた格別の恩命は、未来永劫に亘って誇りとする処で、社有の記録には、同年3月22日、後奈良天皇は、当社に「正一位」の神位奉授し給い、同4月19日に勅使として中御門宗藤・山科言継を御差遣になり神位記を奉納され、ついで、神主盛継に修理大夫任官の口宣を御くだしになる。この時、征夷大将軍足利義晴より勅使参向に当って三箇條の禁制札を下地される。
續いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め三十人の公卿は、京都において法楽歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主盛継はこれを神前に奉納された記録が今に残っています。
 天正年間には、織田信長が、天下太平を祈願し当社に馬鞍一具と太刀七振りを寄進している。誠に当社の栄誉これに勝るものなく、社名自ずと四海に遍くところであり、今日三十余郷の氏人達は、累代に亘って神仕えされてきた春日皇子の後裔である現神主を中心として、この栄誉高き御宮に余念をまじえず、只管崇敬奉仕申し上げる処であります。

公式HP



【文化財】

国宝苗村神社西本殿 - 鎌倉時代建立。三間社流造り、桧皮葺。
重要文化財境内社八幡社本殿
楼門
東本殿
境内社十禅師神社本殿
神輿庫
木造不動明王立像


【由緒】

この御社は、延喜の御代長寸神社として神名帳に列座された、格式の高き式内社であります。
その創祀の年代は詳らかではありませんが、遠く上古のことであります。即ち当社域内に現存する古墳或は域内外より出土する陶物は、何れも古墳時代の遺跡或は遺品で、これ等は当時既に祖先の遺業に励んだ部民の聚住を物語るもので、これ等の人達は、祖先に対する報恩の念により祖霊を神として、当神域の東の方にお祀りしたのに創ると推定され、その祭神こそ当地方最高の祖神と心得、地名である那牟羅と同音になる長寸(長は最高位 寸は村の古字)の字に替え長寸神社と申し上げました。尚この御社を后の世になつて東本殿と申すようになりました。 その后時代の経過と共に稲作農耕が愈盛んとなって来ました平安時代の、安和2年(969)3月28日、大和國芳野金峯山に鎭まり給うた國狭槌尊の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎭座の次第となりました。この御社を前述の東本殿に対して西本殿と御呼びします、現在の西本殿は、社蔵されている当郡内最古と言われる徳治3年(1308)の棟札によりますと、建保5年(1217)に修造され、更に徳治3年に再建されたこと、及び当時の修造には遠隔の地まで沙汰せられ、有力な豪族が神事を司ったことが明記されています。しかもその当時の建築様式(鎌倉様式)は、その后度々の修造もありましたが、当時の様式は今によく伝えられ、棟札と共に国宝に指定されています。
又現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁記3年3月新羅王子天日槍の條に曰う吾那邑でありましたが、その后、那牟羅(前述)に改まり、更に長寸に替えられ、次いで寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、後一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村の称号を賜り、以后苗村と呼ぶ、と記されています。
斯くて、創祀以.来社運年毎に栄えて来ましたが、取り分け天文5年(1536)朝廷の本社に寄せられた格別の恩命は、未来永却に亘って誇りとする処で、社有の記録には、同年3月22日、後奈良天皇は、当社に「正一位」の神位を奉授し給い、同4月19日勅使中御門宗藤・山科言継を御差遣になり、神位記を奉納され、ついで神主盛継、修理大夫任官の口宣を御くだしになり、績いて同5月9日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月12日関白太政大臣近衛植家公を始め三十人の公卿は、京都において法樂歌会を催され、同月16日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同19日神主はこれを、神前に奉納されたと、伝えています。
誠に当社の栄誉これに勝るものなく、社名自ずと四海に遍く次第であります。今日三十余郷の氏人達は、累代に亘って神仕えされて来た春日皇子の後裔である現神主を中心として、この栄誉高き当社に余念をまじえず、只管崇敬奉仕中し上げる処でありよす。

由緒書



【由緒】

創祀年代不詳。延喜式神名帳近江国蒲生郡十一座の中の長寸神社の論社である。社名苗村神社についてはもとこの地域は日本書紀巻六垂仁紀に三年三月新羅王子天日槍の来帰の条に「於是天日槍自菟道河泝北入近江国吾名邑暫往復更自近江経若狭国西到但馬国則定住処也是以近江国鏡谷陶人則天日槍之従人也云々」という吾名邑であり後に那牟羅と略称されたが、地名の那牟羅と同音になる長寸の字に替え長寸神社と称した。その後寛仁元年朝廷に長寸郷より門松用の松苗を献上せし所以で時の帝、後一条天皇より苗村の称号を賜り苗村神社と改称したと社蔵文書は伝えている。祭神の国狭槌尊は安和2年3月28日大和国金峯山より勧請された。現在の西本殿は徳治3年の棟礼によると建保5年に修造、更に徳治3年に再建したことが記されている。更に社蔵文書によると、天文5年3月22日後奈良天皇は、正一位の神位を授け給い、同年4月19日勅使下向の前々日の制礼銘文現存する。ついで神主盛継に修理太夫任官の口宣を下さる。同年5月9日天皇は「正一位苗村大明神」の勅願御下賜、同月12日関白近衛植家太政大臣三条実香以下30人の公卿が当社に法楽の和歌を送られ同19日神主は神前に奉納する等、天文5年3月より5月に亘り皇室との関係頗る濃厚なる事。更に織田信長より馬鞍一具、太刀七振の寄進あり。明治14年郷社に列す。大正9年県社に昇格。

滋賀県神社庁



郷社苗村神社

祭神
東本社 事代主命 大國主命 素戔鳴尊
西本社 國狭槌尊
本社は東西の二社に分る、東社はもと長寸神社(寸は村の省体なり)と称す、創祀年代詳ならず、醍醐天皇延喜の制小社に列す(延喜式)、西社は冷泉天皇安和2年3月28日の創祀にかゝる〔社記)、初め一人あり。新巻村領内嶺馬寺の祀主毘渉門天の前に来つて曰く、我れ萬民の罪を亡し福を授けんと欲す、されども身を置くに所なし天王宜しく之を計れと、毘沙門天答へて曰く、我久しく此に住す、図らざりき、大神我が境に跡を垂れ給はんとは、幸榮何か之に過ぎん、爰に富者あり、綾の尼といふ、社いて問ふべし、必ず図る所あらんと、其の人乃ち当地を訪ひ旨を伝ふ、一禅尼あり、対へて曰く、我此地の田地を領す、其内八反を君に譲らん、余思ふに君尋常人にあらず、此に居らんと思ひ給はば一の奇瑞を示せと、是に於て其の人小苗を植ゑ、此の苗一夜にして大杉となり、森々として千古の樹の如し,尼之に感じて嗣を建て、之を祀ると(近江與地志賂)本社は實に苗村庄三十三村の産土神にして.一條天皇寛和3年苗村連に命じて祭祀を行はしめ給ひ、後奈良天皇天文5年勅使を遣して正一位を授け給ふ、順徳天皇建保2年領主源有宗社殿を造営し、後二條天皇徳治3年領主岩王氏修理す、明治9年10月村社に定まり、14年6月郷社に列す、西の本殿及境内社、八幡社、本殿楼門等は保護物に指定せらる、境内6653坪(官有地第一種)境外三町余の社有林ありて頗る風致を添ふ、ご神体は古木像にして、宝物には勅額一面、口宣案一通位記一巻、共に天文5年後奈良天皇の御寄進にかゝる、因に記す温故録に曰く、
「苗村庄に天王社鎮座す、何の曲来やありけん、國中の賤職を作すもの年々寄り集り、此の神事を務る習あり、石切、革屋、革飾の類の賎職に十余流ありとなり、又浮児、舟子等もそれぞれの役目を云渡す由なり、清浄の大神に下輩の集まり務るはいと不審なり云々」と。

明治神社誌料






戻るボタン


近江国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録