この地が式内大島神社の旧地とされている。 日牟礼八幡宮の境内摂社であった大嶋神社を奥津嶋神社境内に遷したとする説がある。 現在も本殿右隣に末社・大島神社の祠がある。社頭の説明文には「八幡宮遷座以前の地主神と伝え、徳川時代までは大嶋大明神または両神と称した」とある。 伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされている(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない)。 |
日牟禮八幡宮 1、鎮座の始め 伝記によれば、131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。 2、社名の由来 應神天皇6(275)年、天皇が近江に行幸されました。その際奥津島神社に参詣され、還幸の折に宇津野々辺(社の近辺と見られる)にて御少憩になり、当地に御座所が設けられました。年を経た後、その御仮屋跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられました。持統天皇5(691)年には藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた旨も伝えられています。 そもそも日牟禮社の社名は、日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。日觸使主を始めとする和珥氏は、應神天皇に深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに江州(=現在の滋賀県地方)土着の氏族です。古来わが国の各地に分布していた氏族の多くは、その祖神あるいは紙祇を奉祀していました。この一般例に鑑みると、当社は同族の人びとがその祖神を祀る斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものと考えられます。 3、上の社下の社 正暦2(991)年、第66代一條天皇の勅願により、法華峰(八幡山)に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀りました。さらに寛弘2(1005)年には遥拝の社を麓に建て、「下の社と号す」こととなりました。現在の社は麓の「下の社」に相当すると解することができます。 上下に社殿を整えた時代にも、皇室の崇敬は篤く、弘安4(1281)年蒙古襲来の折には奉幣があり、康安2(1362)年には御光厳天皇、永和元(1375)年には後圓融天皇と二度の綸旨を下して天下の静寧を祈らせ給いました。また承久3(1221)年源氏に神主補命が下されて後は武家においても、足利将軍家を始め近江の守護六角氏以下のもと神事の退転を防護し、社領を寄進するなど種々の尊崇の実を尽くされました。天文10(1541)年には、近江の守護佐々木六角に召され観音寺に登城、御屋形号を許されました。 4、秀次公と合祀 天正18(1590)年、豊臣秀次公が法華峰に八幡城を築城のため、上の八幡宮を麓の比牟礼社に合祀しました。替地として日杉山に祀る予定でしたが、折りしも文禄4(1595)年秀次公は自尽に及びました。このため八幡城は廃され、日杉山に神社も建立されず、現在の如く一社の姿となったのであります。 秀次公の八幡城は廃城となりましたが、城下町は商人の町として発展し、名にし負う近江商人を育てました。当社は近江商人の守護神として、崇敬を集めることとなったのでした。 5、徳川家と御朱印 慶長5(1600)年9月18日、徳川家康公は関ケ原決戦の後武運長久の祈願をこめて当社に参詣し、御供領五十万石の地を寄附せし旨が残されています。寛永20(1644)年家光公より御朱印の下附があり、寛文5(1665)年には家綱公も御朱印を残されました。徳川氏が当社に尊崇を挙げたものと解されます。 6、安南渡海船額 正保の頃、近江商人の亀鑑として、安南屋・西村太郎右衛門の事跡を今に伝える絵馬「安南渡海船額」は、正保4(1647)年当社に奉納されました。日本海洋史好古の資料として、菱川孫兵衛の筆と主に珍重され、重要文化財に指定を受け神庫に蔵しています。 7、郷社、県社、日牟禮八幡宮 明治9(1876)年郷社に列し、附属村社36社、町村66ケ町・52ケ村を附せられました。さらに大正5(1916)年には県社に列せられました。昭和41(1966)年、神社本庁別表神社に加列し、神社名を日牟禮八幡宮と改称するに至ったのです。 8、二大火祭 当神社には二大火祭があり、一つは3月の左義長祭が、もう一つは4月の八幡祭(松明・太鼓祭)が、奉納行事として氏子の奉仕で行われてます。左義長祭は八幡開町以来の城下町66ケ町の氏子により、八幡祭は山根十二郷の氏子により、執り行われる習わしです。 双方ともに昭和33(1958)年、滋賀県無形民俗文化財の指定を受け、さらに平成4(1992)年2月、国選択無形民俗文化財に選定され、御神徳のまにまに毎年盛大に奉納されています。 9、たたずまい 本殿裏には屏風岩が聳え立ち、鏡池が森厳さをかもします。八幡さまを祀るが故に地名を八幡を名付けたとも伝えています。観世流の能楽には、由緒を謡った日觸詣があります。 近江の守護として湖国の中心に祀られ、広く崇拝される八幡さまであります。 公式HP(以前) |
日牟禮八幡宮 由緒 伝記によると、第十三代 成務天皇が高穴穂の宮に即位された折(西暦131年)、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じて当地に地主神である大嶋大神を祀られたのが、鎮座の始めとされています。 応神天皇6年(275)、応神天皇が近江に行幸され、還幸の際に宇津野々辺(現在の神社近く)に御座所を設けて休憩されました。その後、この仮屋跡では日輪(太陽)の形を二つ見るという奇瑞があり、祠を建てて、日群之社八幡宮と名付くとあります。 持統天皇5年(691)には、藤原不比等が参拝して歌を詠んでいます。 天降(あめふりの)神の誕生(みあれ)の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲 この和歌にちなみ、社の名称は「比牟礼社」と改めたとも伝えられています。 一方で、日牟禮社の社名は、和珥氏・日觸使主(わにうじ・ひふれのおみ)という人物の「日觸」が転じたものとする説もあります。 和珥氏とは、應神天皇に縁の深い江州(現在の滋賀県)土着の氏族です。和珥氏は、自らの祖神を祀る当地の斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものとも考えられます。 公式HP |
日牟禮八幡宮 当社の伝記によれば、応神天皇6年に天皇当国の奥津嶋之神社へ行幸なされんと思し召しになり、知波之御崎と云う所より船をお使いになり湖水に到着なされた。入口に小嶋があり、此の嶋にお着きになって、天皇自ら垢離を行われて、奥津嶋之神社にお詣りになられた。遷行の折に宇津野々辺に御少憩になり、四方を御覧遊ばされて、「知葉崎の加津野を見れば百千足家も田もみゆ国の府もみゆ」と御詠になり御座所を置かせられたという。その後年を経て御仮屋の跡に日輪の形二つ見る事が出来た。それ故祠を建て、日群之社八幡宮と名付けると記されてあり、続いて持統天皇5年に藤原不比等日群社に詣でられ、「天降の神の誕生の八幡かも比牟礼の社になびく白雲」とお詠になり、故に比牟礼之社と改むと記され、寛平元年奥津嶋神殿鳴動して、火玉飛出て比牟礼之社に入ると云う。奥津嶋之宮所は一夜にして湖水と成り、奥津島之神霊比牟礼社に移られた。故に当社八幡宮を三社二神九所之社とするとある。正暦2年法華峰に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して上之八幡宮を祀り、寛弘2年遥拝の社を山麓に建て、下の社と云うと記されている。又天正18年関白秀次公が法華峰に城を築くに当り、上之八幡宮を外に遷し、城が完成の後は日杉山に社を建て、お遷しする間御神体を比牟礼社に遷させていただきたい、との事であったが城が完成せず秀次公高野山に於いて他界の為、社も完成せず現在の一社の姿に成ったと伝える。皇室の御崇敬をはじめ、足利徳川両将軍、近江守護佐々木氏も、蒲生野の守神と崇められた。八幡神社として明治9年郷社に、大正5年県社、同6年神饌幣帛料供進指定をうけた。昭和41年には神社本庁別表神社に加列、神社名を日牟礼八幡宮と改称、昭和56年境内整備事業が実施され社務所の新築等が行なわれた。 社頭掲示板 |
日牟礼八幡宮 ひむれはちまんぐう 滋賀県近江八幡市宮内。旧県社(現、別表神社)。日触・火振と書いてひふれ八幡とも呼ぶ。天平年中(729−49)各国一社の八幡宮に定められ、祭神神功皇后の出自の地である近江のこの地に応神天皇、比売神も祀ったと伝える。平安時代には八幡山(日群山)の山上山下の八幡宮で放生会を行ったという。ついで守護職佐々木氏奉護につとめ、領主領民の崇敬が篤かった。鎌倉時代の作、男女二体ずつの神像、安南渡海船図の絵馬は重要文化財である。例祭の4月14日には定められた部落から船松明など大松明に子どもらの手振り松明が無数に従い、その中を大小一二の太鼓を青年がかついで進む。15日は太鼓渡の式で、数百貫の大太鼓の渡御があり、神前で祝詞と称してたたき合う。 また3月15日(最近は3月中旬の日曜)の左義長祭も有名である。山車に藁、杉などで三角錐の飾付けをして前日氏子内を練り、15日の夜境内で焚き上げる。 神社辞典 |
日牟禮八幡宮 当社の伝記によれば、応神天皇6年に天皇当国の奥津嶋之神社へ行幸なされんと思し召しになり、知波之御崎と云う所より船をお使いになり湖水に到着なされた。入口に小嶋があり、此の嶋にお着きになって、天皇自ら垢離を行われて、奥津嶋之神社にお詣りになられた。遷行の折に宇津野々辺に御少憩になり、四方を御覧遊ばされて、「知葉崎の加津野を見れば百千足家も田もみゆ国の府もみゆ」と御詠になり御座所を置かせられたという。その後年を経て御仮屋の跡に日輪の形二つ見る事が出来た。それ故祠を建て、日群之社八幡宮と名付けると記されてあり、続いて持統天皇5年に藤原不比等日群社に詣でられ、「天降の神の誕生の八幡かも比牟礼の社になびく白雲」とお詠になり、故に比牟礼之社と改むと記され、寛平元年奥津嶋神殿鳴動して、火玉飛出て比牟礼之社に入ると云う。奥津嶋之宮所は一夜にして湖水と成り、奥津島之神霊比牟礼社に移られた。故に当社八幡宮を三社二神九所之社とするとある。正暦2年法華峰に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して上之八幡宮を祀り、寛弘2年遥拝の社を山麓に建て、下の社と云うと記されている。又天正18年関白秀次公が法華峰に城を築くに当り、上之八幡宮を外に遷し、城が完成の後は日杉山に社を建て、お遷しする間御神体を比牟礼社に遷させていただきたい、との事であったが城が完成せず秀次公高野山に於いて他界の為、社も完成せず現在の一社の姿に成ったと伝える。皇室の御崇敬をはじめ、足利徳川両将軍、近江守護佐々木氏も、蒲生野の守神と崇められた。八幡神社として明治9年郷社に、大正5年県社、同6年神饌幣帛料供進指定をうけた。昭和41年には神社本庁別表神社に加列、神社名を日牟礼八幡宮と改称、昭和56年境内整備事業が実施され社務所の新築等が行なわれた。 滋賀県神社庁 |
郷社 八幡神社 祭神 誉田別尊 比売神 息長足姫尊 本社は世に日触八幡神社と称し、その創祀は遠く雄略天皇の朝にあり、初め八幡山に奇瑞あり、二象の日輪天空にかゝる、依つて其山を日群と称し、神墻を建てゝ応神天皇を祀る、之れ此地は天皇の妃宮主媛の郷里にして、数、此所に行幸ありしを以てなりと、元正天皇の朝、藤原不比等近江を領するに及びて社殿を造営す、聖武天皇大平年中、勅して各國に八幡神を祀るべきよし定め給ふや、当国は当社を以て之に充つ、一條天皇正暦2年山上山下に二社段を営み、山上には品陀別命、宅媛菟道稚郎子を、山下には品陀別命、姫神及氣長足姫を祀る(社記)、長徳3年放生曾を行ひ、寛弘2年山下の社を造る(木曾路名所図会)ともいふ、一説に、寛弘2年5月8日宇津呂村の松樹に鎮座あら。其後山上山下に両社を建つ(與地志略所引社家伝説}といひ、また寛弘5年影向あり(同所引社僧、普門院記)ともいへり、之より世人の崇敬極めて深く、後島羽天皇文治3年源頼朝平氏を亡すや、近江の守護佐々木定綱に命じて社殿を造営し神田三十余町を寄す(社記)、後宇多天皇弘安中蒙古の襲来によりて奉幣あり(木曾路名所図曾)、後醍醐天皇嘉暦2年勅して社殿を修理せしめ神領を寄連し給ふ、援土御門天皇明応より後柏原天皇永正に至りて兵焚に逢ふ事数次、為めに神宝旧記焼失す(社記)、正親町天皇永禄11年佐々木氏亡ぶるや、神社も之が為に頽廃に帰す(木曾路名所図會、天正18年(與地志略)豊臣秀次其地に城を築くに方りて現地に遷り(社記)、後陽成天皇慶長5年社殿の造営成る(木曾路名所図會)同6年社領として五石六斗除の寄進あり、後水尾天皇寛永20年(社記)(木曾路名所図會)徳川将軍より神領五十四石三斗余を寄進せらる、往古は社領として宇津呂荘内三百貫の地を有せしが、足利氏末葉の戦乱に際し、悉く掠奪せられ、一時は神供に充つる物なきまでに衰へしが、此時より社頭漸く盛運に向へり、明治9年10郷社に列す、境内2154坪(官有地第一種)及び87坪(民有地第一種)を有し、社殿は本殿、拝殿其他神饌所、神樂殿、楼門、社務所、神庫、神輿舎、盥嗽含、能舞台、絵馬殿を有し、建築壮麗を極め、矍鑠として人目を眩す、宝物には國宝に定められたる安南絵馬(西村太郎左衛門寄進)等あり。 明治神社誌料 |