大嶋神社と奥津嶋神社の両社から成るが、ともに式内社である。 社伝によると、成務天皇の治世に武内宿禰により勧請されたとされる。大嶋神社と奥津嶋神社は元は別の場所に鎮座していたが、延文6年(1361年)以前に同地に鎮座された。 元来は別々に祀られていたものであるが、鎌倉時代にはすでに両社同域に祀られていた。 |
大嶋奥津嶋神社 祭神 大嶋神社 大国主命 奥津島神社 奥津島比売命 境内社 日觸神社 応神天皇 日吉神社 大山咋命 四宮神社 天火々出見命 喜佐伊神社 須佐之男命 行司神社 高皇産霊命 国指定重要文化財 御祭神 木造大国主命座像(平安) 菊花螺鈿鞍、黒漆鞍、黒漆鎧(平安〜鎌倉) 古文書・徳政の木札(鎌倉〜江戸) 当神社の勧請年紀は第13代成務天皇滋賀島穴穂宮に御即位の年武内宿根に勅して祀らしめ給うと伝えられます。天智天皇蒲生野に御遊猟の砌、奥之島に御幸になり、この地に産する魚(むべ)を賞味され、年々皇室に供御すべきと仰せられました。 延喜式宮内省諸国例貢御贄にも記されており、今も毎年11月天智天皇を御祭神とする近江神宮へ献納しております。 延喜式神名帳には蒲生郡十一座の内に大嶋神社、奥津嶋神社(名神大)両社とも記されており。さらに三代実録に貞観7年(864)元興寺(奈良)僧賢如の奏請により当神社の神宮寺として阿弥陀寺が開基せらるとあります。往時は蒲生野北部一帯の産土神として斉祀されておりました。大正4年11月由緒正しき神社として県社に昇格、昭和55年には創祀1850年記念大祭を斎行、今日尚氏子崇敬者には御神威を奉持し御神徳を戴いている処であります。 社頭掲示板 |
大嶋奥津嶋神社文書 北津田町(529番地)の大嶋・奥津嶋神社所蔵の「奥嶋百姓等庄隠規文(おきぶみ)」は鎌倉時代初期の1262年(弘長2年)に記されたもので、その内容は、他人の悪口や告げ口を固く禁じ、村人の団結を図った掟文です。わが国中世最古の「村掟」として、1987年(昭和62年)に国の重要文化財に指定されています。 http://www1.ocn.ne.jp/~omi8/furusato/furusato3.htm |
「むべ」を宮中に献上 近江八幡市、奥島山に自生の実 滋賀県近江八幡市島町の奥島山に自生する実「むべ」を宮中に献上するため、同市北津田町の大嶋・奥津嶋神社の深井武臣宮司(61)らが27日、同市役所を訪れ、市関係者ら立ち会いの下で最後の準備をした。28日に関係者が宮中に届ける。 むべは、アケビ科の一種で赤紫色に熟すと、実は甘く素朴な味が特徴という。伝承によると、約1300年前、天智天皇が奥島(現在の同市島町)に立ち寄り、老夫婦に長生きの秘けつを尋ねた。その際に老夫婦がこの実を差し出し、賞味した天皇が「むべなるかな(珍しいものよのう)」と言ったことからこの名が付いたとされ、不老長寿の実として伝わる。 皇室への献上は1982(昭和57)年を最後に途絶えていたが、同神社の氏子や同市北津田町の町づくり推進委員会のメンバーらが昨年、20年ぶりに復活させた。 この日は、深井宮司や氏子総代ら3人が、岡田三正・同市助役の立ち会いのもと、鶏卵よりやや大きいむべ15個を用意。特製の竹かごに入れた後、ヒノキの箱に納め、献上の準備を整えた。 京都新聞2003.10.27 |
大嶋奥津嶋神社 大島興津島量神社は、延喜式神名帳加列の名神であり、興津島神社は名神大に、大島神社は名神小に列せられている。両者は各々別の処に鎮座されていたと思われるが、いつ頃からか同境に鎮座されている。永仁6年神宮村人の起請文には既に両社と記してあり、延文5年比丘尼法心の寄進状には大島郷奥島庄内の田地を大島息津島両社の神供料として寄進する旨が記されてあるので、それより以前に両社が一境の鎮座である事を、知る事が出来る。本社の創祀は、社伝には成務天皇高穴穂宮遷都の時に、大臣竹内宿禰勅を奉じて勧請するとあり、その後天智天皇志賀大津宮に御在世の折、皇后さま御不予により当社に平癒の祈願されたところ忽に霊験があったので、勅使をご差遺になり奉賽の幣帛を奉られた事や、同7年天皇御幸の時に又幣帛を奉られた事など伝える。島中より所産の■が天智天皇の御代より、長寿無病の霊果と称えられ長い間、朝廷への貢ものの嘉例などと考えられるは、大津京時代には、比の島と皇室との縁故の深かった事を知る事が出来る。大島神社は大国主命を祭神とし、稱徳天皇神護景雲元年神封一戸を充てられ、興津島神社は奥島比売命を祭る大同元年神封一戸を充てられた事が、新抄格勅符にあり、三代実録貞観元年の条には、近江国従五位下興津島神従五位上を授け奉るとあり、それ以前より神位を授けられていた事を知ることが出来る。大正3年県社に加列、同4年神饌幣帛料供進指定となる。社宝として大般若経六百巻、古文書二百余通を蔵す。 滋賀県神社庁 |
大島神社・奥津島神社 おおしまじんじや・おくつしまじんじや 滋賀県近江八幡市北津田町。旧県社。祭神は大島神社に大国主命、奥津島神社に奥津島此売命を祀る。創建は明らかではないが、成務天皇の御代に武内宿禰が大島神社を、応神天皇の御代に目触(比牟礼)臣が奥津島神社を祀ったと伝えられる。『新抄格勅符抄』には神封各一戸を奉られたとある。『三代実録』の貞観元年(859)に奥津島神に従五位上を授け、『延喜式神名帳』で大島神社は小社、奥津島神社は名神大社に列した。大島に日触氏族の勢力が大きくなると、八幡宮を祀りますます栄え、奥の島は大島神社を遷して並立されるようになったことは、弘長年間(1261−64)の文書にみられる。例祭は4月18日に行われる。 宝物のうち木造大国主命坐像と称される平安時代後期の神像は重要文化財に指定されている。 神社辞典 |
大島神社 大島は於保志麻と訓べし、和名抄、(郷名部)大島、○祭神三女神歟○在所詳ならず 考証に、今郡北在大島村と云り、與地志、当郡に大島村と云処所見なし、猶考ふべし、禾曾路名所図曾に、大島社二前、八幡の社に隣る、社伝云、成務天皇高穴穗宮において即位の御時、武内宿禰に命じ、此奥津島に於て大島大神を祀らしむ、其後神の告によつて、八幡宮を同殿に鎮め奉る、天慶年中將門乱の時、維基参籠ありて、祈願を籠られしのち、山上に移し火振八幡と称し、八月十五日例祭を行はる、按るに、今比牟礼八幡宮の末社に大島両神と云あり是歟、 類社 陸奥國牡鹿郷大島神社、同國挑生郡計仙麻大島神社、(名神大)対馬國上縣郡大島神社、 神社覈録 |