兵主神社
ひょうずじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】兵主神社(名神大) 近江国 野洲郡鎮座

   【現社名】兵主神社
   【住所】滋賀県野洲市五条 566
       北緯35度6分54秒,東経136度0分39秒
   【祭神】八千矛神 (配祀)手名椎神 足名椎神
       祭神は武神八千矛神とするが古くは大己貴命とされている

   【例祭】5月3日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇58年に高穂の宮居に近き穴太に祀られ
       養老2年(718)現在の地に鎮座
       貞観4年(862)正五位下
       同16年(874)從三位
       治承4年(1180)「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額寄進
       文治2年(1186)神殿末社炎上
       文永の兵火にも炎上
       織田信長の佐々木討伐の兵火で焼失
       大正4年4月県社

   【関係氏族】秦氏
   【鎮座地】景行天皇58年に高穂の宮居に近き穴太に祀られる
        欽明天皇(531-571)御代に現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「兵主大神宮」と称していた
   【公式HP】 兵主神社
   【社殿】本殿流造
       楼門・廻廊・拝殿・宝藏・社務所

   【境内社】

景行天皇58年に高穂の宮居に近き穴太に祀られ(大津市坂本穴太町元兵主)、欽明天皇(531-571)御代に播磨別等琵琶湖上を渡り大神を奉じて、今の宮域に遷座した。
境内に平安時代の作庭として名勝の指定をうけている築山泉水が在る。


由緒

当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創始とする。更に近江高穴穂宮遷都に伴い、宮域近き穴太(大津市坂本)に御遷座になった。その後欽明天皇の御代に琵琶湖上を渡り、現在の地に御鎮座されたと伝える。
延喜式には明神大社に列せられ神階昇叙も著しく、花山天皇より「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。中世には、源頼朝・足利尊氏等の武将の崇敬厚く、寄進された武具・甲冑を今に伝えており、更に徳川家よりも社領の寄進を受けるなど、その御神威は広範囲にまで及んであた。
又、当社は古くより旧「兵主十八郷」と呼ぶ周辺地域の総氏神として、住民より心のよりどころと仰がれ、国指定の名勝庭園を始め多くの指定文化財を所有、近年では全国各地よりの参拝者を得て現在に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




兵主神社

式内、名神大社
御祭神・八千矛神(大国主神)
境内末社御祭神・手名椎神、足名椎神、事代主神、別に六柱
 当社の御祭神「八千矛神」は、欽明天皇の御代に琵琶湖湖上を渡り、養老2年(718)現在の地に御鎮座されたと伝える。
 廷喜式には明神大社に列せられ神階昇叙も著しく、花山天皇より「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。中世には、源頼朝・足利尊氏等の武将の崇敬厚く、寄進された武具・甲冑を今に伝えており、更に徳川家よりも社領の寄進を愛けるなど、その御神威は広範囲にまで及んでいた。
 又、当社は古くより旧「兵主十八郷」と呼ぶ周辺地域の総氏神として、住民より心のよりどころと仰がれ、国指定の名勝庭園を始め多くの指定文化財を所有、近年では全国各地よりの参拝者を得て現在に至っている。
兵主大社御本殿(中主町指定文化財)
建築年代・寛永20年(1643)
構造形式・切妻造一間社、檜皮葺
拝殿 翼廊
建築年代・文久2年(1862)
改築・昭和17年(1942)
構造形式・単属入母屋造 檜皮葺

兵主神と末社十八郷の神々
 兵主大社を中心に、現在の中主町のほぼ全域と守山市の一部地域を氏子区域として、 「兵主十八郷」と呼ばれる末社二十二社(現在数)が鎮座しております。5月5日に斎行 されます兵主祭には、神輿・太鼓三十数基が松並木の参道を渡御致しますが、これは各集落の末社から親神様である兵主大社へ一年に一度集う形のお祭であることがうかがえます。 又、例祭の行事一切を担当する「渡し当番」も十八郷の末社の氏子が毎年交替で奉仕することになっていて、5月3日には当番字の氏神様で奉告祭を行います。 又、各末社の御祭神は、兵主神と関わりの深い神々がお祀りされていて、祭礼行事の中にしきたりとして残されている所もあります。
 ここでは、十八郷の末社と、併せて、兵主大社の境内社をご紹介致します。
兵主大社末社一覧
番号 神社名  祭神名  旧称  鎮座地
1 乙殿神社 稲背入彦命   中主町五条
2 八幡神社 應神天皇 四ノ宮 中主町野田
3 浅殿神社 事代主神 比利多 中主町比留田
4 吉地神社 五十猛命 悪王子 中主町吉地
5 二ノ宮神社 天児屋根命   中主町西河原
6 木部神社 素盞鳴命 悪王子 中主町木部
7 高木神社 高皇産霊神   中主町八夫
8 矢取神社 手力雄命   中主町小比江
9 牛尾神社 須佐之男命 八王子 中主町乙窪
10 南産土神社 天孫瓊々杵神 十禅師 守山市服部
11 北産土神社 〃 〃  十禅師 守山市津田
12 矢放神社 天少彦名命   中主町吉川
13 狩上神社 事代主命   中主町堤
14 苗田神社 稲田姫命(女神)   中主町須原
15 千原神社 素盞鳴命   中主町井口
16 戸津神社 三穂津姫命(女神)   中主町安地
17 三ノ宮神社 高光照姫命(女神)   中主町六条
18 若宮神社 素盞鳴尊   中主町菖蒲
19 稲荷神社 倉稲魂神   中主町喜合
20 下堤神社 大国主神   中主町下堤
21 野々宮神社 天照皇大神   中主町吉川
22 城之神社 事代主神   中主町比留田
兵主大社境内社一覧
  相殿神社 (祭神事代主神)
  若宮神社 (祭神事代主神)
  手名椎神社・足名椎名神社 (祭神神社同名)
  手洗御前神社 (岡像女神)
  両大神宮 (天照大神・豊受比売神)
  水神社 (高籠神)    

兵主二十一社と日吉山王信仰
兵主の神は、平安以来、栗東の金勝寺・比叡山延暦寺と深い関わりがあります。特に、平安時代に成立した三十番神の信仰の普及と共に、神仏習合の形をとりながら、延暦寺の護法神である日吉の神々とも密接な関係を保って参りました。日吉二十一社の制度に倣い、各末社の神々を組み込んで、中世末には、兵主二十一社の制度が確立されたと思われます。
二十一社は、上七社・中七社・下七社に分かれますが、現在、兵主祭に朱塗りの楼門に鎮座されます七社の大神輿は、その内の上七社の神輿と伝承されています。又、兵主二十一社の旧社名(明冶初年に現社名に改称)の中に、日吉二十一社と同一の社名が七社見られ、いつの時代にか勧請したことが伺えます。
尚、江戸時代には本地垂迹思想の元、兵主の神は不動明王が本地仏とされたと同様に、各末社の神々もそれぞれに本地仏が決められた記録が残っております。
当社に残る記録より、兵主二十一社についてまとめてみました。
兵主二十一社、祭神と本地仏
上七社 (祭神) (本地仏)
本社  兵主大明神 大己貴命 不動明王
西河原村末社  二ノ宮大明神 天児屋根命 薬師如来
堤村末社  狩上大明神 事代主命 毘沙門天
吉川村末社  箭放大明神 天少彦命 毘沙門天
安地村末社  戸津大明神 三穂津姫命 虚空蔵菩薩
小比江村末社  箭取大明神 手力雄命 毘沙門天
比留田村末社  悪王子 五十猛命 愛染明王
中七社 (祭神) (本地仏)
五条村末社  乙殿大明神 稲背入彦命 薬師如来
上津宮  不詳 隆三世明王
聖社  不詳 地蔵菩薩
六条村末社  三ノ宮 高光照姫命 十一面観音
野田村末社  宇佐八幡 應神天皇 阿弥陀如来
野田村  四ノ宮 光照姫神 虚空蔵菩薩
     廣田 不詳 阿弥陀如来
下七社 (祭神) (本地仏)
兵主境内社  手洗御前 岡像女神 弥勤菩薩
今王子  不詳 薬師如来
大行事  不詳 毘沙門天
八宮  不詳 弁財天
井口村末社  千原大明神 素盞で鳴命 地蔵菩薩
須原村末社  苗田大明神 稲田姫命 大日如来
吉地村・木部村末社  悪王子 五十猛命 愛染明王
資料:兵主神社の記録(明治29年) 御神躰改帳(明治初期)

名勝兵主神社の庭園
平成3年、当地周辺に甚大な被害をもたらした台風19号の影響は、兵主大社の広大な神域にも爪痕を残しました。昭和28年に国の名勝の指定を受けた「兵主神社庭園」も樹木の倒壊だけで200本近くに及び、早速修理のための調査が行われました。
此の調査をきっかけとして、それまで鎌倉時代の中期の作と言われてきた庭園が、遡ること200年平安時代末期の作園であることがわかり、指定地域以外の境内林にも庭園遺構が発見されました。
私共はこの由緒ある庭園を後世に伝えていく為に、保存修理を行い、併せて歴史的な背景や文化財的な意義を再認識するべく、平成3年度より「名勝兵主神社庭園保存整備事業」として、国及び県・町の援助を頂きながら整備事業を勧めて参りました。ここでは、その概要を写真や図面を交えてご紹介申しあげておきます。
兵主大社の祭りは5月5日に兵主祭がおこなわれるほか、特殊神事の「八ッ崎神事」など年間を通して様々なお祭りがあります。
中主町一円の通称である「豊積の里」の呼び名は兵主大社の縁起書(えんぎしょ)である 「兵主大明神縁起」(ひょうずだいみょうじんえんぎ)に基づくもので、古くから豊かな 穀倉地帯として栄えていたと思われます。この地方の総氏神として奈良時代の初期に鎮座 されたのが兵主大社の始まりです。
縁起によりますと、御祭神が当地へ上陸される際に、琵琶湖上を亀の背中に 乗られ、琵琶湖岸からここまで鹿に乗られたということで、兵主大社では亀と鹿を神様のおつかい としております。神社の紋(もん)も亀の甲羅の六角と鹿の角がデザインされています。
兵主という文字を訓読みしますと「つわものぬし」と読むところから、中世の時代には特に 武士の信仰が厚く、源頼朝や足利氏による武器や領地の寄進があったと記録に残されています。 現在まで宝物(ほうもつ)として伝わる鎧(よろい)・兜(かぶと)や武器などがその当時の 繁栄を物語っております。
現在では、中主町のほぼ全域と隣の守山市の一部を含む約二千世帯を氏子(うじこ)とする 総氏神(そううじがみ)で各字には末社(まっしゃ)と呼ばれる社(やしろ)があり、兵主大社の 御祭神(ごさいじん)である大国主命(おおくにぬしのみこと)にゆかりのある神様がそれぞれの 末社にお祭りされています。

文化財目録
滋賀県野洲郡中主町
県設 昭41.7.4 兵主大社楼門  一棟
  一間一戸楼門 入母屋造 檜皮茸 附 翼廊 二棟b   右翼廊(一棟)桁行三間 梁間一間 一重  切妻造 檜皮茸
  左翼廊(一棟)桁行三間 梁間一間 一重  切妻造 檜皮茸
中主町大字五條566 兵主大社 室町 天文19 「地垂木墨書」 建二九 解(昭45)報告書
重工 昭31.3.28 白絹抱腹帯 附 鍍銀篭手金具    一隻
   鍍銀臑当       一双
   茜威喉輪       一掛
   白生絹袷小袖    一領
   萌黄地白茶格子生絹袷小袖 一領
   ●帯    一条
   唐堰    一合
     蓋裏に観応2年9月4日の墨書がある 京博寄託 南北朝 観応2 工七三○ 収蔵庫 (昭37) 修(昭37・38)
美工 昭9.5.18 革箙               一口  附    黒漆矢 六隻   鎌倉    
美工 昭9.5.18 綿抱箙 一口
 底裏ニ大永4年卯月27日作之ノ墨書アリ   附 黒漆矢 六隻   室町    
美工 昭17.5.30 梓弓 中央ニテ折損本弭金具欠 一張   室町    
美工 昭17.5.30 伏竹弓 一張   室町    
美工 昭17.5.30 黒漆弓 一張   室町    
美工 昭17.5.30 木造唐鞍神馬 口取漆 一頭 兵主神社 室町    
美工 昭17.5.30 木造神馬  一頭   鎌倉    
県書 昭63.3.31 大般若波羅蜜多経(矢放神社保管)五百二十四帖 附 標語等 断簡   平安・鎌倉 書二二  
建 昭63.9.1 兵主大社本殿 一棟 桁行一間 梁間一間 切妻造 向拝一間 檜皮茸     附  棟札 二枚 板札 二枚 長押飾金具  四枚 銅鏡 一面       蛇腹板 二十三枚
中主町大字五條566 兵主大社 江戸 寛永20(棟札) 建一  
彫 平6.3.31 木造不動明王立像 一躯   南北朝  彫九  
彫 平6.3.31 木造男神像 (その一) 一躯   鎌倉 彫十  
彫 平6.3.31 木造男神像 (その二) 一躯   鎌倉 彫十一  
彫 平6.3.31 木造男神像 (その三) 一躯   室町 彫十二  
工 昭62.4.3 鰐口 一口 天正18年9月吉日の刻銘がある   桃山 天正18年 (刻銘)  

公式HP



兵主神社

兵主神社は八千矛神(大国主神・つはものぬし)を景行天皇58年に高穂の宮居に近き穴太に祀られ(大津市坂本穴太町元兵主)、欽明天皇(531-571)御代に播磨別等琵琶湖上を渡り大神を奉じて、今の宮域に遷座されたのである。兵主大明神縁起によると播磨守資頼の居館を記している。花山天皇寛和1年(985)に正1位を追授せられた。源頼朝は特に崇敬を払った。旧国宝(重要文化財)重要美術品等数多く襲蔵せられている。
庭園は国の名勝に指定され、苑池は心字形で、東方には石造宝塔のある中島があり、南から北に向い二つの出島があり、出島の南に四つ(或は五つか)の築山が残っている。その築山には夫々三尊石組が見られ、出島とその対岸の端には州浜型で二重護岸の石組があり、ところどころ池におりる段道がある。鎌倉時代の庭園として極めて貴重な存在である。

社頭掲示板



兵主大社楼門

県指定有形文化財
兵主大社楼門
一間二戸楼門、人母屋造、桧皮葺
附 翼廊二棟
昭和41年7月4日指定
昭和45年解体修理時に地垂木から天文19年(1550)の墨書を発見し、建立年代が明らかになった。下層の亀甲絞や巴紋のついた蟇股には明和3年(1766)の墨書があって、この時は殆どの部材を取替える大修理で、下層隅紅梁上の板蟇股以外の絵様彫刻は江戸後期の様式に変えられている。その後も屡々屋根葺替が行われ、明治22年には両翼廊が再び大修理を受け、屋根が桟瓦葺に改められた。後世の取替材が多数を占めているが、当初の部材も各所に残り、全国的に遺構の少ない一間一戸の楼門として室町末期の建築様式をよく伝えている。
平成4年3月
滋賀県教育委員会

社頭掲示板



名勝兵主神社庭園

指定面積 21688u
昭和28年 6882u 国指定名勝
平成8年 14806u 追加指定
保存修理期間 平成3年〜平成11年度(予定)
本庭園は、作庭の様式から鎌倉時代末期頃に造られた庭ではないかと、これまでは考えられていました。
ところが、平成3年度からの庭園保存修理事業に伴う発掘調査により、現在の庭園岸したから汀に小石を敷き詰めた洲浜石敷が確認され、本庭園の原形が平安時代後期までさかのぼることが明らかとなりました。また、東側及び北側境内地でも園地に係わる道水導水溝や排水溝が発見され、連続した庭園景観が復元できるようになり、合わせて名勝に追加指定されました。
なお、庭園保存修理事業は今後も継続して実施されますので、何卒皆様方の御理解と御協力をお願い申し上げます。
兵主神社
平成8年4月吉日

社頭掲示板



兵主神社本殿

町指定建造物
兵主神社本殿
所有者 兵主神社
建立年代 江戸時代前期
兵主神社は、平安時代前期の『日本三代實録』や『延喜敷』(名神大)に記載された、格式の高い神社である。
本殿は、正面を南東に向けた、桁行柱間が十一尺もある大型の切妻造桧皮葺の一間社で、正面に向拝をつける。
建立は、棟札によると寛永20年(1643)に上棟しており、大工は吉地村の谷川孫左衛門である。
江戸時代(前期)における神社建築、特に県内で主流をしめる流造ではなく、一間社切妻造の貴重な遺構として価値の高いものである。
平戒元年7月
中主町教育委員会

社頭掲示板



兵主神社

景行天皇は、御矛の神威を畏こまれ、穴師(大和国桜井市)の地を選ばれて、兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦命に奉祭せしめられた。さらにその後、景行天皇、近江国高穴穂宮に御遷都されるにあたり、この大神を穴太の地に御遷座になった。そこで、この穴太(大津市坂本穴太町高穴穂宮跡)を「元兵主」と呼んでいる。のち欽明天皇の御代、播磨別等(兵主族の祖先)が琵琶湖上を渡り、この地に移住するに際し、再び大神を御遷座し、兵主大神の鎮まる土地として奉斎し、地域住民は、守護神と御神徳を仰ぐに至った。また、稲背入彦命を乙殿神と崇め、この神域に神主播磨別の祖神として鎮祭した。
社殿の創建は養老元年、元正天皇の勅定に因ると伝え、貞観年中、神位従三位勲八等に叙せられ頼朝社と尊崇され、花山天皇は「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。
源頼朝、足利尊氏等武将の崇敬も殊に厚く、歴代寄進の剣、甲冑を今に伝えている。徳川家は、社領の寄進、社殿の造営等を奉仕し、五摂家の鷹司家代々の信仰も厚く、毎年禁中より玉串の献上があった。大正四年、県社に列せられた。

滋賀県神社庁



鹿塚

建立年代 明治31年(1898)8月
兵主大明神縁起(慶長9年、1604年)によると、大己貴命(兵主大社御祭神)が養老2年(718年)、不動明王の姿をかりて、琵琶湖の対岸、穴太より八崎浦に上陸されたと記載されております。
この兵主大社鎮座伝承と深く関わる三つの動物、すなわち兵主大明神の化身である白蛇と、白蛇を背に乗せて湖上を運んできた大亀、それに八崎浦より五条の鎮座地まで白蛇を護り運んだ鹿、この3m四方の塚は明治末にこの伝承を顕彰する為に「鹿塚」として建立されたものです。 現在は境内地に移されておりますが、平成7年までは字小森立の田地の中にありました。
又、一方「亀塚」は野田の西側、字西浦の地に木村定八家の人々により守り継承されております。
平成11年7月吉日

社頭掲示板



兵主大社拝殿翼楼

建立年代 天保13年(1842年)
改築年代 昭和16年
拝殿翼楼の建物は中央の拝殿一棟と左右の翼楼二棟とが組み合った大型の建物で、県下ではたいへんめずらしい型のものです。東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。
現在は埋まっておりますが、平安時代末期には拝殿翼楼の正面には建物に平行する形で水路が流れ、又本殿からの正中線上の川幅には橋かかかり、石敷の参道が楼門まで続いていました。
昭和16年(1941年)皇紀2600年を記念して改築されましたが、天保13年建立当時の部材も多く残り、天保時の大工は吉地村の長谷川若狭守繁行、改築時の大工は比留田村の加賀爪忠左工門と棟札に記載されております。
平成13年10月吉日

社頭掲示板



兵主大社旧護摩堂

建立年代 江戸時代後期
棟札によると寛政6年(1794)12月に、吉地村の大工、谷川若狭重道一族により上棟されて現在の形に改められたと思われる。本来は神社蔵の江戸初期絵図によると宝形造・二間四方・廻り縁付きで、兵主神の本地仏(不動明王)をまつる護摩堂として建立されたものである。
一部、丸柱・格天井などには中世の部材も多く残り、平成8年度の修理では、根継ぎ等による補強を加えて、歴史的な重みを加えることとなつた。
又、内部には、氏子崇敬者三十六社の神々を祀り、江戸時代にはその御神徳は、現在の守山市・中主町・近江八幡市・野洲町の二市二町にまたがる信仰圏を形造っていたものと思われる。
平成8年8月

社頭掲示板



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