兵主神社
ひょうずじんじゃ


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【由緒】

兵主神社
ひようずじんじゃ この社名は、延喜式内社中最も多く三河国より壱岐島まで17社の分布をみる。兵主神は、『史記封禅書』にみえる天主・地主・兵主などの八神の一で、武神として支那では上代から畏敬された。内藤湖南は、日本各地にある兵主神社は漢人が奉じてきたのであろうといい、志賀剛は、祭神が一定せず須佐之男命・大国主命・風神など多く荒ぶる神・威力のある神が、当時流行の儒教尊重の風潮により式社昇格の際改名したのであろうという。
▼滋賀県野洲郡中主町五条。旧県社。国作大己貴神・八千矛神を杷る。創祀は、社伝によると景行天皇は大国主神の八千矛の神威を畏み、皇子稲背入彦尊をしてこれを祀らしめ兵主大神と崇敬し、後に天皇は近江国滋賀郡に遷都される時に、同皇子は社地を宮域に近い穴太に求め、部属を率い、遷し祀った。欽明天皇の御代、播磨別等が琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて現在地に奉遷と伝え、播磨別の後裔が代々神職として奉仕し現在に及んでいる。『三代実録』によるとしばしば神階昇叙がみえ、貞観16年(874)従三位となる。延喜の制名神大社に列し、治承4年(1180)正一位勲八等丘主大神宮の勅額が奉られたという。武家の崇敬も著しく、足利尊氏ば社殿を造営し、徳川家光は社地を寄せた。仁孝天皇は、文政7年(1824)熔宮誕生の折、玉串奉献があった。源頼朝奉納の小袖筆等多数の重要文化財があり、庭園は名勝に指定されている。例祭5月5日。

神社辞典



兵主神社 名神大

兵主は比夜宇須と訓べし○祭神大國玉命、秘説曰、天照大神也、(神祇正宗)○兵主郷五條村に在す○名神祭式には載せず、疑ふべし、
金勝寺寛平9年6月23月官符に、野洲郡兵主名神、』與地志云、正一位動八等兵主大神宮の古額、佐理が筆蹟なり、連胤按に、正一位を授るの日未考得ず、中古の傳へなるべし、此例所々に多し、又云、相搏源義朝の没落の時、頼朝も随うて落行に、不坂池迄の湯にて馬進まず、土民云、不帰池へは日毎夜毎に三度づゝ、兵主太神宮影向あり、今其時にやと、頼朝下馬して社の有方を問ひ、禮拝して武運を祈る、然して後天下一統の日、文治2年神殿及末社等まで悉造立し、三千余石の神領を寄附す
今兵主郷と申は是なり、多くの武具を神献して、武蓮長遠を祈る、文永の兵火に罹て、社も炎上し神領も失ひしを、足利尊氏先例に准じて社を再興し、神領を本の如く寄附あり、然るに、其後数度の兵火相つづき、殊に織
田信長佐々木退治の時に至て、神領悉く没取せられ、湘縫に八木五石を社領とすと云う、啓蒙云、今所伝者七座也、所謂表当宮七名歟、按當社者、大己貴命之鎭坐勿論歟、祭祀之日以干戈弓箭乗于七社神與、而從者又表軍旅之威儀也と云う、さてありなんか、兵主の號の事は、大和國穴師坐大兵主神社下考併すべし、兵主神社は所々多しといへども、今名高きは當社也、
類社
(欠く)
鎮坐
神祇正宗云、人皇三十代欽明帝御宇鎮坐、
神位
三代実録、貞観4年正月20日己丑、授近江國從五位上勲八等兵主神正五位下、同7年6月14日癸亥、授近江國正五位下勲八等兵主神從四位上、同8年12月26日丁酉、授近江國從四位上勲八等兵主神正四位下、同9年2月27日丁酉、授近江國正四位下勲八等兵主棘正四位上、同16年8月4日庚申、授近江國正四位上兵主神從三位、
社領
高九石五斗余、関東御代々御朱印を賜ふ
雑事
日本紀略、天延2年5月7日、近江國解云、兵主、三上神社、自去三月、打太鼓并鉦之音、経日不絶、仍有御卜、

神社覈録



郷社 兵主神社

祭神大己貴命
一説天照大神を祀る(秘説)といひ、又素戔鳴尊を祀る(神名帳考証)ともいふ、社伝によれば欽明天皇の御子大己責命大亀に乗り湖上に出て八ヅ崎に上陸し給ひ、鹿に乗りて現社地に至り鎮り給ふと云へり、かくて元正天皇養老2年社殿の造営あり(近江與地志略)、清和天皇貞観4年正月巳丑從五位上勲八等より正五泣下に進められ。同7年6月癸亥從四位上に、8年12月丁酉正四位下に陞叙、9年2月丁酉正四位上、16年8月庚申從三位に叙せられ(三代實録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列る(延喜式)諸国に兵主神社の鎮座するもの十八箇所の多きに及ぷと雖も、大社に列し給ふは、大和国なる穴師兵主神社と当社とのみ、以て本杜の神威盛んなるを知るべし、高倉天皇治承4年正一位勲八等兵主大神宮の勅額を奉り給ふ(社記)相伝ふ、源義朝没落の時頼朝之に從ふ、不帰池邊にて馬進まず、土民云ふ、不帰池には其夜三度づゝ兵主大神影向あり、今方に其時なるべしと、頼朝下馬して、遙に社を拝し武運を祈る、天下一統の後、後鳥羽天皇文治2年神殿及末社悉く改築し、三千余石の神領を寄連し、又多ζの武具を献ず、亀山天皇文永年中兵火にかゝりて壮殿悉く焼失せしを。足利尊氏先例に准じて社を興し、神領を寄することまた故の如し、其後数度の兵火に羅り、剰へ織田信長の佐々木氏を当国に攻むるや、神領過半没収せられ僅に八木五石を残すのみ、後光明天皇慶安2年徳川家光九石五斗の朱印を寄す(近江與地志略)仁孝天皇文政7年熔宮御降誕の時、満願の議により、向後禁中奏者所に、毎年正月十二月両期玉串献上の事を命ぜらる、維新の際此事絶えしを、明治4年正月大津懸庁の執奏を以て、先例に準じて玉串献上の議を起す、仍て年末に御初種として金五百疋を下賜せらる、同6年郷社に列す。
境内8147坪(宮有地第一種)社殿は本殿、拝殿、幣殿其他神輿舎、神門、社務所等を備へ、社宇宏壮鬱蒼たる古林に蔽はれ、地湖の東南に位して、之を距る事遠からず、之を望めば遥として大洋を見るの感あり、

明治神社誌資料






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