御上神社
みかみじんじゃ 所在地 社名


















   【延喜式神名帳】御上神社(名神大/月次新嘗) 近江国 野洲郡鎮座
          (奥宮)御上神社【奥宮】

   【現社名】御上神社
   【住所】滋賀県野洲市三上 838
       北緯35度2分59秒,東経136度1分38秒
   【祭神】天之御影神
   【例祭】5月14日 例祭
   【社格】旧官幣中社
   【由緒】第七代孝霊天皇6年祭神三上山に降臨
       その後約一千年御上祝は三上山を磐境として祭祀
       養老2年(718)3月15日藤原不比等現地社殿を構営
       清和天皇の代正一位
       圓融天皇の代勅願所
       源頼朝神領三千余貫奉納
       徳川幕府代々社領を寄進
       大正2年11月県社
       大正13年官幣中社

   【関係氏族】安国造
   【鎮座地】当初より此の地に鎮座

   【祭祀対象】三上山
   【祭祀】古代より継承されている
   【公式HP】 御上神社
   【社殿】本殿方三間入母屋造檜皮葺(鎌倉時代のもので国宝)
       楼門・拝殿

   【境内社】若宮神社・三ノ宮神社・天神宮神社・御鍵取神社・愛宕神社・竃殿神社

孝霊天皇の時代、天之御影命が三上山の山頂に降臨し、それを御上祝が三上山を神体(神奈備)として祀ったのに始まると伝える。
神体山たる三上山(御上山)の頂上に座す神なので「御上」の字を宛てたと思われる。
神体山信仰としてはあらゆる意味で標型的なものを示す存在である。
往古はおそらく社地から神体山へかけて「三上ノ森」と呼び榧の原生林叢でつながつていた。
往古社殿はなく春に神霊を山より迎へ(みあれ)農耕の豊穣を祈る「としごひ」の祭にはじまり、秋には豊作感謝のまつり、「にひなめのまつり」をして、これを山頂に送り還へすといつた形で祭祀が行われていた。
山頂に天津磐座があり、奥宮が祀られている。
「天津磐座」は、幅約3m×高さ約2m、厚さ1.5mの船形の岩石である。
養老2年(718)3月15日、藤原不比等が勅命を拝し、飛騨工を造営使として当地に社殿を造営し、三上山(奥宮)に対する里宮とした。
この地は安国造(やすのくにのみやこ)の本貫地であった。


由緒

三上山と妙光寺山の山麓に鎮座。
御祭神 天文御影命を御上神社より勧請。
御上神社の外八社の一社。
古来より秋季祭礼には古習神事を伝え、鑚火にて蒸しあげた独特の形式の御供を氏人が早朝から調整し、奉献する。
三上山を映す野洲八景の御池を前にする景勝の地に臨山。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御上神社

御上神社由緒略記
一、御祭神 天之御影神(天照大御神の御孫)
二、由緒
社記によると当社は古来御上神社、三上大明神社と称し湖東平野の連山に悠然と美しく聲え立つ三上山を神体山として鎮祭されている。お山は別名御上山、三神山、御影山と称されているが近江富士又は俵藤太の百足退治の伝説に因んで百足山とも呼ばれている。
天之御影神は天目一箇神と御同神で又は忌火神、二火一水の神と信仰きれ火徳水徳の霊威あらたかで山頂を竜王様と呼んでいる。
標高432mで高い山ではないが全山青々と茂つた赤松の美林は神山に相応しい。遠くからは孤峯に見えるが近づくと男山女山の二峯から成立している。
起源は第七代孝霊天皇6年6月18日に祭神天之御影神が三上山に御降臨になつたので神孫の御上祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まります神体山として斎き祭つた。古事記開化天皇の段に「日子坐王は天之御影神の女息長水依比売を娶り水穂真若王をお産みになつた、この真若王の子孫は安直即ち野洲国の地方長官になられた」とある。それから後の奈良朝初期元正天皇養老2年に藤原不比等が勅命により初めて現在の地に榧の木で本宮を造営して迂祀し奉つた。然し現今でも三上山の磐境を奥宮(本体)とし山麓の本宮を里宮として不二一体の信仰祭祀が古代のまま行われている。この事実は本殿裏扉の構造や年間の祭祀にも現われている。
即ち旧6月18日祭神御降臨の日には神職氏子等は未明に登頂して神迎えの山上祭を行い、下山して本宮で再び祭神奉迎の影向祭が行われる。 本殿の裏扉は祭典時にお山を拝むために構営され神体山信仰の様式手法を伝えている。
社記によると当社の神領は古代三上山を中心に山千町、河千町、田千町と伝えられ甲賀郡横田より下は野洲郡吉川に至るまで五十余郷の産子を有し国家安穏、五穀豊穣の守護神として朝野の崇敬極めて篤く清和天皇の御代には正一位の神階を授け給い併せて社殿の御修営あり、是から恒例三度の勅使を賜つた。次で醍醐天皇の延喜の制度では名神大社に列せられ月次、新嘗の官幣に預らせ給うた。更に圓融天皇の御代には勅願所と定められ宝柞無窮、四海大平の御祈りをせられた。降つて武家執政の世となつても崇敬変ることなく、殊に源頼朝を始め徳川幕府に到るまで、代々神領を寄進し社殿を修営して尊崇が深かつた。
明治維新の神道復興の時運に際し漸次御社頭を整備して大正13年には県社から一躍官幣中社に御列格遊ばされたが、昭和20年12月15日神道指令の主旨により社格は廃止され旧来の御上神社に復した。
三、御神徳
金工鍛治の祖神
御祭神は天目一箇神、忌火神、二火一水の霊神と称えられ金工鍛治の祖神で社紋は釘抜紋である。古代当地方は鉄工鍛治工業が発達して祭神の子孫三上族は近畿一圓に繁栄していたことを記しているが、著名なことは、第十代崇神天皇の御代、三種の神器を御模造の時、祭神八世の孫国振立命は三上地に於て神剣を鍛え奉つたとのことである。三上山の北隣りの大岩山や桜生から計二十四個の銅鐸を発掘きれたが国内で一番大きなもので数も多く往古の状況が偲ばれる。
神衣祭、忌火祭(お火たき祭)
神衣祭並忌火祭は古来11月15日(現在は11月第三日曜)に行われている。
神衣祭は絹地八尺を栗の皮で染め御砲を縫つて神様に奉る御衣更えのお祭である。
忌火祭は忌火神が高天原から受伝えられた浄火を祭る祭典で最も神聖視し当地方は忌火郷の名称がある。
このお祭は神秘な御祭で宮司は潔斎して本殿内で燧石で火を鑚り其の浄火を古式により楼門前に組まれた浄木に焚きつけ浄焔祭を斎行して火の神の御徳を奉賛し天下の罪穣れを祓い清めて信者に新らしい生活の火種を授けるお祭である。当神社ではこの忌火祭で火の聖霊をマッチにうつして開運火種として授与している。
昭和の悠紀斎田
昭和3年11月10日昭和天皇御即位式に引続き斎行された大嘗祭の新穀を作つた悠祀斎田は、現在当神社の神饌田になつている田地に勅定され太田主は粂川春治が拝命して任務を奉行した。
爾来毎年当時そのままの服装様式で御田植式を挙行しているが、昭和50年5月25日第26回植樹祭を当県栗東町金勝山に於て挙行の際に昭和天皇、皇太后両陛下には当神社の御田植式を御覧遊ばされた。
尚お県下の有志によつて大嘗祭悠紀斎田記念碑並に天皇皇后両陛下行幸啓記念碑を建立した。
農業神(里芋茎祭)
当地方は三上山を中心に野洲川の水利に恵まれ優良米の産地として有名であるが住民は三上山を水の神、竜王様と称して信仰が深い。その精神は秋季古例祭(ずいき祭)に現れている。このお祭は相撲人形から推察すると千年も前から行われていた様であるが文献の上では四百年以上になる。氏子中から毎年ずいきで立派な神輿を五基作つて山、田、畑、の果実で神輿を飾つて氏神を迎え報恩感謝の至誠を表現する御祭で敬神崇祖の美風を存続している。
俵藤太の百足退治
今から千年前、朱雀天皇の御代に田原藤太秀郷と言う剛勇の士が近江国の領主にいた。或る日勢多の橋を渡ろうとすると橋上に大蛇が横たわつていたが悠々と大蛇をふんで通つたので大蛇は小男に化けて藤太の豪勇を賞めて語るには「吾は竜宮に住む竜神であるが、三上山を七巻半まいている百足に悩まきれているから助けてくれ」と嘆願したので藤太は承諾して天孫降臨三十二神の内の武神である当神社に祈願して弓の秘訣を授つて勢多の橋から矢を放ち一矢は射損じたが二矢は鏃につばをつけて射止めた。竜神は喜んで米俵や釣鐘等の宝物を贈つたので田原藤太を俵藤太に改めることになつた。因つて当神社は一月九日に弓射祭を執行して天下の悪魔払いをしている。
四、祭典
主な祭典行事
歳旦祭  1月1日    御田植祭  5月吉日
節分祭  節分当日    山上祭影向祭 旧6月18日
祈年祭  2月17日    秋季古例祭 10月14日
迂祀祭  4月15日   忌火祭神衣祭 11月第三日曜日
例祭  5月14日    新嘗祭11月23日
五、社殿
本殿  国宝 鎌倉時代入母屋造
この建物は神社、仏堂、御殿の三様式合成の構造で三上造と称している。
背扉は里宮(本宮)より奥宮を祭つた神体山信仰の遺風を存している。
拝殿 重文鎌倉時代 入母屋造
天井が船底形で変つた構造である。
楼門 重文鎌倉時代 入母屋造
摂社 若宮本殿 重文 鎌倉時代 切妻造
末社 三宮本殿 県文化財 室町時代 切妻造
末社 大神宮社、鍵取神社、愛宕神社、竈殿神社
六、宝物
狛犬一対 重文 鎌倉時代
京都国立博物館委託
相撲人形(力士2行司1)一組 県文化財 鎌倉時代
県立琵琶湖文化館委託
鳳輦神輿 三基 宝徳2年の修理銘あり、普通の神輿より胴体が広く大きい。
神社保管
拝観御希望の方は、出品されているか左記にお問合せ下さい。
京都国立博物館
滋賀県立琵琶湖文化館

社頭掲示板



御上神社

一、御鎮座地 滋賀県野洲市三上838
一、御祭神 天之御影神(天照大神の御孫)
一、由緒
当神社の社記によると天之御影神は今から二千二百余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので神孫の御上祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。降って養老2年勅命によって現在の地に社殿を造営して遷祀された。爾来朝野の崇敬あつく清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明神大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定められ四海大平の祈願を行われた。武家政治になっても源頼朝を始め各武将も尊崇深く神領を寄進奉った。明治9年郷社に、大正2年県社に、大正13年には官幣中社に御列格遊ばされたが昭和21年2月宗教法人となり神社本庁所属の別表社となった。
一、御神徳
御祭神天之御影神は御神徳高く霊験あらたかで忌火神、金工鍛冶神、産業神、開運悪魔除けの神として信仰され、当地方は昔から神体山三上山を中心に忌火郷、悠紀郷、むかで退治の神話で有名で、山麓からは二十四個の銅鐸が発掘され、五〜六世紀の古墳群が現存している。
一、主なる祭日
祈年祭 2月17日
春季例大祭 5月第三日曜日
影向祭(山上祭) 旧6月18日
秋季古例祭(ずいき祭) 体育の日
神衣祭忌火祭 二の申に近い土曜日もしくは日曜日新嘗祭11月23日
一、文化財
勘本殿(国宝)拝殿、楼門、若宮社(各国指定重文)三宮(県指定)狛犬(重文)角力人形(県指定)
ずいき祭(国指定重要無形丈化財)
以上略記

社頭掲示板



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