御上神社
みかみじんじゃ


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【由緒】

当社の起源は、第七第孝霊天皇の6年6月18日に御祭神天之御影神が三上山に御降臨遊ばされ、それから約千年の間、御上祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐境と斎定めて祀っており、『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上祝がもちいつく天之御影神」と記されている。
奈良朝初期元正天皇の養老2年3月15日(718年)に藤原不比等が勅命を拝し、榧木原と称された現在の鎮座地に造営して、ご遷祀させた。
以来朝野の尊崇極めて篤く、陽成天皇の御代(877年〜84年)には正一位の神階を授けられ、併せて社殿の修営も行われた。
次いで醍醐天皇(897年〜930年)の延喜の制では、明神大社に列せられ月次・新嘗の官幣に預かり。
更に円融天皇(969年〜84年の)御代には当社を勅願所と定められた。
武家執政の世になっても、源頼朝を始め各武将も崇敬深く変わることなく、徳川幕府に至るまで、代々神領を寄進し、社殿の修営を行い尊崇が深かった。
明治維新の神道復興の時運に際し、御社頭の整備が行われ、明治23年に本殿・拝殿・楼門が特別保護建造物に指定された機会に国庫補助を受けて解体修理の大事業が行われている。
大正13年に県社から官幣中社に列格される。

公式HP



【文化財】

国宝 御上神社 本殿
明治32年4月5日指定
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
建立年代は明らかではないが、様式手法からみて鎌倉時代後期の建立と推定される。入母屋造、漆喰壁及び連子窓など仏堂的要素が融合した神社建築で、簡素であるが優れた形をしている。
中心部一間四方を内殿として正面に板扉を構え、その周囲に一間通り化粧屋根裏の庇を廻らした構成ですが、側柱の間隔はすべて同じで、内殿の柱間はその一間よりやや広くなっている。身舎(内殿)、側廻りとも隅柱上に舟肘木をのせ向拝の蟇股は内部彫刻を失っているが、柱上連三斗の組物と共に力強く、手挟は珍しい形をしている。反花を刻んだ縁束石が並んだところは壮観で、その正面右端のものに建武4年(1337年)の刻銘(地中部分)があり、縁廻り及び向拝はこの時期の改造とみられている。

国指定重要文化財 御上神社 拝殿
明治32年4月5日指定
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
この拝殿は旧本殿の部材を再利用して建立されたものと云われている。本殿の柱間寸法と殆ど変らない規模で、隅柱上のみに舟肘木をもち、内部中央を棹縁天井に、その周囲を化粧屋根裏とし、の木は二軒繁垂木であり、入母屋の破風を小さく構えるなど本殿の様式とよく似ており、柱には旧柱間装置の仕口が残っている。様式等により鎌倉時代後期の建立と考えられる。面及び背面のそれぞれ中央間は内法長押を一面に張り、機能的に改造したことがわかる。

国指定重要文化財 御上神社 楼門
明治32年4月5日指定
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺
楼門は二階建ての門だが、腰組で廻縁を支え屋根は一重であって、屋根が上下二重になっている二重門とは区別される。平安時代は神仏習合の思想が特に発展し、神社にも楼門が建てられるようになったと考えられるが、現在では鎌倉時代以降のものしか現存していない。
この門は上層間斗束裏面に「かうあん五年きのとみのとし」の墨書があり、乙巳は康安5年(1365年)に当たり、各部の形式も当時のものとみられている。楼門としては最も普遍的な、三間一戸楼門で、全体は和様であるが、上層の頭貫に木鼻をつけたのは禅宗様細部の混用されている。組物は上下層共三手先だが、楼門の上層三手先組物に尾垂木が無いのは珍しい形式である。

国指定重要文化財 御上神社 摂社若宮神社本殿
昭和6年1月19日指定
一間社流造、檜皮葺
流造本殿は神の座を設ける母屋に縁を廻らし、正面に木階をつけ屋根を全体に延ばして木階を覆うと共に礼拝の場を作ったもので、屋根は流麗な曲線に発達した。全国的に分布し、一間社流造は三間社流造に次いで遺構が多い形式。
この本殿の建立年代は明らかではないが、鎌倉時代後期のものとみられ、規模は中型で浜床を低く作る形式は古式に属している。母屋の円柱上には舟肘木をのせ、向拝は大面取の方柱で連三斗の組物をのせ、母屋柱との間に繋虹梁をかけている。向拝には内部彫刻の簡単な古式的な本蟇股を飾り、全体的に明快簡素な建築となっている。

県指定有形文化財 御上神社 摂社三宮神社
一間社流造、檜皮葺
建立年代は室町時代。御上神社の摂社で「十禅師社」とも称した。構造形式は若宮神社と似ており、蟇股には牡丹の透彫が入っている。

公式HP



【由緒】

祭神天之御影命は、第7代孝霊天皇6年、三上山に降臨になったので、神孫の三上祝等は三上山の巖の磐境を、神体山と斎い定めて、約1000年の間奉斎された。山は標高428mで山麓から山頂まで、岩磐が連って山頂には、大きな磐座がある。奈良朝に至って、天正天皇の養老2年藤原不比等が勅命を拝して、飛弾の工匠を造営使として、榧木原と称せられた現在の榧の木で、社殿を造営して奉遷鎮祭された。本殿の背面には、扉を設けてあるが、これは祭典時にお山を拝んだ神体山信仰の遺構を示している。旧6月18日には、毎年祭神降臨の日を記念して、山上祭を奥宮で斎行して下山し、引続き本宮で奉斎の影向祭が行われる。社記によると、当社の神領は、古代山千町、河千町、田千町と記され、甲賀郡横田より下は、野洲川吉川に至る五十余郷を有し、守護神として、朝野の崇敬極めて篤く、清和天皇貞観元年神階授与より、再々神位が授けられて同17年には従三位に叙せられた。醍醐天皇延喜の制度では、名神大社に列せられた月次新嘗の班幣に預らせ給うた。更に円融天皇天延2年勅願所と定められ、宝祚無窮四海大平の御祈りをせられた。降って、武家執政の世となって崇敬変りなく、殊に源頼朝を始め、徳川幕府に到るまで、代々神領を寄進して造営し崇敬が深かった。逐年社頭を整備して、大正13年官幣中社に列格。

滋賀県神社庁



御上神社 名神大月次新嘗

御上は美加美と訓べし、和名抄、(郷名部)三上、(美加無)〇祭神天御影神〇三上荘三上山麓三上村に在す○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、逝江國御上神社一座、
古事記中巻に、日子坐王、娶近淡海之御上祝以伊都玖、天之御影神之女息長水依比売、生子丹波比古多々須美知能宇斯王」金勝寺寛平9年6月23日官符に、野洲郡三上名神」盛衰紀四十五に、三上明神と名付たり、此神と申は、第44代御門元正天皇御宇養老年中ニ天降り、日本第二忌ノ火ニテ、此処ニゾ住玉ブ、
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授近江國從五位下三上神從五位上、同7年8月28日丙子、授近江國從五位上三上神正四位下、同17年3月29日壬子、授近江国正四位下三上神從三位
難事
日本紀略、天延2年5月7日、近江國解云、兵主、三上神社、自去三月打太鼓並鉦之音、経日不絶、仍有御

神社覈録



郷社 御上神社

祭神天御影命
河内の国造等の祖天津日子根命の子天御影神を祭る、(古事記、旧事本紀、新撰姓氏録)されど社家の説によれば、伊弊諾尊と天照大神とを祀るといふ、(近江與地志略)一説木曾路名所図絵には、天児屋根命を祀り、天照大神の和魂、及天瓊々杵尊を合殿とすと記せり、之れ何によれるものか明ならず、孝霊天皇6年6月18日当祭神三上山の頂に降臨し給ふといふ(社記、木曾路名所図曾)、後、元正天皇養老元年3月15日伊弉諾尊同所に降臨し給ひしかば。軽者の山に入るを禁せりと(近江與地志略。社記)、温故録云、昔此山に大なる蜈蚣ありて、勢田の龍宮城に寇せじ故に、田原藤太秀郷之を射殺したりと云ふ俗談あり、太平記には比良の嶺より来る蜈蚣あり、釈書には此山の神を陀我神祠と記して、また白小猿なりと云ふ、さて山頂は庶民の参拝に不便なるを以て、相謀りて現地山下に遷し奉り、内外の末社を造営せり(神砥志料)、かくて朝廷の崇敬も淺からず、平城天皇大同元年近江の地二戸を充て奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月27日徒五位下より、從五位上に進められ、同7年8月28日正四位下に昇せられ、同17年3月29日從三位を授け給ふ(三代実録)、醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、月次、新嘗二祭の案上幣帛に預る(延喜式}、凡本社齋官尤も火を愼しみ、瓦釜を以て炊ぎ、陶器を以て食ふ、依つて日本第二忌火と称すといふ(神社啓蒙、行嚢抄)円融天皇大延2年5月7日近江国解に云く、三上神社の太鼓去る三月より鳴動止まずと、仍て御トの事あり(日本紀略)、当社を以て勅願所と定められ、宝詐延長、四海太平の祈をなさしめ給ふ、四修天皇の嘉禎3年佐々木六角奏綱社頭を修理し、後花園天皇の文安2年佐々木政頼社殿を修覆せしが、後土御門天皇の文明8年兵火に罹りて宝賽物古紀等焼失せり、後奈良天皇天文8年六角義實、木村貞榮をして之を修理せしめ、続いで後水尾天皇の寛永3年。霊元天皇の寛文5年、東山天皇の宝永7年、光絡天皇の文化12年、孝明天皇の元治元年修繕せりと云ふ、社領は後鳥羽天皇建久元年11月5日源頼朝三千余貫の地を寄進せらる、後醍醐天皇建武3年正月18日足利尊氏三千貫の地を改めて社領一百町を寄す、後陽成天皇天正14年豊臣秀吉改めて四町九反七畝十七歩を寄せしが、其内八反五畝四歩を墾し、神供殿とせしを以て、地税を除か"しが、明治4年逗減緑を受く、同9年10月21日郷社に列す、同18年内務省より保存費として金七百圓下賜せられ、同32年4月本殿、拝殿、棲門の三棟を特別保護建物とし、同33年國庫より一萬二千円を支出して修理を加ふ。
境内14052坪(官有地第一種)を有し、社殿は本殿、拝殿、其他楼門 神輿庫。左帷。右帷等の建物を伽へ、老松、古杉繁茂し、後に近江富士の称ある三上山を控へ、御手洗川の清流を帯して風致佳なり、御神体は木像にして、宝物には狛犬、(国宝)源頼朝の寄進にかゝる唐金の焼鉢、憂茶繕、神高系圓、延喜式牌名秘書等を有す

明治神社誌料






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