景行天皇の46年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮として崇め奉った。 奈良時代に神崎郡建部郷(かんざきぐんたてべごう)から瀬田大野山(所在不明)山頂に遷され、その後、建部氏によって現在地に遷座という。 瀬田大橋の間近で戦略上の要地であり、古代より再々戦乱の渦中に遭遇するのを余儀なくされた。 |
由緒 当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に記されているのであるが、これが即ち建部の起源である。 景行天皇の46年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の当大社である。 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、明治18年4月官幣中社に、同32年7月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。 昭和50年4月15日御鎮座1300年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。そして平成2年3月17日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
建部氏 建部大社の祭祀を司ったのは、建部氏であった。系図によれば、建部氏は祭神である日本武尊の子孫を称し、派遣随使・派遣唐使を務めた犬上君御田鍬の弟で建部君を賜った息知を祖とすると伝える。息知より四代の孫にあたる益人が初めて建部神社を勧請したという。息知はまた、建部朝臣姓も賜っている。子孫は神崎郡に住し、祖神を祀る建部大社に奉仕した。 また、建部氏は武士としての側面ももっていたようで、平安末期の助継は源為義に従っていたことが系図に記されている。そしてその孫光政は、建部庄の地頭職を得ていることから鎌倉御家人に列していたようである。その子建部光政は、承久の乱に際して京方に従い誅されている。 光政の子光基は建部社神主を務め、建部庄管領も兼帯している。しかし、その後数代で系図は途切れ、中世のころに建部氏の嫡流は廃絶したようで、いまにその家系は伝わっていない。 http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_takeb.html 抜粋 |
建部大社 近江国一之宮 たけべたいしゃ 建部大社 〒520-21滋賀県大津市神領1丁目16-1 電話大津(0775)45-0038 御由緒 当社は古来建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に記されているのであるが、これが即ち建部の起源である。 景行天皇の46年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の当大社である。 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160)3月20日当社に参籠して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190)11月右大将として上洛の際再び社前に額き曩年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、明治18年4月官幣中社に、同32年7月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和50年4月15日御鎮座1300年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。 そして平成2年3月17日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。 御祭神 本殿 日本武尊 (相殿) 天照皇大神 権殿 大己貴命(大国主神) ■摂社(四社) 聖宮神社 日本武尊の御父 第十二代景行天皇 大政所神社 景行天皇の皇后 藤宮神社 日本武尊の御妃 若宮神社 日本武尊の御子 建部稲依別命 ■末社(八社) 行事神社 吉備臣武彦 大伴連武日 弓取神社 弟彦公 箭取神社 石占横立 尾張田子之稲置 乳近之稲置 蔵人頭神社 七掬脛命 (膳夫神社) 料理の神 大野神社 草野姫命(地主神) 稲荷神社 稲倉魂命 八柱神社 素盞之男命他七柱命 桧山神社 大山祇命他四柱命 御神徳 日本武尊 第十二代景行天皇の第二皇子で、母は皇后播摩稲日太郎媛である。幼名を小碓(日本童男)と申し文武、智勇にすぐれ熊襲征伐後日本武尊と称えられ、崩御後神霊を本殿にお祀し、厄除開運、授福出世、火難除神として崇敬が篤い。 大己貴命 大和一之宮大神神社より当社権殿に勧請し爾来、商売繁昌、縁むすび、病気平癒、醸造の神として崇められている。 宝物 女神像三躯と、文永7年(1270)在銘の石灯籠一基は、共に国指定の重要文化財である。 境内地 約3万平方メートル、社有地9万平方メートルに及ぶ。 御祭儀、 1月 1日 歳旦祭 3日 元始祭 9日 山神祭(末社桧山神社祭) 15日 成人祭 2月不定 節分祭 4日 護国祭(弓の神事) 11日 紀元祭 17日 祈年祭(春の大祭) 3月不定 勧学祭 31日 榊立祭 4月 1日 境内社大野神社祭 14日 宵宮祭 15日 例大祭(神輿渡御) 6月15日 挿秧祭(田植の神事) 30日 大祓式 8月 1日 納涼榊立祭 7日 納涼祭 16日 宵宮祭 17日 納涼船幸祭(大津三大祭の一つ) 10月12日 早穀祭(抜穂の神事) 11月23日 新嘗祭(秋の大祭) 26日 鎮火祭 12月23日 天長祭 31日 大祓式 〃 除夜祭 毎月1日月次祭 15日 〃 由緒書 |