建部大社
たけべたいしゃ


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【鎮座地諸説】

※景行天皇46年(116)に建部郷千草嶽(現・東近江市五個荘伊野部町箕作山)に祀られ、天武天皇4年(675)に現在の地に遷座した。それまでここには大野神社があった。大野神社は現在、栗東市荒張に建つ。
※奈良時代に神崎郡建部郷(かんざきぐんたてべごう)から瀬田大野山(所在不明)山頂に遷され、その後、建部氏によって現在地に遷座された。
景行天皇46年日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃、布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が、近江神崎郡建部郷に日本武尊の神霊を祀ったのがはじまりといわれ、そののち、天武天皇白鳳4年4月に日本武尊の子孫、建部公安麿(たけべのきみやすまろ)が国司の命により、近江国府がおかれていた瀬田の地の大野山に社殿を造営した。さらに天平勝宝7年(755)には山麓の神領に移り、近江一之宮といわれるようになり、貞応2年に現在の地に移った。
※景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。


【由緒】

当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。
景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に遷祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。
歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです。
爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以です。

公式HP



【由緒】

古来建部大社、建部大明神と称え、延喜式内名神大社に列し、近江国一ノ宮として朝野の崇敬篤い古社である。
景行天皇四十六年神勅に御妃布多遅比売命が御子稲依別王と共に住まわれた神崎郡建部の郷に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年に近江国府の所在地であった当瀬田の地に遷祀された。
当社は歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑がない、殊に源頼朝は平家に捕われ十四才にして伊豆に流される為、京都から関東に下向の折、永歴元年当社に参籠して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って建久元年右大将として上洛の際再び社前に額き、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされた。
明治18年官幣中社に、続いて同32年官幣大社に列した。昭和50年御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念事業の完遂により御社頭は面目をあらたにした。続いて昭和52年「建部大社」と改称された。

滋賀県神社庁



建部大社

たけべたいしや 滋賀県大津市神領。
近江国の一の宮。旧官幣大社(現、別表神社)。祭神は日本武尊.を主神とし、相殿に天明玉命、権殿に大己貴命を祀る。
景行天皇43年日本武尊は東国征討ののち、近江の伊吹山で病を得て、伊勢能褒野に薨じた。景行天皇46年に御子建部稲依別王、神勅により近江国神崎郡建部郷千草獄に社を創建して、日本武尊の霊を奉じて、建部大神を崇称したことに始まると伝えられる。
天武天皇の御代に建部連安麿に勅して瀬田郷大野山の嶺に社を遷祀した。天平勝宝7年(755)に建部公尹賀麿が勅を奉じて再び大野山の麓広庭に遷座した。『三代実録』貞観2年(860)官社に列した。同10年には従四位上を授けている。『延喜式神名帳』の名神大社に列した。『日本紀略』応和2年(962)には正三位を授けている。朝廷の崇敬も篤く、たびたび神領を増加されている。
建久2年(1191)11月に源頼朝は瀬田郷三〇〇の封戸を寄進している。貞応2年(1223)に鎌倉幕府は、本宮及び摂末社を造営し、太刀・神馬などを奉納しており、武門の神として崇敬されていた。承久の乱(1221)以降、しばしば兵火の災に罹り、社殿は衰頽し、古来からの神領は横領されたりしたために衰退した。江戸時代には、膳所城主戸田氏あるいは本多氏は一〇石または二○石を寄進していた。例祭4月15日。
2月4日の護国祭に射的神事、8月17日に納涼祭がある。社宝の木造女神坐像と小女神坐像の三躯、及び文永5年(1270)銘の石燈寵は重要文化財に指定されている。
摂社に聖宮(祭神は景行天皇)のほかに弓取神社(祭神は弟彦公)、箭取神社(祭神は石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置)、縁結びの神として名高い大野神社(祭神は草野煙命)など多くある。

神社辞典



建部神杜 名神大

建部は多祁辺と訓べし○祭神大己貴命、(一宮記)或云、天明玉命、(蕃神注)○神領村に在すO式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、近江國建部神社一座、○当國一宮也(一宮記)○永万記、建部社、(神祇官菖蒲進)
日本紀景行天皇巻に、初日本武尊娶両道入姫皇女爲妃、生稻依別王、是犬上君、武部君、凡二族之始組也、』又云、日本武尊、崩于能褒野、云々、欲録功名、即定武部也』古事記、倭建命娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女、布多逞比売、生御手稻依別王、犬上君、建部君之祖、(旧事紀同じ)姓氏録、(右京皇別下)建部公、犬上朝臣同祖、日本武尊之後也、
神位 官社
三代実録、貞観2年3月辛亥朔、近江國建部神列於官社、同5年6月8日己亥、授近江国正六位上建部神從五位下、同10年7月11日壬寅、授近江國建部神從四位上、扶桑略記裡書、延喜元年4月13日乙丑、近江國正四位下建部神、奉授從三位、位記請印、日本紀略、応和2年6月9日乙未、授近江國坐建部神正三位、
雑事
伯家部類に、江州勢田郷建部明神事

神社覈録






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