石坐神社
いわいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石坐神社 近江国 滋賀郡鎮座
          (旧地)石坐神社【旧地】

   【現社名】石坐神社
   【住所】滋賀県大津市西の庄15-16
       北緯35度0分1秒,東経135度53分17秒
   【祭神】(主神)彦坐王命 天命開別尊 弘文天皇 伊賀采女宅子媛命
       (合祀)海津見神 豐玉比古命

   【例祭】5月3日 例祭
   【社格】
   【由緒】朱鳥元年(686)現地に遷という
       宝亀4年(773)12月3日正一位
       建久3年源頼朝参拝
       建保2年社殿再営
       文永3年(1266)8月29日造営
       永正元年閏3月17日佐々木定頼神輿を再営
       慶長5年関ケ原の役に大阪方神域に布陣
       寛永13年石川忠俊拝殿御倉を寄進
       明治になって高木神社と改称
       大正6年旧石坐神社に復称

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は茶臼山古墳(史跡)の奥
        朱鳥元年(686)現地に遷という
        持統天皇の時代に石神町 (昭和町)に移された
        文永3年(1266)現在地に遷

   【祭祀対象】磐座
   【公式HP】 石坐神社
   【祭祀】江戸時代は「八大龍王社」と称していた
   【社殿】本殿流造 檜皮葺
       中門・拝殿・神輿庫・社務所

   【境内社】

鎮座地の西方、膳所の茶臼山古墳(史跡)の奥に旧社地があり、ここを御霊殿山と呼んでいる。(現在秋葉神社の地のさらにかなり奥)
御霊殿山の山頂には巨岩(磐座)があり、御霊殿山(神体山)に山宮を想定すれば、いまの社地は里宮か田宮の祭祀地であろう。
御霊殿山の磐座は現在ほとんど埋没しているとのこと、祠等も置いてない。
祭神は大津京と壬申乱の重要な中心人物ばかりである。大津宮と当社との関連は深い。
本来は水神または農耕神として地域社会の古代生活の中に生れたこの古社に、大津宮関係の諸神が何等かの事情で合祀されたのではないかと考えられる。
社伝によると、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその4代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀ったのが起源とされる。壬申の乱以降は表向きは八大竜王を祀っていたが、ひそかに天智天皇・大友皇子・伊賀采女宅子を祀ってきた。


由緒

人皇41代持統天皇の朱鳥元年5月朔日一条院尊良粟津郷王の林の広庭に社殿を造営し正霊天王社と称し奉斉す是当神社の草創なり
光仁天皇宝亀4年12月3日正一位勲一等の神階を贈り賜ひ鎮護国家之神也と御勅宣あり同5年12月3日勅祭を行なはせ給ふ
建久3年源頼朝上洛の途次当社に参拝し武運長久を祈願し神領の寄進あり
正治元年月佐々木信綱神殿を再建し神輿一基名刀神鏡の寄進あり 建保2年社殿再営の事あり左近衛中将藤原資平を勅使として参向せしめ給ふ 亀山天皇文永3年8月29日神主佐々木守安社殿を湖辺に遷し更に造営す今の社殿是れなり(今を去る650有余年前)
弘安年間皇子御不例にて医療効なく因つて当社に御祈願あり之を占はしめらるに大鯉魚を捕へ御病床に供ふべしと時に志賀之郡南郷の住人青山藤右衛門と云ふ人高木崎に大綱を曳き目下二尺三寸の鯉魚を獲たり之を献ずるに皇子御脳平癒したれば勅使を遣はせ給ひ奉幣あらせらる左大臣三条実房公より八大龍王宮の扁額の寄進あり文和3年後光厳院帝近江巡行の砌り幣帛及び菊桐御紋章の御戸帳の御下賜あり
永正元年閏3月17日佐々木定頼神輿を再営し祭器の寄進あり
慶長5年関ケ原の役に大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時に祀宇は災を免れたるも上古より伝はれる古記録宝物焼失す慶長6年徳川氏大津城を膳所に移し戸田左門一西を封す一西厚く当社を崇敬し神田高五石田一段歩を寄進し神域の大修補をなす寛永5年菅沼定芳膳所城に封せられ雨乞祭を修し霊験を得て社傍に石造玉垣の寄附あり寛永13年石川忠俊膳所城に封せられ拝殿御倉の寄進あり慶安五年本多俊次膳所城に封せられ社領高五石神田一段歩合米三石六斗五升五合の寄附あり爾来代替りに黒印改めあり先規により寄進せらる当社は古来数兵火の災ありて古の大社の規模を失へるも武門武将の崇敬厚く神領の寄附を以て四時の祭祀を奉仕せしなり

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




石坐神社

滋賀県指定文化財
建造物 石坐神社本殿 一棟
大津市西の庄
三間社流造、屋根桧皮葺の社殿で、まわりを平唐門と塀によって囲まれています。社殿の前面にある向拝部やまわりの縁は後世に付けられたものですが、身屋には建築当初の古材が残っており、桁や舟肘木などの様式は古いもので、脇障子が社殿の前寄りに付いているのは珍しい形式です。
この社殿の建築年代は、棟札の写しによって文永3年(1266)に建造されたことが知れ、鎌倉時代の社殿建築として貴重なものです。
昭和32年8月に県の有形文化財に指定されました。
大津市教育委員会
平成元年12月

社頭掲示板



石坐神社

延喜式内社 石坐神社御由緒
御祭神
八大龍王宮 豊玉比古神(海津見神の幸魂)
      彦坐王命
正霊天王宮 天智天皇
      大友皇子(弘文天皇)
      伊賀宅子媛命
御創立
天智天皇8年(西暦669年)旧9月9日御霊殿山(御龍燈山)の神奈備の天津磐座に豊玉比古神御出現
朱鳥元年(西暦686年)旧5月1日石坐野の王林の広庭に両殿を御創建
光仁天皇宝亀4年旧12月3日正一位勲一等の神階を贈り給い鎮護国家之神也と御勅宣あり
同5年12月3日勅祭を行わせ給ふ
鎌倉時代文永3年(西暦1266年)旧8月29日に現在地に両殿御遷座
慶長五年関が原の役で大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時に八大龍王宮は災いを免れたるも上古より伝われる古記録宝物焼失す
江戸時代・膳所城主の篤い崇敬を受ける
明治時代高木神社と改称・大正6年旧称石坐神社に復す
主な御祭礼
歳旦祭  1月元旦
節分祭  2月3日
祈年祭  3月春分日
大祭   5月3日
漏刻祭  6月10日
夏越の大祓6月下旬
千燈祭  9月秋分日
神奈備磐座祭旧9月9日
新嘗祭 11月23日
御火焚き祭12月上旬
神奈備山登拝12月29日
月始祭(おついたち参り) 毎月一日
神奈備磐座月次祭 毎月旧9日
厄除け交通安全諸願成就月次祭 毎月15日
御神徳
神を敬い祖先を崇め神習う道を教え導き給い救世済民の恩頼を垂れ給ふ厄祓い祈祷(大厄三十三歳・四十二歳)厄除け守護矢授与
災難除祈祷災難よけ特別守授与 誕生祭祈祷
交通安全祈願・社運隆昌・商売繁盛・家内安全・病魔退散等諸願成就祈願地鎮祭・清祓い・宅神祭など執り行います
石坐神社社務所
大津市西の庄15−16
電話077(524)8696

社頭掲示板



石坐神社

石坐神社鎮座於近江国滋賀郡膳所錦村布代之古祠也■天智天皇之朝里人建小祠於御霊殿山祭海津見神■旱祷雨頗有霊験是為草創朱鳥元年五月一日滋賀寺僧尊良■里人謀遷山上祠ニ石坐野合祀天智弘文二帝及伊賀采女宅于之霊安■四座神像称■霊天皇社又称別宮或号八大龍王宮尋弘文帝皇子■多王為僧住興寺名聖信修先皇冥福奉祀陵廟光仁天皇霊亀四年十二月授正一位勲一等五年十二月行勅合祭礼承和二年十二月為勅願■僧公間補別当織司神事爾後数世寺主管■祀典多出于近江朝之■時有勅使奉幣之儀延喜中列式社居滋賀郡八座之一名石坐神社可以見神徳赫■于当時矣建久中鎌倉将軍入洛也■祠田■理料文永三年八月司司佐佐木守安建祠湖浜遷座焉今神殿是也弘安中朝廷有祈願■奉幣賜神門額自是兵乱相踵祠宇荒廃而僅存慶長六年戸田氏封膳所城附神領崇祀之元和元年修葺神殿造石灯寛永五年■修補之菅沼石川二氏及我祖之移封一仍前例附祠田正徳五年大旱累月里人若之城主親■際焉惣甘雨滂沱遍于四郊特修祠安築石垣爾来城主里民崇敬特厚明治革新後改高木神社今又復旧号億チ有余年奉祀連綿神徳益彰遠邇里民相謀欲修祭典徐建碑勒事蹟以伝永久乃乞文余有旧封之縁故誼不可乱■社記歴叙其沿革以輿之
明治二十八年五月 従三位子爵益多穣撰文并題額
         滋賀県属 笠井喬謹書

社頭石碑






石坐神社

この神社は延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられていたことからその創建の古いことを思わせる。
祭神は海津見神を主神とし天智天皇・弘文天皇、伊賀采女宅子、豊玉比古命、彦坐王命を祭つている。
むかし干害にあったこの地の人が雨乞いをしたら、ひじょうな応験があって里人の信仰が深かったと伝えられている。
またこの社は八大龍王社とか高木宮の社号を有したことがある。
重要文化財  木造天命開別命坐像(平安)
〃      木造伊賀采女宅子媛坐像(〃)
〃      木造弘文天皇坐像(〃)
〃      木造彦坐王坐像(鎌倉)
県指定文化財 本殿  (〃)

社頭掲示板



石坐神社

御霊殿(ごりようど)山から膳所町王林(いまの錦電停付近で、昔はこの邊を石坐野(いはすの)と呼び、のち石神町と呼んだ)に移し、ここで大津宮関係の神々を祀つて、大津宮に関係のあつた氏族たちが表向きは龍王神祠として、大友皇子をはじめとする壬申乱に敗れた近江朝廷方の神霊を慰めたことに発するともいはれてゐる。光仁天皇の宝亀4年(773)12月3日にはこの神に正一位の神階を授けてゐるし、12月3日は天智帝の御忌日に当つてをり、古來この日をもつて例祭日としてゐたといふ。

式内社調査報告



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